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トップ・シークレット・アメリカ 最高機密に覆われる国家


9.11後のアメリカ、いろんな意味でそれまでのアメリカを制御していたネジがぶっ飛んだ。

我々は断じてテロには屈しない。
これは戦いだ。戦争だ。テロとの戦争だ。

となっていくと、過去には公然とは有り得なかった容疑者の暗殺、しかも法治国家である外国の施政権下で平気で行われるようになっていく。

国家機密を扱う組織がいくつも出来あがり、入り乱れ、収集する情報量があまりに多くなり、誰もその情報の実態を掴めなくなってしまいつつある。
またその国家機密を扱うはずのプロフェッショナル集団で作業を行うのは大半が民間企業からの出向者。
発注する側の官の上の方の人材からどんどん民間に引き抜かれ、発注される側の民間企業での報酬は政府にいた頃よりはるかに高額。

アメリカの敵=テロの標的はやがて米国国内へと向けられ、監視カメラに覆われた国へとなっていく。
特定される個人の数も膨大なら、収集される個人情報の量はさらに膨大な量に・・・。
超監視社会だ。
もはやジョージ・オーウェルの『1984年』の世界か?

いや『1984年』の方がビッグ・ブラザーという独裁者のためと目的がはっきりしているだけにわかり易い。
ここで収集される情報は誰が何のために集めたもになのか。何に使うものなのか、だんだんと誰もわからなくなっていく。

この著者の最も焦点を当てたいところはこれらの組織が出来あがり肥大化して行くことによるアメリカの多大な無駄遣い、なのかもしれない。

これら機密情報を取り扱う組織が縦割りとなってしまい、それぞれシステムも別々、情報の共有も満足にできていないのが現状。
ところが、その無駄を省いてシステムが統合し、情報が共有化されたとしたら、どんなことがおこるのだろうか。

個人情報どころか近未来小説のような全個人のヒストリーと全ての日常のデータベース化が実現してしまうかもしれない。

アフガンを攻め、イラクを倒し、アルカイダの幹部と呼ばれる人たちを暗殺しても尚、これだけ予算を投じ国内の個人情報を収集したとしても、アメリカはテロの脅威から抜け出ていない。
状況は変わっていない。

それどころか、各組織が集めたトップシークレットであるはずの情報が、意図も容易くハッカーの餌食となってしまっている状況を著者jはセキュリティの専門会社で目にする。

これらの組織はブッシュ政権時代に出来たものばかりだが、オバマの代になってなくなったものは何一つ無い。

それにしてもこの二人の著者、よくこれだけ調べられたものだ。
取材対象もトップシークレットなら、書いてある内容も充分にトップシークレットだろう。

取材させてくれる相手がいることにも驚きだが、どうどうとこの本が出版出来てしまえることがさらなる驚きだ。

ほんの20数年前の自国の民主化運動でさえ自国民の前では無かったことにしてしまうような隠ぺい国家ではまず考えられない。

そう考えると、アメリカという国のふところの深さにはやはり感心せざるを得ないか。

トップ・シークレット・アメリカ  最高機密に覆われる国家 デイナ プリースト (著)  ウィリアム アーキン (著) Dana Priest William M. Arkin 玉置悟 (訳)



数式に憑かれたインドの数学者


数学という学問、中学・高校までなら論理的思考を身につけるための学問という大義名分があるが、その先の課程、専門課程として取り組む数学やその先を行く数学者と呼ばれる人達が生涯をかけて成そうとする証明。
その証明が出来たところで、世の中何が変わるわけでもない。
誰が得をするわけでもなく、昨今話題を振りまいた「STAP細胞」のように、存在すれば世の中が大きく変わるといったこともない。まぁ、たいていの場合は。

仮に素数の成り立ちを数式で表し、それが正しい事を証明できたとしても、喜ぶのは世の中のほんの一握りの数学者、もしくは数学者を目指す学生達ぐらいのものか。

インドに生まれた天才数学者、ラマヌジャン。
この本、ラマヌジャンの評伝だということだったが、ラマヌジャンのことより、ラマヌジャンをインドからイギリスへ呼び寄せたケンブリッジ大の数学の教授ハーディの周辺の記述の方がはるかに多い。

ハーディの性癖(同性愛者なのだ)とハーディの周辺、そしてハーディから見たラマヌジャン。
そんなハーディ中心のタイトルの方がフィットする。

こお本ではラマヌジャンの偉業よりも彼がイギリスへ来てからの食事の悩みや体調の悩みの方が文字の分量としてかなりウェイトが高い。
大昔、ガンジー伝を読んだ時に、ガンジーがイギリスで学ぶ時にそんな食事の悩みなどという記述があっただろうか、さっぱり記憶に無い。
まぁ、食事の悩みや体調の方をメインにするのは致し方ないのかもしれない。
彼の思い付く算式をえんえんと書かれたって、読者には何のことやらさっぱり、なのだから。

ラマヌジャンには数式が湧いて出て来る。
数式が舞い降りて来る。
彼曰く、ヒンドゥーの女神ナマギーリが彼に数式を示すのだそうだ。
彼は証明が苦手。
ハーディは彼に証明の大事さを教えようとする。

だが、もし数式が勝手に舞い降りて来るのなら、その証明などどうやって出来ようか。

ラマヌジャンが数式を導き出す課程が本当にそのようなものだったのなら、ラマヌジャンにとって数学とは冒頭に書いた論理的思考を身につけるための学問でさえ無いということになってしまう。

この本はノンフィクションではない。

とはいえ、この時代について作者はかなり念入りに調べたのであろう。
第一次大戦前や、大戦中のイギリスという国の空気、ケンブリッジの周辺の空気などがかなり濃密に伝わって来る。

数式に憑かれたインドの数学者 上・下 デイヴィッド・レヴィット 著  柴田 裕之 訳



日本人はいつ日本が好きになったのか


「あなたは自国が攻められようとしている時に自らが戦おうとしますか?」
という問いかけに対して「Yes」と答えた人の比率が世界で最も低い国が日本なのだという。
「あなたは自国に対して誇りを持っていますか?」
の問いかけに対して「Yes」の低さも驚くべくものだったという。

それが、ここ最近の調査ではわずかながらもパーセンテージが上がっている。
震災後の整然と礼儀正しい被災者たちを見て世界が驚き、その世界が驚いたことに日本人が驚く。
尖閣の問題も自国を愛する気持ちを高めた要素、と筆者はみている。

だから、タイトルは「日本人はいつ日本が嫌いになったのか」ではなく「好きになったのか」なのだ。

この本に書かれていることの大半は、さほど目新しいものではない。
主旨は目新しくなくても表現方法が目新しい。

前段の日本人がどのようにして骨抜きにされて来たのか。
GHQのやって来た骨抜き作戦をカエルを時間をかけて徐々にボイルする「ゆでガエル」に例えるなど竹田氏ならではではないだろうか。

この前段あたりは、かなりわかりやすく書かれているので、義務教育の日本史(この日本史という言い方も氏の言葉を借りれば国史でなければおかしいのだという。確かに言われてみればそうだ)の教科書の先頭にでも持って来てこの昭和の戦後日本の成り立ちを学んでもらうには丁度いいかもしれない。
昭和の戦後から遡って過去の歴史を学べばいい。

日本国憲法の成り立ちのあたりの記述は簡略化されすぎているかな。半藤一利の「昭和史〈戦後篇〉」が、より詳しい。

中段の韓国についての意見は「やっぱりなぁ」という感じの竹田氏ならではのいつもの持論だ。

後段に書かれた古代カルタゴの例は興味深い。

ローマ帝国に敗れたカルタゴは軍隊を持たない事を約束させられ、その後経済重視の政策で急速な経済発展を遂げるが、経済以外の知的な倫理的な進歩を目指そうと何の努力もしなかった。
そのカルタゴの姿が戦後の日本とそっくり、ということ。

そしてそのカルタゴはローマ帝国に滅ぼされてしまう。
ローマ帝国はカルタゴに土地に塩を撒き、二度と作物が育たない土地にしてしまうのだ。

ここらあたりは是非とも副読本の中にでも入れておいてほしいものだ。

日本人はいつ日本が好きになったのか 竹田恒泰 著