カテゴリー: ナ行



少女不十分


10年前、まだ学生だった作者がとある交通事故に遭遇する。
ロードレーサーの自転車で通学の途中で信号待ちをしていたところ、目の前で小学生の女の子が赤信号を渡ってしまい、ダンプカーに跳ねられ、跳ねられたという表現では足りないぐらいバラバラに破壊されてしまう。

その女の子と一緒に歩いているもう一人の女の子が居た。
女の子は手にゲームを持っている。
共に歩いている子が跳ね飛ばされたことに気が付くが、まず行ったことは、駆け寄ることでも悲鳴を上げることでも無かった。
まずゲームの方へ向きあうのだった。
ゲームをセーブポイントまで持って行って、セーブする。
そうしてゲームを仕舞ってから、友達のところへ駆け寄る。
その事故は多くの人が見ていたのだが、皆、事故の当事者だけに目を向け、誰もそのことに気が付かなかった。
が、10年前の作者だけはしっかりとそれを見ていた。

そして彼女の持つ優先順位を異常だと思った。
まだ、そのままゲームを続けてくれたなら、と思った。

三十路を迎えた作家、西尾維新自身が10年前の大学生時代の自分を振り返るという話。これは物語ではなく一つの事件だ。
実際にあった話なのだ、と語られて行く。
そう言いながらも作家たるものは嘘を付く人間だとも語っている。

当時も今も極めてルーチン的な生き方をすること。
交通事故に遭遇する頻度が高いこと。
友達がいないこと。
他人の家に上がるなど幼少時代から数えても10回~20回程度なこと。
修理屋に出すぐらいなら、新品を買い替える性癖を持つこと。
編集担当が寿退社をする記念にこの本を書く決心をしたこと。

どこからどこまでが本当でどこからどこまでが作り話なのか。
出だしから読んで行く限り、その内容の正確さはさておき、全て本音で語っているように思わせられる。

そうして事件は起こる。
その事件が無かったら、彼は作家不十分のままで終わり、作家になれていなかっただろう、と自ら語る事件が。

そのトリガーとなるのが上記の交通事故だ。

この10年前の僕は、この少女にナイフを突き付けられ、この少女の自宅の物置に監禁される、というのがその事件なのだが、ここまで行くと、もう物語に入っているな、と思わせられる。

監禁だとか、そんな状況は寧ろどうでも良く思える。
作家志望の作家不十分君がもし、そんな事態に遭遇したら、いくら逃げおおせる状況だって、そんなもったいないことをするはずがない。

その「もし」を語っているだけで、もしそうなったなら、自分はこうしたであろう、というのがドキュメンタリーとして書いているとする所以ではないかと思えなくもない。
物語に入ってはいるが語っているその考え方などは、本音のままなのかもしれない。

十分に道を外れた少女ではあるが、「道を外れた奴らでも、社会から脱落してしまった奴らでも、ちゃんと、いや、ちゃんとではないかもしれないけれど、そこそこ楽しく、面白おかしく生きていくことはできる」
この言葉こそが、西尾維新の描いて来た物語そのものなのだろう。

そういう意味でこの本は10年間で世に出した作品を総括する集大成なのかもしれない。

少女不十分 西尾維新 著



放射線のひみつ


この8月6日にあの寒ナオトいや菅直人という人が平和記念式典に出席して、反原発・脱原発をぶち上げる演説をする、というウワサがある。

現在、8月6日の未明なのでその真偽はまだ定かではないが・・。
今回の3.11の大惨事によって多くの日本人が悲しみや苦しみの居、未だ先の見えない不安の日々を過ごす。
そんな中で唯一、今回の大震災を喜んでいるとしか思えない男が日本のリーダーの立ち位置に居る。
福島の原発事故を嬉々として喜び、反原発・脱原発を叫ぶことでなんらかの人気を回復させようという魂胆だったなのだろうか。
見え過ぎていて反原発・脱原発で一致しているはずの人たちですら、もはやほとんど支持する人間はいないだろう。
この男の目的がさっぱりわからない。
嫌われていることが喜びなのか、嫌われてからの方が寧ろ元気になっているのはもはやヤケクソなのだろか。
そして目的のわからぬパフォーマンスのみをさらに嬉々として演じ続ける。

復旧・復興を国のリーダーが進めずとも東北各地域は独自に徐々にではあるが復旧しようとしている。
その復旧・復興というものから全く除外されてしまっているのが、福島の避難勧告地域。
人の姿が全く無くなったゴーストタウンになろうとしている。

原発事故の被害にあっているのは何も避難勧告地域の人たちばかりではない。

牛を育てていた畜産農家はとうとう福島、宮城、岩手に続いて、栃木県までもが県内全てで出荷制限。
被害はそれでとどまらないのは明白だ。
牛の次はなんだ。
米も新米は売れず、古米が売れるのだとか。

放射能漏れ、放射能に汚染された牛、野菜・・連日のように流れる報道。溢れる報道。
福島の牛肉だろうが宮城の牛肉だろうが、買って食べるよ、という人が居たってどこにも売ってやしない。
参加組合内で福島産の野菜や牛肉を買うべく働きかけをしようじゃないか、と言ってみたところ、各々賛意はあれど、手段がないので最終的には誰もが口をつぐむ。

別に子どもや赤ちゃんや妊婦の人に食べてもらおうと言うのではない。
もう40も50も過ぎた人ばかりなら、別にいいじゃないか。
出荷停止をするよりも購入者に選ばせてくれないか。
もしくは免許制じゃないが、40や50を過ぎた人は免許証を見せて購入許可をくれるとか、なんとか出来ないのか。

懸命に生産したものを捨てるしかないという無力感。ものを生産した人なら誰しもわかるだろう。これをなんで救えないものなのだろうか。

この「放射線のひみつ」という本。
おそらく読んで反発を覚える人は多いだろう。

何故なら「放射線は大して怖くない」ということを説いているからで、「そんなことまだ立証されていないだろうが」という反発は当然ながら出て来るだろう。

それでも「放射能」とは「放射線を出す能力」のことである、カタチあるものではないからして、「放射能漏れ」だとか「放射能を浴びる」だとかという表現は間違っているのだそうだ。連日の報道は言葉を間違えて使っているわけだ。
「被ばく」は「被爆」では無い。とか。
まずこういう言葉の説明から始まり、次にXXシーベルトなどの単位についての説明。

そして、放射線は普段から身の回りにあるもの。という説明。
100ミリシーベルトで発がんの可能性が0.5%云々の説明。
日本人の1/3はがんで死亡するのだという。
100ミリシーベルトでがんによる死亡率が33.3%から33.8%に増える・・云々の話。
いずれもわかりやすい。
平易な言葉で書かれている。

ただ、ここで書かれていることはもう大半は知っていることだった。
早朝のローカル番組でそういうことを毎日解説する人が居る。
彼ははそういう話をしながらも自らの原発に対する立場は明確にはされない人だったが・・。

中部大学の武田教授というCO2は削減するな、で昨年あたりから急に名を知られるようになった先生が居られる。
この先生、原発推進から反対に100%舵を切られたことでも有名なのだが、先日、講演を聞く機会が有った。

講演の中で武田先生が言うのは何シーベルトがただちに健康に害がある云々よりも寧ろ、それを強制されて吸わされたことに腹を立てておられる。
この先生、禁煙運動とかは大嫌いで、自分で好きで健康に害があるとわかりつつも吸っている人はそれでいいじゃないか、という論者。
自らはお吸いにならないので自分では吸わないが、吸いたい人はどうぞ吸って下さいな。但し、自分にはタバコの煙を吹きかけないでくださいよ。
だって自分は吸いたくないんだから・・・。
放射線も同じことで自ら、好んで浴びたいのなら構わないが、浴びせられたくもないのに浴びせられる。こんな不愉快なことはない・・と。

そう。
中川先生が「放射線はさほど怖くはないんです」とこの本で説いていたとしても武田先生の言う通り、誰しも自ら好んで浴びたいわけではないわけで、強制的に浴びせられることに対しての憤りというものを解決してくれているわけではない。

それでも思う。
強制的に浴びせられてしまった農家の産物を救いたい。
それこそ好んで口にしようというのだからそれはこちらの自己責任においてである。

世の中、好き好んでタバコを一日二箱も三箱も吸う人だっている。
もちろん自己責任においてである。

どうか、強制的な出荷停止などではなく、自己責任の上で買えるようにしてはもらえまいか。

いや、あのパフォーマンス男が居座る限りは何をどうせよ、と言っても無駄か。

放射線のひみつ、中川恵一 著



死亡フラグが立ちました


誰がどう見ても単なる事故死。
が、実は完璧に事故死と見せかけた殺人だったとしたら・・・。

主人公は都市伝説をテーマにした雑誌の記者。

舞い込んで来たのが、疑惑代議士秘書の交通事故死にまつわる話。
その代議士が疑惑を持たれて、その鍵を握る男とマスコミが注目し始めた時だけにあまりにタイミングがヒットしすぎるのだが、状況からみて単なる交通事故であるとしか思えない、という事件。

その事件を演出したのが「死神」と呼ばれる殺し屋で、そのターゲットになると、24時間以内に必ず死ぬ運命になるというのが都市伝説。その「死神」を取材して来い、と命じられる主人公記者。

その状況証拠だけを見れば事故でしかないはずのものでも、被害者がそこへ向かうように、またまた事故が起こるように誘導するトラップがいくつもいくつも仕掛けられている、という仕掛けの謎解きをして行くあたりは読ませてはくれる。

それでもねぇ。
バナナの皮で転ぶようにいくら誘導してみたところで、昔のアメリカアニメの世界みたいにバナナの皮ですってんころりん、なんてやつ見たことないし。
吉本新喜劇の浅香あき恵の鼻の油で転ぶ方が真実味があったりして・・・。

それにいくら事故の方へ事故の方へと誘導してみたって、所詮は誘導。
うまく行って軽傷。すごくうまくいって大怪我がせいぜいか。
この先何年もに亘ってトラップをかけ続ければいつかは・・、ということもあるかもしれないが、必ず24時間以内とはまた、ハードルを高くしてしまいましたね。
それだけ書き手のトラップのアイデアが問われてしまうわけだ。

それにしたって その報酬がたったの100万円、って安すぎるだろ!
一人の人間を誘導するにあたっての事前調査費用だって馬鹿にならないだろうし、誘導させるための人にも金はかかるわなぁ。

っていうより、突っ込みどころはもとより満載。
ミステリーものでも、ノンフィクションでもなんでもない軽いギャクタッチの読み物なので、敢えて突っ込みどころを満載にして、突っ込んでもらう反響を期待して書いているんだろう。

だからあんまり突っ込みを入れるのは作者の戦術にまんまと嵌ってしまったということになってしまう。
だからこのぐらいにしておこう。

「死亡フラグが立つ」という言葉、最近良く使われるようになった言葉。

もとより、この「フラグ」という言葉は我々コンピュータのプログラム屋さんの用語で、特定の条件の時に「フラグ」をON、OFFすることで後にこの「フラグ」をON、OFFを判断し、処理を分岐させる。

ちなみに「フラグ」を多用したプログラムは、下手くそなプログラムとして忌み嫌われる。

この本では「死亡フラグが立つ」場面をかなり多用しているわけだが、それ即ち多用したプログラム同様とは申しますまい。
こちらは単なる娯楽ですから。

死亡フラグが立ちました  七尾与史著