カテゴリー: ナ行



文学少女と飢え渇く幽霊


太宰で終わりじゃなかった。
続き物だったんですねぇ。

しかしまぁ、難しいテーマに取り組んだものですねぇ。
この本、「嵐が丘」がモチーフです。
「嵐が丘」という名前は大抵の人は知っているでしょうが、ちゃんと読んだ人も稀なら、読んだとしても内容までちゃんと覚えている人は稀なのではないでしょうか。

私見ですが、太宰とは違ってなかなか感情移入出来る部分がほとんど無いからではないでしょうか。
愛だの憎しみだの復讐だのっていう小説はいくらでもありますが、自分の理解を超えてしまうと、なんだこりゃ、と途中で投げ出した人も多いはず。
実は私もその口です。
あらためて読めば、読みおおせたかもしれませんが・・。

それにしてもこの野村美月という人、チャレンジャーですねぇ。

本って読んでいますと、読み手の傲慢な判断ですけど、あぁこの作者はさぞ楽しみながら書いているんだろうなぁ、と勝手に想像してしまうことも多々あるのですが、この本の場合、作者がうんうんとうなっている場面を想像してしまいました。

こういう何かをモチーフにした作品というもの、かつてもあったでしょう。
小説ではなく神話などをモチーフにしたものは当たり前の如く存在します。

でも、こんなになじみにくい素材をモチーフにして、尚且つそれを掘り下げて、自らの登場人物に再現させながらも、原作の意図を反映させながらも違うストーリーを描ききり、且つミステリーとしても成り立つように全く別の形で再現してしまう。

何か新たな分野の開拓者のようにも思えます。
もちろん私が知らないだけで、そんな作品はあまたあるのかもしれませんが・・。

ただ途中放棄してしまうような作品を再度読んでしまいたくなるほどの書き手となるとどうでしょう。
そんな力がこの作者にはあるのかもしれません。

こうなったら、とことん野村美月さんには書いて欲しいですね。
モチーフにする題材ならヤマほどあるでしょうし。

ただ、イラスト作者には大変失礼なもの言いですが、、出版社の方針とも違うのかもしれませんが、イラスト一切無し、表紙もシックなデザインにしてもらえませんかねぇ。

その方が一応大人としては人に薦めやすいんですよ。



文学少女と死にたがりの道化


「恥の多い生涯を送って来ました。」という出だしで始まる。
ご存知、太宰治の『人間失格』。
その人間失格をそのままモチーフにしてストーリーは進んで行く。
まるで、人間失格をそのままなぞらえるが如くに。

ここでは10年前の人間失格に染まりきった高校生と現時点の人間失格に染まりきった高校生が登場する。

そして人間失格の主人公そのままに道化に依って、朝から晩まで人間をあざむいているはずの自分の実態を見破られた人間を怖れる彼ら。
そう、人間失格の中でお道化で笑いをとっている最中、唯一「ワザワザ」とささやくあの同級生に出会った時の主人公さながらに。

この本、本の装丁から言えば、女子中学生ならまだしも、いい大人がちょっと人前で読むには憚られるような少女ものっぽい表紙なのだが、中を読み進んで行くうちに、あまりに太宰への造詣の深さに驚かされる。

主人公の先輩で自らを文学少女と名乗る文芸部の先輩が、羊よろしく、人の書いた文章を食事代わりに食べて行く、なんていうあたりはご愛嬌だろう。
肉筆のものが味があるなんて言って、書いては食べてしまっていては、この文芸部では一切作品は残っていかない。

そんなことよりもこの天野遠子という先輩文学少女が太宰の生き方共感者に投げつける言葉が素晴らしい。
太宰の作品を全部読み終えるまでは死んではダメ!

走れメロス その一番素晴らしいところはメロスが全裸で走っていたところである、と。なるほろ、原著を読んだ人しか知り得ないことだ。
メロスが全裸だったなんて。

「葉桜と魔笛」を読め! 優しさと希望と光がある!

「雪の夜の話」を読め!「皮膚と心」を読め! みんな優しくて純情で愛らしい!

「ろまん燈籠」を!「女生徒」を!

「おしゃれ童子」のユーモアを!

「如是我聞」で見せる太宰の人間臭さを!

「斜陽」の力強さを読め!

 読め!読め!読め!読め!読め!と。

太宰は「人間失格」だけじゃない!

ハニカミ屋で優しい人たちがいっぱい登場するが強くもなれる人たちだ!

決して破滅型の作家じゃなかったことがよくわかるだろう・・・と。

なんとこの本はまさに太宰の入門本そのものだったんだ。

それにしても太宰という作家、平成のこの世においても何故こんなに人気があるのだろう。

昭和前期と平成という時代の違いは過去の歴史のどの時代の差より大きいに違いない。
それでも時代を超えて、感情移入させる力が太宰の作品にはあるのだろう。

かくいう私は「トカトントン」なんかが好きだったりします。



小林多喜二 21世紀にどう読むか

永らく歴史の中で埋もれていた小林多喜二という存在。
2008年に『蟹工船』が脚光を浴び、再び世にその姿を表す。
ではその生き様とはどんなものだったのか。

ノーマ・フィールドという人、母親が日本人で日本にての在住期間もあり、専攻が日本文化だとは言え、日本語で物を書くよりも英語で物を書くことの方が多いだろうに、なんとも日本の物書きよりもはりかに達者である。

小林多喜二についても丹念に資料を調査し、取材をし、綿密に分析をしている。

昨年あたりに『蟹工船』がブームとなったのは、非正規雇用社員として、ワーキングプアと呼ばれる人達の共感を得たため、と言われる。

メディアもこぞって、派遣業界を非難し、非正規雇用社員を放置した政治を非難した。

ところが今年に入ってどうだろう。非正規雇用のみならず正規雇用社員にしたって、自宅待機などという会社がわんさか出て来ており、もはやどこが潰れてもおかしくないような状態にてはそこの正規雇用社員だといったところで不安定度合いで言えば非正規と何ら変らない。

一部メディアや一部の政党がは、『蟹工船』の時代の無産労働者と、現代の若者を同列視するように喧伝し、小林多喜二関連の記事も軒並みそういう論調だったが、ノーマ・フィールド氏はそういう怪しきブームがあることなども踏まえて執筆したのだろうが、さような安易な結びつけを一切していないところが、冷静で、好感が持てる。

農地解放前の時代の地主VS小作人と現代の正社員VS非正規社員、現代の経営者VS従業員、それらの関係を同列に扱えるだろうか。明治・大正・昭和の戦前までの時代までは、当時の棒給の格差たるや今日の比では到底ない。
役人と無産労働者の棒給の比、経営者と労働者の棒給の比、それこそ何百倍、何千倍の世界である。

現在の日本においてはほんの一部(ITベンチャーと名乗る連中)を除いて、ほとんどそのようなことはないだろう。
せいぜい何倍レベル。桁違いまでいかないのではないだろうか。

『蟹工船』という本、世界中に翻訳されたらしいのだが、今の時代にその状態に一番近いのは少し前の、いや今もか?世界の工場の地位を欲しいままとするお隣、中国かもしれない。
彼の国の工場での劣悪な労働環境については、あの非正規労働者の味方の様な石田衣良の池袋ウエストゲートパークでも『死に至る玩具』として書かれている。無論、他にも多く書かれているが。
最低賃金法はなんとか出来たと聞くが、日当が百何円、残業してもプラス数十円の労働者が居ると思えば方や、数百万の自動車を安い安いと、いとも容易く購入する層もいる。
その労働者が今年の春節で里帰りをするあたりから、もう工場へ帰って来なくていいよ、と職を失い、路頭に迷う。
アメリカの自動車業界でいくら人員削減したところで組合からの失業手当で充分に生活できるレベルとは世界が違う。

それはさておき、小林多喜二という人、貧困層に目を向け、最後は獄中拷問死という暗いイメージが先ず浮かんでしまうが、この本を読む限り、かなり明るい人だったようだ。
イデオロギーなどはどこかへ置いておいて、再度『蟹工船』を読みたくなってしまった。

小林多喜二 21世紀にどう読むか ノーマ フィールド Norma Field 著(岩波新書)