カテゴリー: ナ行



転生


「し」の次に「転生」などと言うタイトルが続くと、いよいよこのサイトも宗教めいて来たか、と思われるかもしれない。

まぁ宗教とは全く無縁ではないかもしれないが、この本は「心臓移植手術」の話である。
主人公はまだ若い学生。拡張型心筋症という重い心臓病でいつ死んでもおかしくはなかったのだが、ドナーが現れ、心臓移植の手術をしてもらう。

心臓移植の手術は大成功で、それまでは食べ物などほどんど受け付けない様な身体だったのが、手術の翌朝には食欲が旺盛になり、身体からエネルギーが湧き出て来る。

それと同時にこれまでに無かった才能が現出する。
聞いた事も無いショパンの曲をさわりを聴いただけで題名がわかり、絵画の才能がある自分にも気がつく。

それにこれまでに出会った事もない女性の夢を見るようになり・・・。

この展開は・・・。かつて読んだ本に、移植手術で殺人魔の内臓やらをそっくり移植してしまって、その殺人魔の意識を引き継いだ人の話なんかがあったが、そういう展開か?

その逆も確かあったような・・。殺し屋が移植手術を受けた後にあたたかい心を持つというような展開。

はたまた、一旦は死んでしまったのだが、この世への思いが断ち切れなく、霊界から現世へ他の人の身体を借りて一時的に戻って来る類の話。

そんな展開になっていくのだろうか・・などと考えてしまったが、もっと違うテーマがあった。

人間の記憶の在り処はどこなのか。
通常考えれば、脳でしかないのだが、大昔より心=心臓であり、全く違う文化で生まれた英語のheartもやはり心であり心臓だ。
単なる偶然なのか。

血液を循環させる身体の1パーツでしかない心臓に心があるのではないか、と主人公が考えるのもうなずける。
そこへエミリア・ドースンというアメリカの心臓移植体験者がドナーの記憶や趣味や嗜好までそっくり転移したという手記を読むにあたって、主人公の思いは確信に近くなって行く。

この話、そういった人の記憶の在り処を探していくことと併行しながら、レシピエントとして生きる人の思いも描いている。

なんせ心臓移植を受けたということはドナーの心臓はその時もまだ動いていたのだから。思いは複雑なんて簡単な言葉では片付けられないだろう。

ジャンルで言えばミステリーなのだそうだが、ミステリーというよりももっとテーマが前面に出た小説。 もちろん少々荒唐無稽なところもあるのでそれを差し引けば社会派小説のと言ってもいいかもしれない。

転生  貫井徳郎 著



きみとぼくが壊した世界


タイトルを見てわかるとおり、「きみとぼくの壊れた世界」「不気味で素朴な囲われた世界」の一連のシリーズの一冊。

作中作の連発。リレー式の作中作。なかなか面白い試みだろうし、ってちょっと作者から嫌われる上から目線っぽかったかな。

ある意味仕方がないでしょ。作者が文中に書いている如く、読者は作者を選べるけれど、作者は読者を選べませんから。たまには嫌いな上から目線読者にもあたってしまいますよ。

でもこの作中作ってやつは最終的になんでもありになってしまうんじゃないのかな。夢オチみたいに。
小説なんてそもそもなんでもありじゃないかって、うーん、確かにそうかもしれません。

西尾さん、たぶん遊んでますよね。楽しんでますよね。これ書きながら。

「せんたくもんだい編」とか「あなうめもんだい編」とか「ちょうぶんもんだい編」とか、「ろんぶんもんだい編」、「まるばつもんだい編」とか・・・っていう章タイトルにしたって、やっぱり遊んでる。

ロンドンが舞台というのがいいですね。
ちょっとしたツアーBOOKになってたりして。なってねーよ。そんなもん、って突っ込みを入れるのは誰?

ロゼッタストーンに異様な興味を示すのは櫃内様刻か?串中弔士君なのか?

「これを読み終えた人は必ず死んでしまう」という本を執筆したイギリスの作家は?

病院坂黒猫がシャーロック・ホームズの熱狂的ファンだったり、蝋人形に恐れおののいたり、と新たな一面が出て来ていながら、それも作中作なのかもしれない。他の登場人物が勝手に作ったキャラクターなのかもしれない。

「きみとぼくの壊れた世界」「不気味で素朴な囲われた世界」の場合、こういうところで紹介するのをの少々ためらってしまうようなところがありますが、この本の場合はそんな心配も無用。

まさに愉快愉快、楽しい一冊なのです。

きみとぼくが壊した世界  西尾維新著



化物語


それにしても軽快なテンポだなぁ。

西尾維新の作品ってどんどんのりつっ込みのテンポが良くなっている様な気がしますよ。
西尾維新の本を読もうと一番最初に本屋へ買いに行った頃、例えば戯言シリーズなどを・・・そこそこの規模の本屋さんなのに「西尾維新の・・・はどのあたりに?」と店員さんに聞いたら、なんか不審人物を見る様な目で見られてしまった。
連れていかれた先の本棚の周辺には何故か牛乳瓶の蓋の様な眼鏡をかけた学生と思われる女の子がチラホラと居る。
見れば、どうもホラーもののコミック本のコーナーの様に見えた。
な、な、なんでこんな売り場なんだー。
しかも本棚に並んでいるのでは無く、本棚の下の引き出しから取り出してくれた。
本棚にも並べてもらえない様な本なのか?ってその当時は思ったもんだ。
そのコーナーに少しでも居る事はなんとも絶えがたく、出してもらった戯言シリーズを鷲づかみにしてレジへと向かったのを覚えています。
以後、西尾維新本はオンラインでしか購入したことがないので今はどんなコーナーに並べられているのかは確かめていませんが・・。

さて「化物語」はその名の通り、お化け (怪異と言った方がいいのかな) のお話。

「おもし蟹」 「迷い牛」 「猿の手」 「蛇切縄」 「障り猫」 ・・なーんていう怪異が登場します。
これらは民間伝承か何かがちゃんとあるのでしょうね。
こういう「怪異」に出くわす話はいろいろあるでしょうが、ここでの怪異達は「蛇切縄」以外は全て自分の心(願い?)が生み出した産物。

神原駿河の「猿の手」なんて使い方次第では結構役に立つかも。
主人公の「吸血鬼」、これ使い勝手良すぎる。
怪我の治癒とかで便利すぎるものだから主人公もかなり濫用気味。

怪異のことはさておいても、まいどのことながら主人公のまわりにはやたらと女の子が多いのですよね。

この主人公もその例にもれず女の子に囲まれていてしかもモテモテ。

戦場ヶ原ひたぎ、なんという凄まじい名前。凄まじい毒舌でありながら愛情は豊かでその毒舌さえ可愛らしくもある。
またまた主人公がそれをのり突っ込みの勢いと感じるだけの男としての度量が無ければ、その毒舌の結果は悲惨なものにしかならないでしょうが・・。

戦場ヶ原の後輩の神原駿河、学校のスターだったはずが以外な一面を発揮。
明るいエロっこの神原駿河。エロっぽい言葉をはきながらいやらしさは微塵も感じない。
これも戦場ヶ原同様にいやらしく感じない度量がなければこの人間関係は成り立たない。
他にも羽川翼、千石撫子、何故かなでしこではなくなでこ、八九寺(ハチクジ)真宵・・・と女の子ばっかり。

うらやましい。んん?本当にうらやましいか?
それは主人公君に聞いてみるしかないでしょうね。

戯言以来出版されている西尾氏の本にはマンガチックなイラストがつきもの。
後々、映像化された時に足枷になるのか、はたまたその逆なのかはわからないですが・・・。
読書と言うものやはりコミックではないのですから、自分の想像力にてそのキャラクターをイメージして読むものと心得ているのでこういうイラストって本当に必要なの?などと思ってしまいます。
直近では「刀語」なんか本の中までイラストがいっぱいだったり。
でもがご本人のあとがきにてはいつもそのイラストに感謝されておられるようなので執筆者のモチベーション維持になんらかの要素を与えているのかもしれませんね。

まぁ、あそこまでマンガチックなイラストだと返ってご愛嬌と受け取ってイラストなしの本と同様に自分のイメージで勝手に読んで適当に楽しんでますから決してじゃまになっているというほどのものではありませんし。

じゃまになっているという意味では、電車の中で読むにはカバーが欲しくなる、というぐらいのことでしょうか。
なかなか西尾氏執筆の主人公の域には達せられませんので。

それに映像化なんていったって、西尾維新の本は絶対に活字の中でこそ活きるのではないかと思っています。

あのムチャクチャ面白いのり突っ込みにしても活字だからこそだろうと思ったりしているのです。

誤植を使ってののり突っ込みなどはその最たるもの。
人を叩いた後で、「命という漢字の中には叩くという漢字が含まれている・・」などというセリフ。
見蕩れるの蕩れるって草冠に湯って書くのだ云々・・・
「蕩れる」は次世代を担うセンシティブな言葉・・・このあたりは西尾氏ならではの感性でしょう。素晴らしい。
こういった表現はやはり活字ならではの世界じゃないでしょうか。

もちろん、この恐るべき才能、西尾維新がどこを目指しているのかなど知る由もありませんが・・。

とにかく楽しく読ませてもらいました。

化物語(上) (下)  西尾 維新(著) VOFAN(イラスト)