カテゴリー: ナ行



武名埋り候とも


忠臣蔵を知らない日本人は少ないだろう。

浅野内匠の殿中での吉良上野介への切り付け騒動で浅野内匠は即刻切腹。

播州赤穂藩はお家取り潰し。

大石蔵之助をはじめとする赤穂浪士は、お家再興をかけての運動にも破れ、宿敵である吉良上野介へ討ち入る。

もし大石蔵之助がお家再興に成功していたら、赤穂浪士の討ち入りは歴史に残らなかった。

この物語は一歩間違えば、第二の赤穂浪士が世に出たかもしれない、という類の話なのである。

萩領との国境に生えた一本の松の木をめぐる争いから、徳山藩は改易に追い込まれる。

藩主毛利元次は新庄藩にお預けの身。

藩士は萩藩に吸収。

それを不当な処分だとして奈古屋左衛門里人をはじめとする数名が藩を再興させるべく運動する。

辛苦の再興運動の結果、最終的に藩は再興する。

赤穂浪士の忠臣蔵からたった15年後の事である。

この本が出版されたの1998年の年末。ちょうど年明けからNHKの大河ドラマで「忠臣蔵」が始まる時なのだ。

うーん。なかなかにあざとい。あざとくグッド・タイミングを見計らったんだろうな、などと勝手に想像してしまう。ここでいう「あざとい」とは誉め言葉である。

この本、古本屋の片隅で埋もれているのを見つけた。
見つけた時は、なかなかの掘り出し物、と思ったのだが・・・。

何か物足らないのである。

ノンフィクション、というジャンルに拘りが強すぎるからなのだろうか。

「忠臣蔵」にしたっておおもとは史実でも10人が書けば10人なりの「忠臣蔵」が生まれる。

吉良上野介をかくまった上杉家の刺客と赤穂浪人とが死闘を繰り広げるものがあるかと思えば、吉良の狙いは赤穂の塩田作りの秘法だったというものや、大石は討ち入りなど全くするつもりが無かったのに、急進派に押し切られていやいや討ち入ったというものや、吉良は何も悪くない説・・・

いすれも、討ち入りをしたという行為だけでも充分なのにそれ以上の意外性というもので味付けをしているのだ。

ノンフィクションだから史実に無い事は書けない、というのであれば話の中の会話だって作者はその場で見聞きした訳では無いのだから、書けない事になるのではないだろうか。
お家再興で結果、平穏無事というだけでもドラマチックでないのだから、多少味付けを濃くしても良かったのではないだろうか。
意外性という意味ではお家再興に最も貢献したはずの奈古屋左衛門里人が藩に戻らず、姿を消してしまう、という事だろうか。

その場に居合わせていなくとも、まるで居合わせていたかの如くに登場人物の個性をもっと豊かに描いていれば、この本は古本屋の片隅以外でも見いだす事が出来たのではないだろうか。
まさにタイトル通り、埋り候なのである。

などど偉そうな事を書いてしまったが、非難している訳ではない。
よくぞ、こんなネタを掘り当てたものだ、と感心している。
欲を言えば、という事である。

ちなみに徳山という地名も徳山市が平成の大合併で周南市となり、だんだんと忘れ去られ様としている。

徳山藩の存在もそのものも歴史の渦の中でだんだんと薄れて行くのだろう。

それだけに徳山藩を扱ったこの本は貴重だと思うのである。

武名埋り候とも―周防徳山藩秘史  西岡 まさ子 (著)



フェイク

楡周平ですぐに思い出すのはあの朝倉恭介を主人公としたいわゆるハードボイルドもの。
単なるハードボイルドとはまた違ってこの主人公、なかなかに頭脳プレイヤーなのである。
「Cの福音」、「猛禽の宴」、「クラッシュ」、「ターゲット」・・・最終完結編まで6冊ほどだったか。
あれは読みごたえがあった。

「フェイク」では朝倉恭介の様な天才は登場しない。
主人公は就職戦線から逸脱した三流大出の男で、やっと就職出来たと思ったらそれはクラブの経営会社で銀座のクラブのボーイとして薄給で長時間の労働をさせられている。

この本での印象は銀座という街をとても第三者とは思えないぐらいに良く描写している事か。
この話に登場する銀座のママの華麗さと言ったらどうだろう。

かつての大阪北新地。銀座に負けず劣らずの一流のクラブがひしめいていた。(と思う)いつの頃からか、全てが一流だった(と思っていた)時代から今の新地をみると一流どころは相変わらずそうなのだろうが、なにかもっと小市民的なというか庶民的なレベルの店が増えたような気がする。
ここで働く女性は客あしらいと言う意味ではプロ中のプロだったと思ったのはそう思った頃が単に若かっただけなのだろうか。
なんか普通のコと言ったら失礼になるだろうが、大学生か専門学校のバイトが居たりする。
経済新聞を欠かさず読んで、客の話題のツボを押さえるなんてとんでもなく、席に付かれたらこちらが疲れてしまう様な、客に気を遣わせないどころか、客の方がわざわざ気を遣わなければならない。そんな店など今ではもう当たり前なのか。

昔、学生時代に意味も無く大阪の中之島図書館へ通っていたのは、当然新地飲みに行く身分でもない自分が、図書館からの帰り道で新地へ向かう夜の蝶とすれ違う、その瞬間の為だけでは無かったか・・・。
あの頃の北新地なら充分銀座に匹敵していたのではないだろうか。

学生時代に新地でバイトをしていた友人の話を聞くだけでも、往年の新地のママには豪快な話はいくつも出て来る。
「車の免許を取りに行く事にしたの」
と、まだ教習所の申込書をもらって来ただけで、頭の中はもう車を運転出来る気分になって、教習所へ行く前に早速、外車を購入したとか。
で、結局教習所へは一回行ったっきりもうそのままだったり。

この本に登場する若き美貌の麻耶というママも自分では運転をしないがベンツを持っている。
送り迎えの時以外は自由に使っていいと言われた主人公はそれだけでもう有頂天。

ここではいくつものフェイクが登場する。
一本10万もするワインが原価3万のものから三千円のものに代わっていたところでそれに気が付く客など一人も居ない。

この「フェイク」の痛快さは、やはり金銭授受、というやり方の巧妙さ、というよりも面白さ、と言った方がいいだろうか。
誘拐事件にしたって恐喝事件にしたって、一番リスクが高いのが金銭授受の時だろう。
それを直接授受せずして金を手にする。

内容の一部は、かつてあったあのグリコ・森永事件を思い出させてくれる。
あの事件についてはいろんな説が飛び交ったが、犯人グループが金銭の授受の方法を何度も指示しながら、表面上では受け取りに失敗している。
もちろん裏ではしっかりと授受があったというのが大方の見かたであったかとは思うが。
またまた諸説ある如く、金銭授受そのものはフェイクで、実は株の売り抜けでボロ儲けしたとかなんとか。
あんまり書いてしまうとこの「フェイク」のネタバレになってしまうので書けないが、この本、そういう痛快さを持っている本なのである。
主人公の友達の趣味が競輪だった、という所がミソである。

フェイク  楡 周平 (著)



DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件


DEATH NOTEのノベライズもので、西尾維新がどんな切り口でDEATH NOTEを切って来るのか、楽しみでした。
この本にはデスノートというノートは出て来ません。
主人公は DEATH NOTE の本編では脇の脇役にすぎなかった美空ナオミ、とL。
内容は、デスノートがこの下界へ現れるより以前に発生した「ロサンゼルスBB連続殺人事件」。
デスノートとは全く関係の無い、Lとワイミーズハウスの物語と言ってもいいでしょう。

キラに関しては
「単なる恐怖政治を敷こうとした殺人鬼」
「馬鹿馬鹿しいほど幼稚極まりない」
と切って捨てただけでまるで相手にしていない。
賢いヤツほど自らの力を隠すのが当たり前なのに、キラはそういう力がある事を公開する自己顕示欲の塊で、ノベライズに値しないほどあわれなヤツと言うわけです。
ほどんど同感ですね。
私こそが新世界の神だ、と言うあたりはもう壊れちゃったのかな、とも思いますよね。
それに、ひっそりと悪人の名前だけ書いていればまだしも、自分を捕まえようとする人間まで殺そうとして、どんどん捜査の輪を自ら狭めてしまうという愚かさ。

また、人が人を殺害する、という事は大変な事なんだ。人はそう簡単に死なない。
それをノートに名前を書くだけで行ってしまうという事がいかにルール違反か・・・。
という記述には殺人に対するルール違反の裏に推理物を書く人間にとってのルール違反、「つまり人が人を殺害するについていかに綿密な計画作りをし、根拠付けをし、どうやったらそんな事が出来るの?というところを最後に種明かしして行く、逆に言えばそれだけ緻密に考え抜いた結果である、というのに、それをたったノートに一行名前を書くだけでというのは書く立場からもルール違反」と作者は言いたいのかもしれません。
実際にこの「ロサンゼルスBB連続殺人事件」は実に緻密な組み立てがなされています。
『クビキリサイクル』という見事な推理もので世に出て来た西尾氏ならではの作品だと思います。

あと、「本当の名前」というものへの問いかけもあったのではないかと考えるのは考えすぎでしょうか。
デスノートへ書く名前は偽名ではいけない。という決まりがありますが、本当の名前とは一体なんなんでしょう。Lはあるときにはエラルド・コイル、ある時にはドヌーヴ、ある時には・・・と探偵の名前を使い分け、それはエル・ローライトという名前よりもよほど名前として通っていた人なのですよね。
本当の名前とはいったい何か。
戸籍上の名前?
つい先日、20歳になるまで戸籍を取得していなかった男が逮捕された。
彼には書かれる名前が無いのか?
また世界には戸籍登録されていない人なども大勢存在するでしょう。
彼らには書かれる名前は無い?
名前とはその名前を聞いてその人を特定出来るもの。秀吉は木下藤吉郎か羽柴秀吉か豊臣秀吉か、どれもその時々で全部正式な彼の名前でしょう。
ではLはどうでしょうか。世界の大半の難事件を片づけたとされるL。
この時点ではLと名乗っている以上、Lが本当の名前では何故いけないのでしょうか。
別にコミック相手に熱くなっているわけではありません。
このノベライズはノートに書いただけで殺人を犯すという手段と同時に「本当の名前」を書くという行為、あたりも併せて指摘したかったのでは?
だからこそ、BBという「名前」というものに拘った殺人事件を描いたのではないでしょうか。
この作品は言うまでも無く推理小説です。しかもかなり緻密な。これを書く事で殺人事件というものはこういう緻密なものなんだよ、というお手本というより挑戦としてのノベライズ、ととらえるのは少々うがった見方でしょうか。
西尾氏自身が『DEATH NOTE』の一ファンだとどこかに書いていたのを記憶していますので、やはりうがちすぎですよね。

最後に死神の目(人を見るだけでその人の本当の名前と死ぬ日が見えてしまう目)を持ったBBには美空ナオミの死ぬ日はいつに見えていたのでしょうね。
言わずもがな、デスノートも死神の目も死神の道具。
デスノートで殺される日が見えていたなんてことがあったとしたら・・・

やめておきましょう。
Self-contradiction の世界に陥ってしまいます。

DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件  西尾 維新 (著)