カテゴリー: ナ行



×××HOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル


アニメが原作でテレビドラマ化、これ結構あるパターン。
原作小説をアニメ化、これも結構あるパターンでしょう。
原作アニメを出版。併行して同じ話を小説の単行本として出版する、というパターンもままあるパターンかもしれません。
この本の場合、原作は「xxx HOLiC」というコミック本です。
原作者はCLAMP CLAMPというのは女性4人の創作集団なのだそうです。

「アヤカシ」が見えてしまう高校生、四月一日(ワタヌキ)君と、どんな願いも叶える代わりにその人から同等の対価を貰う店の女主人壱原侑子(ユウコ)さんが主人公のお話。

四月一日はユウコさんの店で「アヤカシ」が見えない体にしてもらう為にその対価としてユウコさんの元でアルバイトをする。
炊事洗濯掃除の家事その他雑用一切。
特に炊事に関しては専業主婦も顔負け。
家に一人四月一日君が欲しいなぁ、と考えた人は私だけでは無いでしょう。

方やユウコさんは謎めいた雰囲気を持つ美女で
「この世に偶然は無い。あるのは必然だけ」が口ぐせのワガママで気紛れ、そして朝から晩まで酒を飲む大酒豪。
酒のあてやあれが食べたい、これが食べたいと事あるごとに四月一日をこき使う。

それをそのまま小説化するのではなく、同じ舞台、同じキャラクターを引き継いで、別仕立ての小説を起そうという試み。なかなか珍しい試みではないでしょうか。

「×××HOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル」なんと長ったらしいタイトルですね。

それに西尾維新というペンネームも凄まじい勢いを感じますね。
ローマ字で書くと前から読んでも Nisioisin 後ろから読んでも Nisioisin なのだそうです。

本の構成は、第一話アウターホリック、第二話アンダーホリック、第三話アフターホリックの三部作。

一話は完璧に原作を踏襲した類似の物語を一作。

二話は原作を踏襲しているのですが、少し塩味を聞かせている。携帯電話の文章入力を省力化した変換記憶機能を利用した話などは、アニメではちょっと表現しづらいでしょうから。

三話目は前二作とはちょっと違います。違うと言うよりもここが一番この作者の言いたかった事なのかもしれません。

ここでは化町婆娑羅という原作には無いキャラクターが登場します。
化町は自分にも「アヤカシ」が見えると言います。
そして四月一日に何故その才能を活かそうとしないのだ、と詰め寄ります。
ここらあたりから原作の「×××HOLiC」そのものを否定してしまいかねない話に繋がって行くのです。
「アヤカシ」が見えてしまう地獄から逃れるためにユウコさんの店で働く四月一日に対して、
「何故その解決を他人に委ねるのか」
「責任は自分で取るものだ」
「才能は捨てずに使いこなせ」
と詰め寄ります。

また化町は壱原侑子についても痛烈で、
「人間の心の弱さに付け込む、人間の心の弱さを食い物にする怪物だ」
と毒舌します。
「何かを得たら何かを失う。それが正当な対価」についても
「この世に等しいものなど無い」とばっさり。

化町は眼球地球論という自らの説を唱えて四月一日に語りかけます。
・眼に見えるという事は即ち眼球の中にある影が網膜に投影されているという事。
・実際に眼の前に何かがある訳ではなく、眼の中にあるものが見えている。
・「アヤカシ」が見えるという事は眼球の中にある物体が見えている。
・「アヤカシ」は四月一日の眼の中にいるのだと。
つまり今見えている風景はこの世界は眼球の中の風景だと言う理論なのです。
その理論で言えば、眼球のある数だけ、それぞれの世界があり、極論すると眼球はその中に世界を含んでいる、という事になるのだそうです。

逆説めいていますが、確かに網膜に投影された風景を人は見ています。また投影されたものを見て感じる事は人それぞれ千差万別でしょう。
しかしそれはあくまで現実を投影しているのに対する考えであってその眼球の中に世界があるなどと言う発想は聞いた事も無いですが、新鮮で面白いと思います。

四月一日にとっては、眼球地球論よりも化町の指摘したこの「×××HOLiC」の世界即ち
ユウコさんの世界に対する辛らつな指摘はかなり説得力があるものだったのではないでしょうか。

もちろん、四月一日がそれを肯定してしまえば、原作はぶち壊されてしまう事になるので、さすがに原作をノベライゼーションする、という立場からしてそういう結論には持っていけないでしょう。

第一、四月一日はこき使われている、と言いながらも現在のユウコさんとの関係に満足していると多くの読者は思っていると思います。
筆者はCLAMP先生と自ら書いているぐらいですから、原作を否定したり揶揄したりするつもりでは無いでしょう。
100円ショップを「小さな価値の集う店」などと言い換えてしまうあたりは原作の表現の仕方と似通ったものを感じますし。「小さな価値の集う店」っていいですね。今度から私も100円ショップをそう呼ぶ事にしようかな。

ですが、一読者にしてみると、これだけの強烈な指摘を受けてしまった四月一日は今後ユウコさんと同じ関係であり得るのだろうか、浴びせられた言葉が頭に残っていないはずがないのでは?とも思えてしまいます。

いずれにしても視力検査では上下左右の答えしかない「ランドルト環」も見方を変えれば違うものにも見えるのですよ、という事なのでしょう。
タイトルに付されているのもそういう意図かもしれません。

この西尾維新という人、もう一つの人気コミックである「DEATH NOTE」も小説家したそうです。

これはこれから読んでみますが、今度はどんな視点で「DEATH NOTE」を切ってくるのか、と楽しみです。

×××HOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル  西尾 維新 (著)



ALWAYS 三丁目の夕日


読みものでは無く、少し前の映画です。コミック本の映画化やドラマ化、最近こういうパターンが多いみたいですねぇ。
三丁目の夕陽、ご存知の「貧しかったけれど、明日への夢が有った昭和の日本」が謳い文句のお話です。
昭和30年代の東京が再現されていて、見るものにほのぼのとした温かみを残す映画です。
自分も昭和の人間です。昭和30年代という時代、映画の宣伝が言う様に確かに携帯もパソコンもテレビさえも無かったかもしれない。
でもそんなものが何か「豊か」の象徴となるのでしょうか。
自分の昭和30年代と言ってもまだ幼少でしたので、昭和の三種の神器が目の前に現れてびっくりしたり、わくわくしたり、という体験はありません。この映画の中でのそういう体験はまさに自分の父親、母親が味わった事でしょう。
それでも今ではゴミゴミとした街になってしまいましたが、自分の記憶の中の大阪の昭和には、至る所に田んぼがあり、小川があり、池がありました。ふなが、おたまじくしが、カエルが、どじょうが、へびがいたのです。夏には蛍もいました。
自然のことだけではありません。
阪急梅田駅は今よりはるかに荘厳な雰囲気を持った北大阪の玄関口の駅でした。
阪急百貨店は今よりもはるかに高級な場所でした。

結局「豊か」だとか「貧しい」というのは心の問題なのでしょうね。
あのわくわくしていた時代。
わくわくできる気持ちを持てる時代こそ、真に豊かな時代なのではないかと思った様な次第です。

ALWAYS 三丁目の夕日 原作:西岸良平



電車男


なんで今頃?と言われてしまいそうですね。
前回UPのダ・ヴィンチ・コードでも充分時期を逸しているのにそれに輪をかけた様なこのタイミングの悪さ。
なんで今頃か、と申しますとこの本の存在を知ったのが最近だったから・・と答えるしかないです。
いやはや、びっくりしました。
新潮社から出ている本なのですが、この話、作り話だとばっかり思っていたのが、違ったのですね。
巻末にあった著作権云々の記述を見て初めて知りました。
もちろん、この「中野独人」なる人も存在しない。本そのものが完璧に掲示板のコピー&ペーストで無関係の書き込みを削除しただけで出来上がっている、と言うのですから。

と、言う事は実際にエルメスさんは存在した訳で、そのエルメスさんに告白して成功した電車男も実際に存在する、という事になりますね。
後に、映画になりテレビドラマにもなってしまうなどとは書き込んでいる当時は想像もしなかった事でしょう。

それにしてもいるもんなんですね。エルメスさんの様な女性。
またまた、そのやり取りを逐一ネットで流して相談を求める男。それに対して多くの人が親身になって答えているなんて、そんな事って有り得るんですね。

インターネットの掲示板などと言うもの、もう匿名である事をいい事に、「うざい」「詩んでしまえ」などという暴言のやり取りが日常茶飯事なのだと思っていましたが、そんな優しい世界が存在するんですね。

元々インターネットに携った頃からなんでこの世界というのはこんなにサービス精神が皆さん旺盛で、全くのボランティア、無償奉仕でここまで丁寧な事をしているんだろう。と思う事しばしば。でも実際にどこかへ自分の調べた事やら、自分の意見やらを発表する機会なんてそれ以前は無かったんですよね。情報というものは一方的に与えられるだけで、自ら発信する、なんて事は出来なかった。自費出版でもしない限りは。

普及するに伴って「私の家族はこんな一家です」みたいな情報発信でも何でもない、目的の判らないサイトが一時さかんに作られていました。
今やアフィリエイトなるものが幅を利かせて来て、どこでもかしこでも広告ばっかり。
このMMI-NAVIへ登録しに来るサイトも大半がアフィリエイトの広告ページだそうです。
1ページにベタベタと広告だけを貼り付けた様なページで、そこには自らの考えも意見もオリジナルの文章は一つも無い。
一見、何かコメントでもあるのかと思えばなんの事は無い、全部広告主が提供した借り物の文章。
そんなサイトを取捨選択しながらNAVI登録者は作業をしているんだそうです・・。

そんな中で、やはり自己発信の原点とも言えるのが掲示板でしょう。
匿名でのやりとり、というのが玉に瑕かと思った時もありましたが、実際にはサイト管理者以外は匿名でもハンドルネームでも実名でもあまりその事そのものは意味を成さないかもしれません。

さて、電車です。
電車で酔っ払いのオヤジと言えば、絡んで来るよりもゲロを吐かれた思い出しか無い。

電車で人助け人助け人助け・・・とつらつら思い出すに、どうもそういう類の場面に遭遇していない。いきなり蹴られた事ならあるが・・。

電車で人助け人助け人助け・・・人助けと言えるほどの事では無いですが唯一あるとしたらこのぐらいか。

この原作本の中では、ドラマ、映画の様な危機的場面が訪れる訳では無く、話は極めて順風満帆。強いて言えば電車男の心の中の葛藤ぐらいなものでしょうか。

映画はまだ原作に忠実。中谷美紀に似ていると言われればそのまま中谷美紀をエルメス役にまで配している。ちょっと雰囲気が違うんじゃないの?中谷美紀という女優はもっとシリアスな役柄が似合う様な気がする。
そこへ行くとテレビドラマの方は役柄からは嵌りでしょう。
テレビドラマらしく何回も危機的状況を作り、原作には無い話をいくつも入れておりました。でも原作にある言葉などはそのまま使っていて、エルメスさんという人柄を損ねてはいない。
「ちゃんと掴んでますから」
「もらい泣きしちゃいました」
かなり視聴率も高かったらしいです。
とは言っても私自信ドラマ全部を見た訳では無いのですが・・。
伊藤美咲という女優、それまで知りませんでしたが、かなり好感度はUPした事でしょう。
電車という乗り物、皆さんもご利用になって、何某かの些細なトラブル、些細な出会い、何某かの出来事を経験されておられるでしょう。
中には、人助けの様をされた方もおられるでしょう。
それらはほとんどが一期一会で二度と同じ人にも同じ場面にも二度と遭遇しない。
だから些細な出来事はその場限りのものでしょう。

もう一つだけ実体験をお話しましょうか。

一期一会で二度と同じ人にも同じ場面にも二度と遭遇しない。
些細な出来事は常にその場限りのもの。

と、過去の経験を踏まえた上で現実を見直してみた時、ふとある事に気がつきました。
テレビドラマの様な作りが入っていれば、やはりドラマはドラマだなぁ、でお終いですが。
実際の話なんだとすると、「勇気を出せ」とボードの皆から応援されていたオタクの電車男よりも寧ろ、エルメスさんの方がよほど最初から積極的だったのではないでしょうか。
電車の中で起こった些細なトラブル。その場で「ありがとうございました」でお終い。
これが普通。
名前と住所を聞き出して、エルメスのカップをお礼に送って・・とこの先の成り行きをエルメスさんの方がよほど望んでいた、という事なのでは無いでしょうか。
などと言うつまらない勘ぐりを入れるのはやめておきますね。

長くなりました。

実物の電車男さんとエルメスさんに幸あれ!

END

電車男 中野独人著