カテゴリー: ナ行



悲鳴伝


半年前に起こった地球による「大いなる悲鳴」。

その「大いなる悲鳴」によって地球上の人間の1/3 が間引かれてしまう。

地球撲滅軍という地球と戦い、人類を救う、という奇妙な組織が登場する。

感情の無い中学生の空々空(そらからくう)は、その感情の無さを見込まれて、戻る場所が無いように、一家全員惨殺され、通っていた学校も爆破され焼き尽くされ、知り合いという知り合いは尽く地球撲滅軍に殺された上で、地球撲滅軍に次期ヒーローとして無理矢理スカウトされてしまう。
それだけのことをされたからと言って、相手を恨むだの復讐してやろうという気持ちはこれっぽっちも無く、一家を惨殺した年上の女性と仲良く同棲生活をはじめてしまう。

そもそも地球と戦うって、どうなのよ。

地球陣 対 地球人?

地球と戦うって、神にあらがうようなことじゃない?

地球撲滅軍が次々に撲滅しようとする「人間に擬態した怪人」、それって日本で言えば八百万の神々じゃないのか?

八百万の神を根こそぎバッタバッタと切り殺そうってな具合に読めないこともないんですが・・。

これまでの西尾維新の一冊と比べると、この本一冊はかなり分厚い。
西尾維新の本を寝ながら読んで重たさを感じたのは初めてだ。

で、分厚いから読み切りなのか?

これまでの西尾維新のパターンから言って、一度生み出したキャラクターは大事に使いまわしている。
戯言に始まったシリーズの登場人物は零崎シリーズでも使われまくった。

化物語などは一度は終わっておきながら、その完結編を出し始めたと思わせて、さらに先へと続けようとしている。

空々空と地球撲滅軍の登場人物、この一冊でだいぶん、殺されてしまったが、まだまだ先がありそうだ。

せっかく空々空なんていう新たなキャラクターをおこしたんだから、続くに決まっていますよね。

と、このぐらいで文章を閉じてしまうと丁度よいのでしょうが、蛇足を書きたくなってしまいました。

当然ながら、この本は 3.11の大震災の後に書かれたわけで、「大いなる悲鳴」はあの時の震災と津波と読めなくもない。
そう書くとそれはあまりに不謹慎だろう、という誹りは免れない。

そう、その「不謹慎」を逆手に取っているのがこの本なのではないか。
震災直後は、テレビではコマーシャルも自粛。こんにちワン、ありがとウサギ、ポポポポーンばっかり。
お笑いなんて滅相もない。
一般社会でも、各種イベントは自粛。
通常の宴会の類も自粛。
ちょっとした軽口も即不謹慎。

この物語、冒頭で、空々空が「大いなる悲鳴」を冗談話に使った野球部の先輩が不謹慎だと思った」などという台詞をカウンセラーの先生に吐いているところから始まる。
実際には彼は不謹慎だと思うフリをして来たわけで、彼は生まれてからこのかたそういうフリをして来たのが、周囲の知り合いが残らず死に絶えて、そのフリをする必要が無くなった。

穿った見方をすると、震災後不謹慎な発言をする人が居たとして、それを「不謹慎だ」と騒ぐ人達もなんのことはない。そんなフリをしていただけ、というふうに読めなくもない。
まぁ、無理にそんな読み方をしなくても良いのですが・・。

悲鳴伝 西尾維新 著



ザ・ラストバンカー


元三井住友銀行頭取にして、前日本郵政の社長、西川氏直筆の回顧録。

西川氏で思いだすのは何と言ってもあの日本郵政社長の座を追われる時のあの苦虫を噛み潰したような表情だろうか。

この本にも郵政の事は終盤に出て来るが、大半はバンカー時代の話に誌面は割かれている。
さながらバンカーの視点から見た日本の戦後経済史、と言ったところだろうか。

いざなぎ景気からオイルショック、バブル、そしてバブル崩壊、銀行の不良債権問題の多発から金融ビッグバンまでと凄まじいばかりの上り下りの時代をバンカーのど真ん中に居て体験しているのだ。

もちろん、墓場まで持って行かなければならない話など山ほどあるのだろうから、ここでふれられていることなど、氏の体験の中のほんの一掴みほどかもしれない。

ことにバブルなどというトンデモない時代を作り上げるのに大銀行が果たした役割はかなりのウェイトだろう。

わずかな元手を担保に金を貸し付けて、ビルを買わせ、そのビルを担保にさらにビルを買い増して行く。
濡れてに粟のバブル紳士を次から次へと産み出したのは銀行だろう。

もちろん、その中での氏の役割がどうだったのかは知る由もないが・・。

少し前に「バブルへGO」という映画が有った。
広末涼子と薬師丸ひろ子の母娘がバブル時代へタイムスリップして、バブル崩壊の引き金となった総量規制をSTOPさせようとする映画だ。

あの映画からすれば、総量規制をSTOPさせれば、その後の日本経済はまだまだ上昇気流のままだった、ということなのだが果たしてそうだろうか。

確かに総量規制は一気にバブルを崩壊させたが、あのままでいいわけがない。
寧ろ、バブルが始まる前にタイムスリップして総量規制を導入させるべく動く方がはるかにマシだろう。
すでにあぶくでパンパンになってしまってから、どれだけ緩やかな政策をとったって所詮あぶくはあぶく。
銀行の不良債権が消えるわけでもなんでもないだろうに。

昨年末頃だったか、中国のバブル崩壊を声高に叫んでいる論調に出くわしたことがある。
彼の国では土地やマンションが高騰したかもしれない。確かにそれが下落することもあるだろう。
それは日本のバブル崩壊と同じだろうか。日本の場合は全く無から有を作り上げるほどに無茶苦茶な貸付があった。
彼の国は日本のいいところも悪いところも充分に勉強済みだろう。
日本の下落とはやはり違うのではないだろうか。

氏が表舞台に出て来るのは、そんなあぶくが弾けた後の金融再編時代。

一体、どれだけの銀行が合併したのだろう。
銀行の系図でもなければ、もはや元々が何銀行だったのかもわからない。

富士、日本興業、第一勧銀が一緒になってみずほに。
三菱と東京がひっついてさらに三和と東海が引っ付いたUFJと合併して三菱東京UFJへ。
そんなどでかい合併だけじゃない。
中小どころもあっちとこっちがくっついてって全くわけがわからない。

唯一、大手の中で孤高のように合併をせずに来た住友信託もこの春にとうとう中央三井と合併する。
これでローカル銀行以外の主要銀行はすべて合併したのではないだろうか。

そんなダイナミックな合併の一つ。
三井と太陽神戸がくっついてさくらに、さらに住友と合併して三井住友へ。
その渦中に居た人が回顧録を書いているのだ。

こういう本のことだ。
自分に都合の良いことばかりを書いているだろう、という批判はもちろんあるだろう。
だが、敢えて自分に都合の悪い話ばかりを書く必要などどこにあるだろうか。
ハナから差し引くところは差し引いて読むぐらいのつもりで読めばいいだけのこと。
経済記者が書いたわけじゃないんだから。

そんなダイナミックな世界の中枢に居た人の肉声がから拾えるものを拾えば充分だろう。

終盤の話は何と言っても郵政民営化後の氏の役割。

民営化後の社を引っ張って欲しい、と三顧の礼で迎えられ、郵政という組織のあまりの官僚ぶりに呆れつつも、大ナタを振るって、民間企業たろうとする。
そのまだ道半ばでありながらも同じ郵政解散で大勝ちした政党の幹部から梯子をはずされたような格好だ。

パフォーマンス好きの政治家にいいように振り回される。
時の総務大臣、鳩山邦夫氏は再開発中の東京中央郵便局へテレビカメラを引き連れて、「こんなことをしたのは誰だ」と大真面目にパフォーマンス。

かんぽの宿を安売りした、と報道ナントカのキャスターまでもがさんざんわめいていたっけ。

氏が行い、また継続させようとしたことは、まさに今、橋本大阪市長が行おうとしていることと同じだろうに。

ついには政権交代で脱官僚の謳い文句の政権が元大蔵事務次官の官僚を氏の後に据える。
財政投融資の受け皿へと逆行し、民営化が後退する様を見て、どれほど氏は歯がみしたことだろう。

橋本改革が同じ憂き目を見ないことを祈るばかりだ。

ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 西川善文著



虚空の冠


戦後まもない頃の日本。
新聞はGHQの検閲無しには出版出来ない。

それでもダメモトでも真実を伝えようとする気持ちは失ってはならない。
そんな先輩の教えを受けるまだ駆け出しの主人公記者。

緋色島という三宅島や八丈島の方面の島と思われる島で火災が起こったとの報を受けて、船に先輩記者と船に乗り込んで、その取材に行く。
通信手段は伝書鳩。

そこでその船はアメリカ海軍の軍艦に衝突してしまう。
その軍艦は救助を行おうとはせず、乗船していた50名の乗客は海の藻屑と・・。

その中で唯一生き延びたのがこの主人公。
衝突したのと同じアメリカの軍艦に助けられる。

帰国した後に、なんとかその衝突事故を無かったことにしたいアメリカの意向を汲んだ、会社の上層部、政府関係者に説得されるが、50名の命を無かったことにするのか、という正義感からなかなかその説得に首を縦に振らない。

それがそもそもの始まり。
結局、報道しようにも検閲があっては伝えられない。
GHQの主な役割りも終わり、下手な動きをすれば報道の自由はもう目前に来ているのがご破算になりかねない。

結局、上の意見に従うわけだが、それからがこの主人公記者の活躍が始まる。
政治部記者のエースとして名を上げて行く。

そして、やがてメディアの頂点へと上り詰めて行く物語なのだ。

この記者氏、あのナベツネ氏がモデルか?と瞬時思わう瞬間もあったが、そんな特定の人ではなく複数の人物をモデルとして、作り上げた架空の人物といった方が正しいのだろう。

エンディングを書いてしまうわけにはいかないが、著者はこのやり手経営者の手法に批判的なように読めなくもないのだが、果たしてそれは批判されるべきものだっただろうか。生きるか死ぬかの戦い。敵も業界そのものを潰したってなんとも思わない連中だ。

唯一批判されるべき箇所があるとするなら、冒頭の衝突事故。
ジャーナリズムに身を置く人間としてやってはならないことをやっている。
ご時世柄、「報道しない」までは止むを得ないだろう。
生き残りの一人ではあるが、ひたすら沈黙を守れば良いものをあろうことか「機雷にぶつかって撃沈した」などとの虚偽を語ってしまっては、もはやジャーナリストでは大失格だろう。
だから、二度とその話題にはふれない。
そう、本人が二度と真実を語れないように、語ったが最後、自らの記者人生を終えることになることを見越して虚偽の事を語るように上の連中は指図したのだろう。
あそこで沈黙を守る、という選択肢を告げ、念書をしたためればそれはそれで上は充分納得しただろうし、その後の展開を見てわかる通りあそこまでのやり手である。
いずれは頭角を表していただろうに・・。
批難されるべきはその一点のみではないだろうか。

戦後まもなくの時代からラジオ、テレビ、インターネットと情報伝達の手段は様変わりし、行き着いたのが携帯電話会社が打ちだそうとする、電子書籍端末。

それが一旦プラットフォームとなってしまえば、その会社は通信会社としての地盤はもちろんゆるぎないものとなり、いすれは衰退していく出版、コンテンツの世界も一気に飲みこもうとする。

その会社との攻防が後半のクライマックスの見どころである。

それにしても著者そのものが執筆したものも紙媒体で雑誌に出、その後は書店に並ぶというスタイルだけに電子書籍の問題点なども良く承知しているものと思われる。

著作業という職業、新聞や雑誌の連載を書いている間は月給をもらう人に近く、単行本となった後に入って来る印税はボーナスみたいなものなのだとか。
やはりどこかで安定収入を確保して・・。ということなのだろう。

一旦、電子書籍に全面移行となれば、今の出版社のように初版を何万部とするか、という選挙の票読みのようなことをする必要が無い。
返本という制度も無くなる。
印刷所も要らなければ、流通も不要、在庫も要らない。
読者にしたって本だなから本が溢れる心配をしなくて済む。

だが、作者の立場から言えば、ダウンロード件数というずばりそれだけが収入の糧となるわり、これまでの安定収入というものはもはや無くなる。

だからと言って楡氏は電子化に反対の書き方をしているわけでもなんでもない。

どちらかと言えば、いずれはそうなるんだ、という書き方だろう。

とは言うもののこの「虚空の冠(上・下)」卷は小説新潮の2009年6月号から2011年5月号までというかなりの長期期間の連載を経て、2011年に単行本化されている。

書きおろしならまず切り捨てていただろう、連載物ならではの繰り返しが少々目につく。
司馬遼太郎本などでもよくあったことなのだが、あれは繰り返し繰り返し読ませられることによって、歴史や時代背景の復習に役立つ、という味わいのあるものだった。

この本は一気に読み進められる本だけに、電子書籍のメリットデメリットを語るシーンなど、何度も同じ事が何度も語られている箇所が、余計に目についてしまった。

楡氏も安定収入期間を長く保ちたかったのだろうか。


虚空の冠 (上・下巻) 楡 周平 著 新潮社