カテゴリー: ナ行



獺祭


南国の小さな藩が舞台。

いわゆる剣豪小説という範疇の読み物だ。

道場主の主人公の目標は戦わずして勝つ。
いわゆる究極の強さを目指す。
あまりにも強いと評判になると、向って来ないだろう、というもので、さしずめ現代で言うところのナントカの抑止力を目指しているようにも思える。

と、言いながらも自ら編み出した秘剣というやつを使って一撃のもと、刺客を殺してしまう。
しかも二回も。
なんじゃそりゃ。

物語は四篇から成り、弟子の家庭での問題やらをその面倒見の良さで解決して行く話の運びが中心だが、剣についての描写よりも寧ろ軍鶏(しゃも)についての詳細な描写が印象に残る。

かわうそが捕まえた魚を岸の石の上などに並べるさまを獺祭(だっさい)というのだそうだ。
彼の正岡子規が名乗った号はいくつもあるが、その中に確か獺祭書屋主人という号もあったかと思う。

獺祭という響き、やけに文学的な匂いがするのだ。
この本、軍鶏好きの道場主の語。

主人公が獺祭の場面に出会う以外、獺祭とは無縁である。
何故そのような文学的響きのタイトルを付けたのだろうか。

この作品の前に「軍鶏侍」という一冊があったようだ。
ならばサブタイトルにある様に単純に「軍鶏侍(二)」のタイトルで良かったろうに。

へたに「獺祭」などという深みのありそうなタイトルをつけるものだから、読者は途中まで平坦に来ても、いやいや、これから深みが出て来るんじゃないか・・・。
と返って期待されて少々損をしている気がする。

タイトル負け、と言っては作者に失礼だろうか?

獺祭 軍鶏侍 野口卓著



恋物語


あの傾物語でとことんカブいてしまってからの後も、作者のお約束通りに3月、6月、9月、12月とそれぞれ花物語、囮物語、鬼物語、で最後に恋物語と出版された。

それぞれのキャラクターが怪異から完全開放されて化物語が終焉して行くものだとばかり思っていた。

花物語では神原駿河のするがモンキーが終止符。
囮物語では千石撫子が終止符・・と。
鬼物語は忍の終止符で花物語で戦場ケ原に終止符がうたれるんだろう、と思っていたが、違った。

花物語では阿良々木君の卒業後が舞台でいきなり飛躍してしまって、傾物語の後にしては、少々肩すかしを喰らったような気分だったが、それなりに終止符。

囮物語では千石撫子が終止符のはずがこのキャラクターに最後の最後まで引っ張られた。

鬼物語は、第忍話 しのぶタイムなどとあるので、忍の終止符かと思いきや、これも違った。あにはからんや八九寺真宵の終止符だった。

少女不十分なんていう10周年記念なんかも間に入ってようやくこの花物語なのだが、なんでここに来て・・・。貝木泥舟が語り部だと。

終わる気ないだろ。

囮物語でメドウサならぬ怪異になったまま引っ張られていた千石撫子がここでようやく終止符なのだが、案の定、巻末にファイナルシーズンの予告の広告が・・。

どのあたりで、完結させるのを諦めたのだろう。
もともとそのつもりだったのか、

やっぱり期間区切ってなんてキツいノルマを自分に課しちゃうから・・。
いつの間にかこのシリーズ、セミファイナルって呼ばれてるし。

まぁ、作者も「100パーセント趣味で書かれた小説です。」って書いているし、読む方も楽しみが先延ばしになった、ということで構わないんですけどね。

冒頭の貝木泥舟の語り。
本に書いてある文章なんてすべてがペテン。
ノンフィクションと帯で謳っていようと、ドキュメントだのルポだのと銘打っていようと全てが嘘だ。

というくだり、なんとなく「少女不十分」にひっかけているような気がしなくもなかった。

わりと人物像が見えにくかった貝木泥舟の新たな一面を見せてくれた、という新鮮味はあるものの、どう考えたってこれでは終われないわなぁ。

やっぱり、ファイナルシーズンとやらもお付き合いするんだろうな。

恋物語 (講談社BOX) 西尾維新 著, VOFAN (イラスト)



少女不十分


10年前、まだ学生だった作者がとある交通事故に遭遇する。
ロードレーサーの自転車で通学の途中で信号待ちをしていたところ、目の前で小学生の女の子が赤信号を渡ってしまい、ダンプカーに跳ねられ、跳ねられたという表現では足りないぐらいバラバラに破壊されてしまう。

その女の子と一緒に歩いているもう一人の女の子が居た。
女の子は手にゲームを持っている。
共に歩いている子が跳ね飛ばされたことに気が付くが、まず行ったことは、駆け寄ることでも悲鳴を上げることでも無かった。
まずゲームの方へ向きあうのだった。
ゲームをセーブポイントまで持って行って、セーブする。
そうしてゲームを仕舞ってから、友達のところへ駆け寄る。
その事故は多くの人が見ていたのだが、皆、事故の当事者だけに目を向け、誰もそのことに気が付かなかった。
が、10年前の作者だけはしっかりとそれを見ていた。

そして彼女の持つ優先順位を異常だと思った。
まだ、そのままゲームを続けてくれたなら、と思った。

三十路を迎えた作家、西尾維新自身が10年前の大学生時代の自分を振り返るという話。これは物語ではなく一つの事件だ。
実際にあった話なのだ、と語られて行く。
そう言いながらも作家たるものは嘘を付く人間だとも語っている。

当時も今も極めてルーチン的な生き方をすること。
交通事故に遭遇する頻度が高いこと。
友達がいないこと。
他人の家に上がるなど幼少時代から数えても10回~20回程度なこと。
修理屋に出すぐらいなら、新品を買い替える性癖を持つこと。
編集担当が寿退社をする記念にこの本を書く決心をしたこと。

どこからどこまでが本当でどこからどこまでが作り話なのか。
出だしから読んで行く限り、その内容の正確さはさておき、全て本音で語っているように思わせられる。

そうして事件は起こる。
その事件が無かったら、彼は作家不十分のままで終わり、作家になれていなかっただろう、と自ら語る事件が。

そのトリガーとなるのが上記の交通事故だ。

この10年前の僕は、この少女にナイフを突き付けられ、この少女の自宅の物置に監禁される、というのがその事件なのだが、ここまで行くと、もう物語に入っているな、と思わせられる。

監禁だとか、そんな状況は寧ろどうでも良く思える。
作家志望の作家不十分君がもし、そんな事態に遭遇したら、いくら逃げおおせる状況だって、そんなもったいないことをするはずがない。

その「もし」を語っているだけで、もしそうなったなら、自分はこうしたであろう、というのがドキュメンタリーとして書いているとする所以ではないかと思えなくもない。
物語に入ってはいるが語っているその考え方などは、本音のままなのかもしれない。

十分に道を外れた少女ではあるが、「道を外れた奴らでも、社会から脱落してしまった奴らでも、ちゃんと、いや、ちゃんとではないかもしれないけれど、そこそこ楽しく、面白おかしく生きていくことはできる」
この言葉こそが、西尾維新の描いて来た物語そのものなのだろう。

そういう意味でこの本は10年間で世に出した作品を総括する集大成なのかもしれない。

少女不十分 西尾維新 著