カテゴリー: ハ行



鬼畜の家


元刑事の探偵が、ある一家にかつて関係したことのある人を一軒訪ねては、その頃の様子を取材する。

ずーっとその描写を行って行く。
ある一家というのは父親は町医者、その妻は元準看護師でその医院に勤めていた人。
子供は三人、長男の下に妹二人。

その町医者が亡くなったことを取材するところから物語は始まる。
父親亡き後、叔母の元へ母と子供三人は厄介となり、一番下の妹はその家へそのまま養子として引き取ってもらう。

次いで起きたのが、その家の火事で叔母夫婦は焼け死に、妹だけが生き残る。

次いで起きたのが引っ越したばかりのマンションで起きた長女の転落死。

どれもこれも人が死ぬ度にその元準看護師の妻は大金を手にして行く。

父親の死では保険金を、叔母夫婦の焼死ではその養女となった娘が遺産を継ぐ格好でまたまた大金を手にし、長女の死ではマンションのベランダの手すりのボルトに過失があったものとして、家主を責め立て、これまた大金の慰謝料を手にする。

どう考えても、計画的な犯行だろう、と物語は進んで行くのだが、この刑事が下の妹と出会うシーンあたりから、物語は新展開を徐々に見せ始める。

この巻末に第三回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞の選評というのが載っている。
そこには団塊の世代のたくましさや能力を活かさない手はない、旨の記述がある。
なるほど、この作者は60才で仕事をリタイヤした後に執筆活動を開始したとある。
確かにおそるべし団塊の世代だ。

夫が借金まみれで取り立てたい債権者が山ほどいるだろうに、まんまと保険金を手にする手口。
養女としての縁組の後の遺産相続の手口。

これは作者略歴にある永年の弁護士としてのキャリアならではだろうか。

この本、後半以降のどんでん返しは、かなり現実的ではないが、前段はかなりリアリティが感じられる。

現在、公判中の練炭殺人と呼ばれる事件にしたって、一旦自殺で片付いたものがほじくり返されることなど、あれだけ繰り返し、繰り返し、同様の手口を使わない限り、なかっただろうし、一件、二件で終えていたら事件にすらならなかっただろう。
そういう意味では、病死、事故死で片づけられているもののなかにはかなりの数の事件性をおびたものが含まれている可能性だって出て来る。

前段の「鬼畜」、何やらこの世に実在していそうな話だけに妙に薄気味が悪い。

鬼畜の家 深木章子著 三回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞受賞作



吉田キグルマレナイト


当初、読み始めた時はさほど期待していなかったのだが、エンディングが最高。
何やら自身のモチベーションまで上がって来そうな本だ。

吉田キグルマレナイトの吉田は主人公の在籍する京大の隣の吉田神社の吉田。
京大の学生でありながら、大学そっちのけで子供向けヒーローショーのアクション劇団に入り浸る青年。

本番の前には必ずトイレへ行かないと本番で腹が痛くなるという神経性の過敏性腸症候群だろうか。

そんな持病のため、アクション劇団はクビになるのだが、次に出会った「鞍馬からかさ一座」というのは相性が良かったようだ。

着ぐるみをかぶれば、何故か失敗しない。
とんでもない失敗をするはずが、偶然にもいい結果になってしまう。

着ぐるみの中から自分を叱咤する声が聞こえて来るし、着ぐるみが勝手に動いてくれる。
この著者自身、自ら人形劇団での役者や脚本を担当した経歴を持つ、と背表紙の裏に書いてある。

着ぐるみが何でも勝手にやってくれるとしたらそれはファンタジーだろうが、それは単にファンタジー的な誇張ということだろう。
どんな着ぐるみも一旦身に付けてしまえば、その外面の役に成りきって自分はもはや自分ではないということなんじゃないのか。

昨年、ゆるキャラコンテストなるものが世を騒がしたが、あれにしたって有名キャラのかぶり物をしているからこそ、子供に握手を求められ、美女とハグをしたり、キャーと騒がれもするが、中にいる人単体では女性に握手をしようとした途端、痴漢呼ばわりをされるのが落ちだ。

やっぱり着ぐるまれて、着ぐるみのやりたいことように動いてあげる、それがこの本で言うところの着ぐるみに全て委ねてしまえ、ということなのだろう。

なんだか、そんなに感動するほどのものでもあるまい、と思いながらもラストシーンのシーンなどはなかなかどうして感動してしまっている自分に気がつく、というちょっと変わった本なのだ。

なんでも「日本ファンタジーノベル大賞」の優秀賞を受賞したのだとか。
ちょっとジャンルが違うような気がしないでもなかったのだが・・・・とするとやっぱりファンタジーだったのか?

吉田キグルマレナイト  日野 俊太郎 (著)「日本ファンタジーノベル大賞」優秀賞受賞作品



天の方舟


日本の政府開発援助(ODA)というものの、大半が日本企業が受注することがお約束の紐付きだろう、とは大抵の人が思っていることだろう。
その紐付きにするためになんらかの事前協議?それがいわゆる談合?的なこともあるのだろう、ぐらいのことは誰しも思うことだわな。

それでもそれをこれだけ赤裸々に賄賂だのそのさや抜きだのを書かれると、一般的な感想としてはどうなんだろう。
「まぁ、それぐらいのことはやっているわな。ふむふむ」という感想なのか、

「そこまではいくらなんでも・・・。もしそれがODAの実情ならそんなものはやめてしまえ!日本国民の税金なんだぞ」 という怒りの感想なのか。

それとも逆に
「えっ、そんなものだったの?もっとやってるでしょ」 という感想なのか。

ODAを拠出する⇒その金で他の国が開発を受注していたら、それこそ何やってんだ!みたいな声が上がるんじゃないか?

国内の企業が受注する⇒国内の企業及び傘下企業が潤う。⇒税金として返って来る。しかも相手国からも有り難がられる。
そんな図式を想定するのが一般的かな?

その日本企業が受注する際の受注合戦の中で、賄賂が飛び交う。
普段はあまり考えることがないが、賄賂が当たり前の国というのはまだいくらでもある。
「ODAを拠出する⇒拠出した国(賄賂を要求する国)側に発注先を決める権利がある」ということはあまり結びついて考えていなかったのかもしれない。
ならば、賄賂をもらうのが当たり前の国で大型インフラ開発を受注するのに金が付きまとうのはごく当たり前だったか。

そこまでは 「まぁそういうこともあるだろう」 なのだが、日本の企業戦士達は自社の受注のために相手国の元首や高級官僚に賄賂を用いても、その金を自らの懐に入れるということはしないだろう、そう思うのが日本人。
確かにそこまで行ってしまえば 「国民の税金で私服を肥やすとは何事だ!」 になってしまいますわなぁ。

この本で描かれるのは京大の農学部出身の女性。
数多くの登場人物がある中で主人公女史だけが学歴を明記されている。

学生時代は全く目立たない存在。
家賃・生活費を自前で稼がねばならない、どころか実家の親に月10万もの仕送りまでしなければならない。
まるで外国からの出稼ぎ労働者の如く、金に倹しい学生生活を送った彼女。
その彼女だからこそだろうか。開発コンサルという仕事のうまみを知るや、なんとかそのうまみを知る側に廻ろうとする。

政府開発援助にて国際貢献をしたい、という敢えて表面的な青臭い志望理由を掲げて開発コンサルに入社するや、青臭いふりをしながらなんとかそのうまみのある仕事に就こうとする。

それにしても冒頭のタンザニアの例はさずがにひどいなぁ。
名目上は 「貧困にあえぐ地域を外国へ輸出出来る米作りの出来る水田地帯に変えることで地元の人の暮らしを豊かにする」 はずだったものが、実は地元の人はもともと現状に満足していた。
トウモロコシを作って果物も豊富でドブロクを飲んで貧困でもなく不満のない生活を送っている中、いきなり水田耕作地プロジェクトが、何ヘクタールものトウモロコシ畑をブルドーザーで潰して行く。
しかも仮に水田が出来あがったところで、降水量の少ないその地域での収穫はあてにならず、しかも米が出来たところで、国際市場では既に相手にされないだろうことも事前に予測が出来ていた。
地元の人と一旦仲良くなった後だけに、地元の人から恨まれるわ、となんとも後味の悪いプロジェクト。そんな無駄を通り越して迷惑をかける、もっと言えば人の幸せを奪うだけのプロジェクトに三十数億の日本の税金が使われる。

これは単なる一例にしか過ぎないのだろう。

貧困にあえぐ人達に愛の手を!という類の寄付金などですら、もはや単にお金を渡すだけでは本当の助けにはならない、と「援助」そのものが見直されつつある昨今だ。

ODAも変わりつつあるだろうし、変わっていくのが必然だろう。

それにしても主人公女史、タンザニアを経験した後も積極的に現地での仕切りの仕事を追い求め、とうとう仕切り役としてのおいしい仕事にありつくわけだが、途中の記述に抜いて貯めたお金が3000万・・などとある。
何千億プロジェクトをいくつも手掛け、地元の所長として金の差配までした上に自らおいしい仕事と言っておきながら3000万のわけないだろう。

ということで冒頭の感想選択は、最終的に
「えっ、そんなものだったの?もっとやってるでしょ」 に辿りつくのです。

天の方舟 服部真澄 著