カテゴリー: ハ行



日本の女帝の物語


この本の副題は「あまりにも現代的な古代の六人の女帝達」とあります。
日本における女性天皇のイメージは、中継ぎ的なイメージがあるのですが、この本で描かれる古代の6人の女帝達の中には「あまりにも現代的」かどうかはさておき、圧倒的な権力を持って国を統治した女帝、後の代数代に渡るまで影響力を残した女帝などが紹介されています。

それにしても系図というものは、こんなに面白いものだったのでしょうか。
まさに目から鱗でした。

ただ、話の流れに沿って、系図1、系図2・・・と文章の合い間に出て来るのは著者の親切心からでしょいうが、いかんせん登場人物があまりにも多すぎるのです。
その都度、その登場人物が登場する系図を探し回らければならないのは少々不便な構成でした。
出来れば巻頭に集めておいて頂いた方が探しやすかったと思います。

さて肝心の女帝達です。
厩戸皇子=聖徳太子という立派な皇位継承の位置にある成人男子であっても譲位をしなかった推古天皇。

弟の孝徳天皇に一旦は譲位をした皇極天皇。
孝徳天皇の後に再度斉明天皇として返り咲き、自ら軍を率いて九州まで戦いにむかった。

壬申の乱にて大友皇子を破って天皇になった天武天皇の后である持統天皇。
息子である草壁皇子が居ながらにして自らが即位。
夫から妻への様でありながら天智天皇の位置から系図をみると弟から娘へ、となっているのです。
ということはこの夫婦関係は叔父と姪の間柄。
こんなのは系図を見ているとざらです。
如何にこの時代の天皇家が天皇家の血筋同士で濃いものだったことか。

また、系図を眺めていると、天皇家が一旦有力な豪族などとの間で濃い間柄になったとしても、それは一時的なことで、その先の系図ではまた、その豪族とは遠い血筋の天皇へと引き継がれる、という補正が効いている点に驚きます。
古くは大和葛城地方の豪族葛城氏しかり。
聖武天皇に至っては、母親が藤原不比等の娘でその后もまた藤原不比等の娘。
そしてなんということか。男子では無く、その娘を皇太子とし、孝謙天皇として即位させてしまいます。
藤原不比等の血がどれだけ濃いことか。
独身の時から次代の天皇を約されてしまった孝謙天皇は結局独身を貫いて、その先はまた天智天皇の孫にあたる光仁天皇に引き継がれて行く。
常に一旦他の血が濃くなっても、また元の濃い天皇家の血筋へと補正されて行くのが系図というものから見えて来ます。

系図だけ見ると不思議な譲位のされ方が出て来ます。
息子から母へ母から娘へ。
文武天皇に次はその母である元明天皇へ、元明天皇からはその娘である元正天皇へ。

何故、そんなことが起こったのか、それは本文の中で分かり易く説明されています。

はたまた、皇統が絶えそうになったこともあります。
武烈天皇の後、男系が絶えそうになりますが、その次をみると系図ははるか遠くにあった継体天皇へ。
継体天皇の曾祖父のさらに祖父が応神天皇と五代も遡らなければ天皇が出て来ないほど、一旦は本流からは遠いところにあった天皇なのですが、たちまちにして皇女を后にその二人の息子も皇女を后に、と濃い血筋に固められて行きます。

この本、飛鳥から奈良時代の一端を知るにはとても良い本だと思います。

長屋王の変にしたって、橘奈良麻呂の乱にしたって、恵美押勝の乱にしたって高校の歴史の教科書では触れられるのはほんの一行か二行でしょう。

この本ではそれらも丁寧に解説してくれています。
それらの騒乱の大元に女性天皇の存在がどれだけ影響を及ぼしたのかも良くわかります。

さて、あらためて現代。
少し前にあった皇位継承問題の論議は悠仁親王の御生誕にて完璧に未来の世代へ先送りされています。

目の前に危機が来ない限り、須らく次世代へ先延ばしをしようとするのはこの時代の政治家の性癖と言っても過言ではないのでしょうが、この先送りは禍根を残すことになりかねないのでは?と危惧します。
皇位継承問題の議論は今でしか出来ないものだと思うのですがいかがでしょうか。

日本の女帝の物語―あまりにも現代的な古代の六人の女帝達 (集英社新書 ) 推古天皇、皇極天皇=斉明天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇=称徳天皇



コンニャク屋漂流記


このタイトルからして、こんにゃく屋さんが何故か航海に出てはるばるロシアの彼方まで漂流し、そこでこんにゃく入りのおでんなどを作ってたいそう気に入られました。みたいな漂流記を期待してしまうかもしれない。

この本はそういう類の漂流記ではない。

著者彼女の一族の屋号が「コンニャク屋」。
この本は彼女自身の自分史であり、一族の歴史である。

彼女のルーツである「コンニャク屋」の屋号。

そもそも紀州から二人の兄弟がこの浜に来たところから始まるのだという。
そして彼女はとうとう紀州まで行ってそのルーツを探ろうとする。

90歳でも健在な一族の明るい光「かんちゃん」。
祖父の姪にあたるのだっけ。

そのかんちゃん曰く、ドン・ロドリゴが漂着した時なんぞは・・・。
まるで昨日のことのように。

ドン・ロドリゴなるスペインの総督が彼女たちの出自である千葉県の岩和田に漂着したのは、なんと400年も前の話。
その頃の岩和田は貧しく、漁民でありながら魚もまともに食べていない様子が記録として残されているのだという。

人口300人ほどの村落に異人の漂流民が300人以上。
一世帯に平均4~5名か。一世帯人口が7~8人なら同じく7~8人の異人さんをホームスティさせたのだろう。
海で遭難した人は人肌で温めるのが一番、と貧しい中でも身体を張っての救助活動を行う。

世はまさに家康が天下を取らんとする時代である。
それが、つい先日のことのように語られるのだから、戦前戦後などはほとんど昨日だろう。
時代というものの感覚がおかしくなってくる。

彼女の文章の中にたまに登場する彼女の祖父が残した手記。
お祖父さんもなかなかに筆達者だったことがわかる。

自身のルーツ探しもさることながら、何故にその時代に大量に紀州から房総半島に漁民が流れて来たのか、その推理もまた楽しい。

星野博美 『コンニャク屋漂流記』 文藝春秋



水神(すいじん)


九州は久留米有馬藩の江南原と呼ばれる地域一帯。
筑後川と巨勢川という豊かな川水が側を流れながらも、台地であるために、川水は見事に迂回してしまう。

そのために農作物の育ちは常に悪く、お百姓さんは貧しく、常に飢えているような状態。
この本では今では滅多に使われない百姓という言葉が平気で使われている。
農家の人、農業を営む人、農民、確かにどの言葉に当て嵌めても、この時代を描く風景にはフィットしない。もし差別用語だとでもいう理由でこの言葉が消えつつあるのなら、ここではせめて彼らに敬意を込めて「お百姓さん」と記すようにしようか。

水飲み百姓という言葉があるが、この地域の人々は水汲み百姓(いや水汲みお百姓さんか?)と言っても過言ではないほどに、水の供給にかなりの労力を強いられる。

その最も極端なのが、打桶という過酷な労働。

筑後川の土手に二人の男が立ち、四間~五間という高さから桶を川へ落とし、わずかもこぼさずに川から水を汲み上げ、田畑へと繋がる溝へ流し込む。

1間が180cm程とすれば、7m~9mの高さから水を汲み上げていることになる。
しかもまだ皆が働き出す前から、働き終えて家へ帰る時間までその作業を続ける。

大雨でも降れば別だが、年がら年中、その作業を朝から晩まで、しかも一旦その成り手になると死ぬまで続けることとなる。

そんな途轍もない過酷な労働をしたところで、田畑に水が行き渡るどころか、ほんのおしめり程度の雨ほどの効果もない。

ただ、彼らが来る日も来る日も自分たちのために水を汲んでくれているその姿と「オイッサ エットナ。オイッサ エットナ」の響き渡る掛け声に励まされて、他のお百姓さん達は労働を続けている。

そんな過酷な状況を打破しようと動いた5人の庄屋。

この江南原に水を引くことはここに住む人たちの永年の夢である。

上流からなんとか水を引き込めないか、と水路を精緻な図面に起こした一人の庄屋。
それに意気投合した残り4人の庄屋。
内一人は美文家で、上流にての堰の構築についての藩への嘆願書をしたためる。

その嘆願書を読んだ普請奉行がとうとう5人の庄屋を城へ呼び、意見陳述をさせる。

藩は藩で財政赤字に苦しんでいることを城へ行く途中で知った彼らは、藩に資金を頼まず、自らの身代を投げ打って工事費にあてる決意を固める。

水飲み百姓は苦しんで田畑から実りをあげ、その実りの大半を庄屋が上前をはね、そこから年貢を納める、庄屋さんいうのは百姓であって百姓でない、いい御身分の様に考えられがちだ。
実際には中にはそういう例も多々あるのだろうが、おそらく大半はここに出て来る庄屋さん達のように、いかにお百姓さん達が飢えずに暮して行けるのか、を考える村長(むらおさ)的な存在ではなかっただろうか。
庄屋という稼業、お百姓さんに尊敬される存在で無ければ、お百姓さん達はその地を逃げ出して行ってしまう。

それにしても身代投げ打って、というのは凄い意気込みだ。

この五人の中でも気持ちは確かにそうだったかもしれないが、中にはまさかそこまで・・という気持ちの人も居たかもしれない。
城へ上がり、訴える内に、一人が言い出したら、皆、後へは引けないみたいな部分もあったのかもしれない。
それでも腹を据えてしまうのだ。

一旦言い出した以上は二言は無い。
武士ではないがその気概は、お役人たる武士をはるかに上回っている。

この工事の着工にあたっての決め手は、自らの命を投げ打つ覚悟、失敗すれば、すってんてんの丸裸になるばかりか、磔になっても構わない、という血判状である。

これを持って藩は工事着手を決める。

なんという意気込みなのだろう。

そして、自ら言い出したこととは言え、堰の工事現場には5本の磔台が高々とそびえ立つのだ。
一体全体何のためにそんなことまでするのだろう、と訝しむのだが、案外別の効果があったりする。
堰の工事に反対した庄屋たちが毎日それを目にするような場所にその磔台にあったのだ。まさか意図したわけでもないだろうが、反対した庄屋たちはそれを目にする度に自責の念と五庄屋に対する自責の念にかられて行くのだ。

筑後川という大きな川への堰工事という当時では途轍もない大工事であったろうに、地域三郡から参加したお百姓さんたちが皆、反対派も賛成派も競って溝工事を進めて行く。
水が来ることを如何に切望していたか、嫌々借り出された賦役とは意味が違うのだ。地元の人ばかりではない。他所からの助っ人組も五庄屋の気概を粋に受け止めたのか、全員志気が落ちない。

この本に書かかれていることは元は史実だったのだろう。
どこからどこまでが史実なのかは定かではない。
口語で語っているところや、応援してくれる老武士などは架空かもしれない。
では嘆願書の文章やらはどうなのだろう。
作者によるあとがきもないし、かなりの文献をあさって書いたのであろうに、参考文献の一覧もないので、わかりかねるが、この地域のお百姓さんの暮らしぶり、食べもの・・至る所、まさに取材でもしてきたかの様な信憑性がある。

現代が先人たちの労苦の遺産の上で成り立っている事は承知している。
その先人たちとは名を為した人たちばかりではない。
この登場人物たちは、幕末や明治維新で活躍したようなお国のために何かを為そうとしたわけではない。

自らの領内のお百姓さんやその子々孫々のためを思って自らを投げ出し、結果周辺三郡の皆を水で潤わせた。

著者はよくぞこの方々を発掘してくださったものだ。
著者の労苦にも感謝!

水神(上・下)卷  帚木蓬生著 新潮社 第29回 新田次郎文学賞