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ライラの冒険シリーズ


ハリーポッターやナルニア国物語など、有名なファンタジー文学はイギリスで生まれています。
現実離れした世界で魔法が使えたり空を飛べたり。いろいろなピンチはあるけれど、
最後にはハッピーエンドが待っています。

ところが、このライラの冒険シリーズ、ちょっとほかのファンタジーと違うのです。

ライラの冒険シリーズは「黄金の羅針盤 上・下」「神秘の短剣 上・下」「琥珀の望遠鏡 上・下」の6冊で完結します。

ライラというおてんばな女の子が主人公。
現実に近いような、でも何かが少し違うライラの世界。
明らかに現実と違うのは、ライラの世界ではダイモンという守護精霊を全ての人が持っていること。
守護精霊は動物で、子供のうちは姿を変化させますが大人になるとその人を最もよくあらわす動物の姿に定まります。
ライラはジョーダン学寮とよばれるところで孤児と一緒に育てられていますが、
周りの大人たちはライラが特別な子供であることを知っています。
友達とやんちゃばかりをして過ごしていたライラは、ある美しい女性が尋ねてきたことがきっかけで、学寮を飛び出し冒険へ出かけます。

物語の始まりの「黄金の羅針盤」は冒険の始まりでファンタジーらしい要素が詰まっています。魔女が出てきたりくまに乗ったり。
でも物語が進むにつれ、ライラは人の人生や命を左右することまで選択しなければならない状況へと追いやられていきます。

この物語を読んだきっかけは映画「ライラの冒険 黄金の羅針盤」をDVDで観たこと。
「ライラの冒険 黄金の羅針盤」は小説「黄金の羅針盤 上・下」を映画化したもので、続編も製作予定と聞いていたので本を読んでしまってから続きの映画も見ようと思っていたのですが、本を読み終えて、「コレを映画化できるのだろうか」と頭にはてなが浮かびました。
次回作の公開予定を調べてみるとやっぱり。
北米カトリック連盟が、無神論をといているようなこの作品を観ないようボイコットをしたようで、アメリカでの興行収入が伸びず続編の製作を断念したそうです。

この物語がちょっとほかのファンタジーと違うと言ったのは、ライラの状況から自分の思想について考えさせられること。そして物語の終わり方がハッピーエンドなのかどうかも読んだ人の考え方次第ということ
作者フィリップ・プルマンは「無神論をすすめているなんてばかげている」と話していますが、そう感じる人がいてもしょうがないかなというのが正直な感想です。
だからといって映画にしてはいけないとも、子供が読んではいけないとも思いませんが。当たり前のように何かを信じる怖さもあるし、信じる事で救われることもあるし。
生まれたときから何かをただ信じてきた子供が、ファンタジーの物語を通して、
自分が何をどう信じていくかを考えるチャンスになるかもしれません。

ただ楽しもうと思って読むと、ちょっとしんどいファンタジーかもしれませんが、大人にも子供にもオススメしたい作品です。

ライラの冒険 黄金の羅針盤 フィリップ プルマン著, Philip Pullman , 大久保 寛 (翻訳)



赤いカンナではじまる


出版社の編集者達が主役の短篇が五篇。

本屋へ行って、本の並べ方に個性を感じ、この並べ方はあの人がやったに違いない、などと思うことがあるだろうか。
本屋も場末の駅前の小さな本屋などでは、まともな単行本にはもはや見切りをつけたのか、並んでいるのはコミック本が大半であとはマニア向けの雑誌、広告にあるようなビジネス本ばかり。
それでもわずかながら文庫本のコーナーが残っていたり、たまには新刊本が並んでいたりするのはまだまともな本屋だろう。

小さな本屋と言えば老眼鏡をかけたオヤジが本を読んでいるフリをしながら垂らした老眼鏡の上からギョロっと万引きをされやしないか、と客を睨んでいる姿などは、ドラマかアニメの世界の話だろう。
書店の店員、店主というのは重労働なのだ。
売れ行きの悪い本を棚から下し、毎日、毎日、届く新刊本に入れ替えて行くそれだけでも結構な労働なはずである。
本を読んでいるフリをして客を監視している暇などはおそらく無いだろうし、自分の趣味に応じた本の並べ方をするなどというのは、よほど豊富な人材を抱えた本屋でしか出来ないのではないだろうか。
本当に欲しい本を探すには大手の本屋に足を運ぶしかないし、そこでは大抵出版社毎、作家毎にきれいに並んでいる。

この本の「赤いカンナではじまる」に出て来る女性書店店員はそれをやってのけている。出版社の営業マンが見て一目で彼女の本棚だとわかってしまうほどに。

店員が本の並びに拘れる本屋というのはどういう本屋なのだろう。
この書店の規模が中堅どころというのがミソなのかもしれない。
実際に出版社勤務を経験した作者が書いているのだから、そういう本屋というのは存在するのだろう。

わが身を振り返れば、我が家の自分の部屋の本棚はかつては自分の好みで並びを考えた頃も確かにあった。
引越しを繰り返すうちに本棚の本の並びなどは無茶苦茶になり、一旦そうなってしまうと、次から次へと購入する本は、本棚の前へ積んでおくようになり、やがてそれは二重になり三重になり、今では探したい本を探すことも不可能になってしまった。

たまに段ボールへ本を詰めて古本屋へ売りに行ったりする時に全く同じ本が出て来たりする事など一度や二度では済まない。
すでに整理するということは放棄してしまった。

こんな書店員みたいな人が家に一人でも居れば、だいぶんと違ったことになったのだろうなぁなどとくだらないことが頭によぎりながらこの本を読んでしまった。

そのこだわりを持って本の並びを考えるこの店員。
毎日届く、新刊の段ボールの中から、「赤いカンナ」ではじまる本を探していた。

それ以上のことは未読の方のためにも書いてはいけないのだろう。

短篇で各々が別の物語であるが、出版社の営業マンとして同じ名前の人物が何回か登場したりもする。

「風を切るボールの音」
高校時代のサッカー部のキャプテンとマネージャーの10年ぶりの再開。
今でもサッカーの世界から離れられない元キャプテン。
彼女とは高校を卒業してからしばらく付き合った仲だというのに彼女のSOSを無視したこの男。
なんだか、わかるでようでやはりわからない。
何故か。我が高校時代は同じサッカー部でも男子校で女子マネージャーなど存在しなかったからか。
彼はマネージャーではなく、同じチームメートからのSOSなら駆けつけたのだろうか。わずかな期間でも付き合っていなければ駆けつけたのだろうか。
その時の彼の心境は10年近く前の彼にしかわからないのだろう。

「美しい丘」
これがおそらくこの本の秀逸。
秀逸なだけに敢えてふれないでおこう。

「いちばん最初に好きになった花」

「最後の夏休み」
大学の四回生になっても就職活動をせず、アルバイトで売るはめになった家電の掃除機。到底無理だと思えた店頭販売セールス。それでも掃除機100台を売ってやると決めて売り切ったこと。

成り行きで捕まえることになったザリガニ百匹。
どちらも目標は100。

この主人公、家電の営業にでもなればいいのに、などと思ってしまうのはこの就職難のご時世だからだろう。

自分はいったい何をしたいんだ!という若者の心を表したかったのかもしれないので、おそらく作者の意に反する感想かもしれないのだが、100台を売り切り、100匹を捕まえた、やりぬいた彼には大いなる達成感と自信を持って社会人への一歩を踏み出せるのではないだろうか。
などとこの作者の読者にあるまじき素直な感想を持ってしまった。


「赤いカンナではじまる」 はらだみずき (祥伝社)



趙紫陽 極秘回想録  


2010年10月8日、中国国内で初のノーベル賞受賞者がが発表された。
劉暁波(りゅうぎょうは)氏。
天安門事件にて民主化運動に参加し、その後もずっと中国の人権問題に取り組んで来た人物。

このことはさんざんメディアで取り上げられているが、今や全く話題にものぼらなくなり、あの天安門事件以来すっかり表舞台から姿を消したかつての彼の国の指導者的役割りを担っていた人物が存在した。

趙紫陽氏。当時の総書記。
天安門事件以降、表舞台から姿を消し、2005年に亡くなるまで、自宅で軟禁生活を強いられて来た人物である。

趙紫陽氏は自宅での軟禁生活時代にかつての出来事を記録しておこうと60分テープ30本もの録音を残していた。
この本はその録音を本にまとめたものである。

歴史にIFは禁物なのかもしれないが、あの天安門事件に至る前のデモが起きた時に趙紫陽氏が国内に居たのなら、北朝鮮を訪問などしていなかったとしたら、その後の成り行きはかなり変わったのではないだろうか。

当時、改革開放路線を進めるにあたって、トウ小平氏が最も信頼していたのが趙紫陽氏だったという。
その趙紫陽氏は学生達の言うことに耳を傾けるようにと、当時の首脳部に約束を取り付けてから北鮮へ出かけている。
その約束を反故にし、トウ小平氏の名前で反社会主義的動乱という社説を李鵬氏が発表してしまってからというもの、学生達の怒りに火が付いてしまった。
いや怒っていたのは学生ばかりか、労働者も然り。言わば民衆が怒っていたのである。

当時、改革開放路線を取っていた中国にとって民主化や言論の自由はいずれくぐらなければならない門であっただろう。

趙紫陽氏が学生達と早い段階で話し合いをしていれば、案外その道を緩やかに辿っていたのかもしれない。

もちろん、これはあくまでも趙紫陽氏側の言葉だけからなる回想録なので、一方的に断ずることはもちろんできないのではあるが・・。

しかしながら、その後、趙紫陽氏と敵対する立場に有った李鵬氏や江沢民氏が政権運営をあたってからも、その後の胡錦濤氏、温家宝氏の時代になってもさらなる中国の経済的発展は続き、ついには世界第二位のGDPを誇るまでの存在にまでなっていった。

つまりは、民主化や言論の自由というものが封殺されたまま、経済的にだけは発展を遂げて来たわけだ。
案外、李鵬氏側のねらい通りなのかもしれない。

天安門事件当時、参加していた学生や労働者はまさか自分達に銃が向けられるとは思っていなかっただろう。
デモ隊を制止する側の警察官達でさえ制止はうわべだけでどちらかと言えば静観していたぐらいなのだから。

現在の中国のそのいびつさは、各メディアでも取り上げられている通りなので、端折るが、国民は政治に文句を言わない限りは経済的に豊かになっている現状に大きな不満があるわけでは無かろう。
いや不満があったとしてもあの天安門での武力弾圧が歯止めになっていたのかもしれない。
過去に緩やかに流れるはずだった民主化の流れは、経済成長がストップした段階で一気に巻き起こるのかもしれない。

天安門事件後、日本へ逃れて来て、という小説で芥川賞を受賞した楊逸氏の「時が滲む朝」の登場人物達も日本という外から中国の民主化を!と訴えていた人たちがやがてはビジネスにのみのめり込んで、民主化運動なんて時代遅れ、と言わんばかりになって行く姿を描いていたでは無いか。
ただ、あの小説では主人公がテレサテンに惹かれただけで民主化とは何ぞやを知らないままにデモに参加していたあたりがなんとも頼りないと言えば頼りないが・・。
いずれにしても今や金儲けが最優先なのだ。

それにしてもどうやって、あの共産主義のイデオロギー一色だったあの国があそこまで改革開放路線を進めることが出来たのだろうか。
この趙紫陽氏の回想録にその成り行きが著されている。

いくらトウ小平氏が改革開放政策を唱えたところで実務者が居なければ、絵に描いた餅になってしまう。
この趙紫陽氏こそがそれを成し遂げた実務者であった。
趙紫陽氏と共に経済発展の道を推し進めた胡耀邦氏はその発展の目標があまりに急ピッチで、生産力を四倍にせよ、などと、とかく暴走気味であったものを趙紫陽氏は緻密に実践路線へ軌道修正し、方や保守的で旧イデオロギーにどっぷり漬かった、李先念氏、陳雲氏、といった党の長老派で改革反対派の人達を懐柔し、なんとか10年で天安門まで改革開放を成し遂げて来た。

趙紫陽、胡耀邦両氏の存在が無ければ、中国は21世紀まで自給自足路線を貫いてしまっていたかもしれない。

その趙紫陽氏は自ら推し進めた改革開放政策時代にも既に、二つのシステムが共存する矛盾は、いずれ問題噴出の種となるだろう、と予見していた。

そして、その噴出の結果が天安門事件である。

21世紀になってからの北京オリンピック、上海万博を経て、開かれた国のイメージが出来つつあっても尚、方や言論封殺があったり、一党独裁の国であることは、誰しも承知の上ではあったであろうが、この度の劉暁波氏のノーベル平和賞受賞にあたって、中国のメディアがいかなるものなのか、その名前が放送に流れるや否やテレビがまっ黒けになってしまうという異常さを世界が知ってしまった。

はてさて、この先、趙紫陽氏の抱いた矛盾はどういう形で噴出するのだろうか。
もはや第二の天安門は無いだろうが、果たして趙紫陽氏が目指した軟着陸と行くのだろうか。

天安門以後のデモは悉く官製デモと呼ばれるている。
本日、四川省で起きたというデモも異例である中央委員会の開催中に反日デモと言うことはまた強力な保守派が台頭して来たのかもしれない。
趙紫陽氏の頃から、改革派は常に強硬な保守派と対峙しなければならなかった。

トウ小平氏でさえ、改革開放と言いながらも最もやりたかった事は行政改革で、三権分立にはあくまでも反対だったという。
議会制民主主義では機動力も無ければ、政治にスピートが出ない(即決出来ない)、というのが口癖。

今や世界は中国抜きには語れないところまで来ている今日である。

世界中が今後の中国の着地点を注視している、と言っても過言ではないだろう。

趙紫陽 極秘回想録 天安門事件「大弾圧」の舞台裏! 趙紫陽 (著), バオ・プー (著), ルネー・チアン (著), アディ・イグナシアス (著), 河野純治 (翻訳)