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レッドシャイン


俺はいったい何をやりたいんだろう。
何を目指すんだろう。

十代後半の若者ではっきりと「将来私はこういうことをしたいんです」と言える人の方が珍しいだろろう。

十代後半どころか二十代になったって三十代になったってそんな気持ちを持ち続けるのものじゃないだろうか。

特にこの不安定な時代ならば尚更か。
国を背負うべき官僚はいつもメディアから叩かれ、政治家はトップになる毎に毎回叩かれ、大企業のトップも然り。
片やベンチャー企業の起業家として一時メディアの寵児となった人も、もてはやされたと思えば、それは束の間で、拘置所に入り世間から罵られる。

そんなニュースばかりを嫌というほど見せられた若者に大人は何を目指せとなどと言えるだろうのだろうか。

それこそ生きたいように、後悔しないように生きなよ、ぐらいしか言えないのではないのだろうか。

サッカー日本代表の中村俊介選手のような高校時代から、中期目標、長期目標をと立てて、まずJリーグの一軍で活躍。次は日本代表。次は海外のメジャーで活躍出来る選手に・・などというときっちりした目標を持つ若者など一部の優秀なスポーツ選手以外にはそうそういないだろう。

この物語の主人公は「俺はいったい何をやりたいんだろう、どっちを向いて歩いていけばいいんだ、やりたいことが見つからない」という多くの若者なら当たり前に持っている感情を、自分だけがそうなんだ、と悩み、周囲もそういう目で見ている。

やれば器用でなんでもこなせてしまう。でも何が本当にやりたいことなのか。

本当にやりたいことなんて見つけている若者の方がかなり少数派だと思うのだが、そんな十代の悶々とした気分がまるで読んでいる側が十代に遡って気分になってしまうほどにうまく描かれているのだが、反面、やりたいことが見つからない彼が異質のように周囲からも見られ、本人もそう思っているという設定を考えると作者は案外、十代からやりたいことをはっきりと持っていた珍しいタイプに属する人なのかもしれない。

「レッドシャイン」というのは彼(主人公)が所属する高専のエネルギー研究会という同好会、どうやら正式な部活動としては認められていないらしい、の作成したソーラーカーの名前である。

高専というのは、特定の技術者を目指す人のための高等教育機関で、先生は教授、準教授と大学の如くの呼ばれ方をする。
技術者養成のための専門学校なので就職率も良く、5年卒業でそこから大学への編入も可能。その大学はほとんどが国立なのだそうだ。
この本を読むまでほとんどその存在を知らなかった。
今年のこのご時世でも果たして就職率が良いのかどうかは知らないが・・・。

で、その専門知識を発揮したクラブでのソーラーカー。
まさにエコ、エコと叫ばれる時代、今年の4月に出版されたばかりの本なので話題性もピッタリの狙いかと思いきや、「温暖化、ホントか?」などと主人公の先輩にまるで中部大学のナントカという(名前を失念してしまった)教授の温暖化疑念論者のような発言をさせたりしている。

いや、この物語はエコが良い悪いを議論する話ではない。
秋田の大潟村というところで行われるソーラーカーのロードレースに向けて情熱を傾ける若者達の青春物語、と言うのがおそらく自然なのだろう。
しかしながらどうも「青春とは情熱だ」的な某千葉県知事を連想してしまう言葉でこの感想を結びたくない。

青春いう言葉、情熱などと言う安直な表現よりもかつて吉田拓郎が歌っていたような、青春とは生きているあと味悪さを覚えながら、青春とは燃える陽炎か、とつぶやくような雰囲気の方がしっくりくるのだ。

ソーラーカーと聞けば、アラフォーのジャニーズが日本一週だと言って終わるに終われないのか、一周を目の前にして島巡りをして時間潰しをするあのソーラーカーを思い浮かべてしまうが、この物語はソーラーカーの物語のようで実はそうではない。
ソーラーカーは単なる小道具にしか過ぎない。

何をやりたいんだろう、何をすればいいんだ、どっちを向いて歩けばいいんだ、俺のやりたいことってなんだ、と叫ぶ若者がソーラーカーに関わる、いや寧ろそのチームに関わることで、やりたいことを発見するかもしれない、そんな燃焼しきれない陽炎が燃焼しようとする姿を描こうとしているのではないだろうか。

レッドシャイン 濱野京子 著 (講談社)



L 詐欺師フラットランドのおそらくは華麗なる伝説


このタイトルの先頭の「L」って結局なんだったんだ?

世界中の迷宮入り事件を次々と解決したあのまぼろしの世界一の探偵「L」をもじったものなのかと思いきや、全く関係無く、ってそんな他の著作品の名前を借りてタイトルにつけるなんてわけないか。
とうに他界した明治時代の文豪作品をもじるならともかくも、そうそうあるもんじゃないよな。

それでも、詐欺師の華麗な伝説・・などという言葉がタイトルにある以上、華麗な詐欺師の手口がわんさか出てくる読み物を多いに期待して、タイトルのみで発注をかけたのだが、届いた本は、想像に反してなんともマンガチックな表紙。

パラパラとめくってみると、ところどころにマンガの挿絵まで・・。
あぁこれはひょっとすると最近流行りだというライトノベルというやつなのか。

L なる人物は登場しない。
どの何が「L」というタイトルに紐付くことになったのか、最後まで不明。
まさか、嘘の英語略なんて言わないよね。
もろ、詐欺師という言葉と被るし。

Lは登場しないがバーン・フラットランドという男が登場する。
これが、詐欺師と名乗るにはあまりに厚かましい有り様の男で、単に女ったらしのジゴロ。
それじゃ詐欺師の名が泣きますよー。作者さん。

まぁ、読んでみると、当初の期待が外れた装丁の割りには、まぁなかなか別の面白さがあったりするもので、そこそこ楽しめたりするのですが。

詐欺師がジゴロだったってまぁいいっか。そのジゴロの華麗な手口が語られるのかと思いきや、話はそんな華麗なる話には一切飛んで行かない。

そのジゴロが「罪人竜の息吹」なる石と関わってしまうことでまったく想定外の方向へ走り出すのだ。

「人間の文明の発展は星を滅ぼす毒だ」と信じる竜従という種族(種族なのか?)の女の子のあまりの真っ直ぐさに打たれてか、そのジゴロの性格が変って行く。

内容について詳しく触れるつもりはないが、作者さん、詐欺師の華麗な伝説でもなんでもないじゃない。

それなりに面白いんだから、もっと見合ったタイトルネーミングしてくれたら良かったのに。



グローバル恐慌―金融暴走時代の果てに


昨年秋のアメリカ発の金融恐慌が全世界を巡った時、戦争の臭いを感じた人は少なくなかったのではないだろうか。
歴史が物語っているからである。
どんな有効と思われる経済政策も打開策には成り得ず、結局戦争が再生への最大のカンフル剤だった。

恐慌発生後、オバマが大統領戦に勝利し、イラクよりの撤退、イランとの対話を打ち出していたので、その状態からいきなり戦争はまずない。
しばらくの間は戦争への臭いは薄いものになるのだな、と感じたものである。

などという書き出しをしてしまうとこの本が戦争の臭いまでふれているように思われるかもしれないが、上記は本書とは関係無い。

アメリカのサブプライムローン問題に端を発した今回の世界同時不況については、これまでもメディアにても散々語られたことでもあるし、どの会社でも繰り返し話題になったことだろう。
したがって、そもそもの発端についてなどというのは、何を今更という感を誰しも持ってしまいがちである。

ところが、ことの発端の時点では日本へ及ぼす被害は少ないのではないか、との見方から、その後の急激な円高による輸出企業へ一打目の打撃。それそのものはドルの評価が下がり、円の価値が上がったわけなので、一時的な企業の為替損益や評価損益にて赤が出たとしても、寧ろ円が強くなることそのものを評価する向きも多くあった。
ところが円高が、輸出企業の首を絞めだすにしたがって、製造業そのものが苦境に立たされ、これは一時的な問題じゃない、とばかりに非正規の解雇、はたまた正規社員の解雇にまで発展。
そう、当初よりどんどん様相が変って来るにしたがい、当初のサブプライムやリーマンなどの話題などは消え去り、トヨタショックだの、未曾有の不景気だの、雇用を守れ、と今やそもそも「何がどうしてこうなった」のかさえ忘れがちになる。

そういう時期にあらためて、本書の「何がどうしてこうなった」の箇所は今更どころか忘れ去られようとしていた「そもそも」を思い出させてくれると共に、あぁ、そうだったのか、という今更を再認識する上で最も有効な読み物だろう。

現代の金融というものを分かりやすく解説しているので、普段そういう世界と縁のない人や、経済に無関心な人にもとっつきやすいだろう。

サブプライムだけの問題ではない、金融の証券化というものが数々の問題を引き起こすその構造。

2003年時点よりアメリカの実質金利がマイナスだったということを知っていた人がどれだけいるだろう。
実質金利マイナスということは金を借りれば得をするという状態。
借りれば借りるほど得をする。それに火を付けたのが住宅ブーム。

何やらどこぞの世界のいつか来た道に似てやしないか。
そう完璧にどこぞのバブルと同じ道なのである。

では、それを経験済みの日本はこの金融危機においての行く道筋を示すことが出来たのでは?については時が遅すぎた、と筆者は述べる。

オバマ大統領は日本の「失われた10年」を反面教師にすると演説で述べられていたが、日本は失われた10年からまだ完全に脱却しきれていなかったのではないか、というのが筆者の弁である。

日本の低金利、低金利どころか限りなく0に近い金利をバブル崩壊後維持して来たためにその金利に嫌気をさしたジャパンマネーが世界に流れ、投機マネーとして暗躍した。
なんと、では遠因は日本の低金利だったのか?

ではこの打開策とは何なのか。
過去の世界の歴史の中で起こった恐慌はすべからく投機というものが発端である。
金融というもの無しでは資本主義は廻らないのだが、筆者が述べるのは産業を動かす血流としての金融の世界と投機という全く違う目的で、全く違う原理で動く金融の世界を切り離すべきである、ということ。
そう、投機なんてこの世界で行うんじゃないよ。全くはた迷惑な連中だ。
宇宙の彼方でやってくれ、と言いたい。

まぁ、それは極端だろうが、いずれにしろ、切り離すべきと言ってもそれはあるべき姿を述べただけ。

この進行形の世界同時不況、先行きはどうなるのか。
6/16(本日)付けの日経の朝刊のトップには「社債発行、11年ぶり高水準」「金融不安が後退」の見出しが並ぶ。
果たしてそうなのだろうか。

各国政府は金融機関への資本注入や預金保護をはじめとする生命維持装置を取り付けたが、この一旦取り付けた生命維持装置は一体どうやってはずすのか、その基準が見えないところが危険なのだという。

「失われた10年」を反面教師とした結果は「失われた何年」になるのだろうか。

最終的には戦争で再生しよう、と言う結論だけは御免被りたいものである。

グローバル恐慌―金融暴走時代の果てに 浜矩子 著(岩波新書)