カテゴリー: ハ行



殉愛


かれこれ10年間、この読み物あれこれを続けているが、1ヶ月丸ごと穴をあけてしまったのは2015年1月が初めてかもしれない。
別に天変地異が起こったわけでもないのに。

さて、良くも悪くもあちらこちらで取り上げられているこの本を読んでみた。

この本へのバッシングがものすごい。

バッシングの矛先は作者の百田尚樹氏へはもちろん、主役のさくら女史、そればかりか出版社へも。

どうなんだろ。そこまでボロクソに叩かれなきゃならないほどのものだろうか。

なるほど、確かにアルファベットで登場するK氏やU氏という特定の人物への見方がかなり一方的だな、という感じはした。
また、新たに来た奥さんになる前の彼女に対する態度なら、そんなものだろうな、という感じもした。
いずれにしろK氏やU氏への裏付け取材は行っていないだろう。
では裏付けがないからノンフィクションではないのか?
ジャーナリズムが裏付け取材無しに記事を書く事は致命的だろうが、この本は報道では無い。
さくらという女性に徹底的にヒアリングし、彼女の立場から彼女の視点からのみの取材に基づいたノンフィクションと言えば、ノンフィクションだろう。

たかじんそのものがさくら女史と出会って幸せだったかどうかは巻頭にある二人で一緒の時のたかじんの安心しきった様な笑顔を見れば、一目瞭然だろう。

ただ本人としては最後まで新地でワインを飲み続け、タバコも吸い続け、仕事も続け、ある日突然ばったり、という生き方、死に方を望んでいたかもしれない。
だが、そうなっていれば、「やしきたかじん」の名を冠しての番組は追悼番組と共に消え去っていたのではあるまいか。

病に倒れたが「必ず復帰をお待ちしてます」との意をこめて関西の「たかじん」の冠3番組は本人不在の1年を乗り切った。
1年後に復活を遂げるが、1ヶ月もたたずに再入院。
それでも「みんな待っていますよ」と冠をつけた番組は本人不在のまま続行されて来た。
本人不在でも続けられる冠番組として定着してしまった。ご本人ご逝去の後も3番組共、まだ「たかじんの○○○○」と冠を付けたまま、はや1年が過ぎた。
もうずっとそのまま続き続けるだろう。

それにしても、病が発覚してからの2年間というもの、一人の家鋪隆仁という素の人間に戻ったなら最愛の人と過ごした幸せな期間と言えば幸せだったろうが、もう一方の「やしきたかじん」という立場に立った時はつらいつらい2年間だっただろう、とつくづく思う。
待ってもらっているスタッフ、番組、視聴者、彼らを裏切るわけにはいかない、という強い思い。
自ら、「三宅先生が亡くなったらこの番組はその時を持ってやめる」と言い切っていたものが、三宅先生には先立たれ、且つ「続けなさい」という遺言まで渡され、自分の意識さえ混濁する中、転院に継ぐ転院。

それにしてもバッシングの嵐はどこまでが捏造だと言っているのだろう。

さくら女史の過去がどうであれ、この2年間の彼女の懸命な看護も介護も全て捏造なのだろうか。
その症状から病を調べ、担当の先生に治療法を相談しに行き、そこが無理ならもっと専門の医師のいる病院へ転院し・・・。
たかじんなら、その先生への義理からおそらくやらないだろうことをやってのける。

各病院の先生方、看護師の方々は皆、実名で書かれている。
それらの方々をして「あんな看護を見た事が無い」と驚嘆せしめている、懸命な看護も皆百田氏の捏造だとでも?
ならば、実名で書かれた方々が真っ先にクレームをつけるなりでそれこそもっと大騒動だろう。

やっぱり、お金の問題で揉めている最中の事柄を話題にし、且つ片方にだけ肩入れしたりすると、某かのバッシングは覚悟せねばならない、ということなのだろう。

殉愛 百田尚樹 著



眠る魚


これはひどい。本当にひどすぎる。
東日本大震災後の被災地のことではなく、この本のこと。

反原発なり、脱原発の立場ならそういう立場で論陣を張るのであれば、それはそれで潔いだろう。小泉純一郎氏の様に。

食堂やら居酒屋で、わざわざ西日本で採れただろう作物を選んだり、これは輸入ものだから大丈夫、と一人ごちている分にはそれはそれで個人の選択の問題だろうから好きにすればよろしいだろうが、原発容認の側の立場の人にも「福島や三陸沖の海産物を食べなければすむことだ」などと言わせているのは意図的なのか無知なのか。震災に遭った、津波に遭ったという以外はほとんど無関係な三陸沖までエリアをひろげて、ほとんど東日本で採れたものは全て汚染されている、と言わんばかりの記述。

あの事故以来、福島どころかそれ以外の農家さんたちも海外どころか国内の風評に耐えながらどれだけ念入りな放射能検査を経てようやく出荷にこぎつけているのか、ものを書く人なら現地を取材してから書いて欲しいものだ。
福島や近隣の農家さんがこれを読んだらどんなに悔しい思いになることだろう。
インターネットでどこからか仕入れた風評ものだけを頼りに登場人物に言わせているなんというのはもはやプロの物書きのする仕事とは言えないだろう。
漁業関係者ももちろん読めばさぞや悔しい思いになるだろう。

農作物やらの食べ物のことだけではない。
急に死んだ人が多くなった。
がん患者が増えた。子供の下痢や鼻血が止まらない例が増えた。・・・だのを他の登場人物に言わせるなら、せめてちゃんとした統計数値を出展の併記をどこかに書くべきところだろうに、そうはせずに「憲法九条が改正された今」などと未だ実現もしていないことも併せて書くことで、敢えてこれはフィクションなのですよ、というアピールも忘れない。
なんていう卑怯なやり方だろうか。

そもそもこの人、日本と日本人がかなり嫌いらしく、日本人には個性がないだの、いたるところに日本人の悪いところを書き並べてくれている。
「身体に気をつけて」「ご自愛下さい」などという言葉についての
日本という共同体に囲い込もうとする力が裏で働いているのだ、などと述べているくだりにくるともはや「呆れ」しか出て来ない。

そんなに日本人であることが嫌いなら自ら日本人であることをやめてくれりゃいいのに。
ご自身でいろいろな国へ放浪出来たりするのは日本国のパスポートの力があればこそ、というところの日本のおいしいところだけは、ちゃんとご存じということだろうか。
そんな嫌いな嫌いな日本であっても歯医者はやっぱり日本で見てもらうし、日本製品は性能がいいから、と海外逃避を計る前にしっかり買いだめをする、やっぱり悪口は言うが、おいしいところだけは、ちゃんと利用するって、ことか。

この著者は今年この本の出版直前に亡くなったらしい。

となれば、この文章も死者に鞭打つことになってしまうので、あまり気持ちの良いものではないが、有名ではないにしろ一応直木賞受賞作家だ。
亡くなったことでの遺作としてのみの受けを出版社は狙ったのだろうか。
だとすれば出版社不況に追い討ちをかける愚行だと言わざるを得ない。



快晴フライング


とある中学の水泳部の廃部をかけた話。

地域の公立中学の中で一校だけプールの無い学校。
本題に入る前に、
同じ学区内にしてはずいぶん不公平な話だなぁと思いつつも、よくよく思い出してみると、自分の小学時代にも同じ市内の別の小学校のプールを全学年借りに行っていたのを思い出した。
相手の小学校の校舎の窓から、ヤジのような馬鹿にした声を浴びたが、不思議と屈辱的でもなんでもなかった覚えがある。
級友達と一緒だったからだけではないだろう。別にお前らがプールを作ったわけでもなければ前らの親が作ったわけでもないだろうに。と、妙に覚めた大人のような気持ちだった覚えがある。
わき道にそれたが、そんな授業で使うプールとクラブ活動で使うプールとは少々重みが違うかもしれない。
なんといっても借りている相手は対戦相手であり、これからうち負かさなければならないライバルの本拠地だ。
戦う前からアウェイか。
この話、もちろんそんな話ではない。

自分の戦跡やタイムにしか興味の無かった少年が、主将が交通事故で亡くなってしまったためにたいして、主将代行の立場となる。
主将だった少年は、幼馴染みで面倒見の良かった同級生で多くの後輩から慕われていて、それまで同好会的なサークル活動だった水泳活動を学校から部として認めさせるまでにした。
その跡を継いだわけだが、自分の個人成績にしか興味の無かった男に後輩たちは付いて来ず、退部者が相次ぎ、はなからやる気の無い顧問の教師からは廃部を宣言されるが、大会のリレーでの優勝を宣言してしまう。
優勝できなければ廃部。
池井戸潤の「ルーズヴェルトゲーム」を思い出すような話の流れ。
ただ、こちらの水泳部の残留者は飛び込めない息継ぎできないやつ、泳げないやつ、と、到底戦える布陣では無い。
そんな時、練習場の市民プールで見かけた飛び魚のような泳者。
性同一症候群の同級生の少女の話などを含めて、そこまでの展開にしてしまえば結論丸見えじゃない、と思いつつもその存在感はストーリーの盛り上げには大いに有効だ。

それよりも存在感が大いにあったのがオカマのママさん。
教師よりもはるかに教師らしい言葉、信頼感。説得力。
自分に正直に生きている人ならではの説得力。

なぜだろう。体型はまるで違うはずなのにその存在感がマツコデラックスと被ってしまった。

快晴フライング 古内一絵著