宮城谷氏の三国志が後漢の終わりからがスタートなら、この本は後漢の誕生を描いたもの。
宮城谷さん、三国志を書いている最中にかたわらでこの草原の風を書いていたんだろうな。
三国志に比べると宮城谷さんの筆がなめらかなように思えてならない。
孟嘗君、重耳、呂不韋、晏子・・・など、個人にスポットを当てたを描いている読み物は、長編とは思えないほどにすらすらと読めてしまう。
宮城谷さんのいかにも自分好みの人物にスポットを当てた時、その人物のいい所を存分に引き出している時が、一番ご自身でも書き易いのだろう。
まさに軽快なタッチの読み物。
三国志が決して不出来なわけではもちろんないが、やはりあれだけ多くの人が書いているものを別の観点から描きだすには、そんなにすっきりと割り切って書けるものでもないだろう。
私は宮城谷三国志を文庫から手を出してしまったので、そのまま文庫で通そうと思っているのだが、文庫の出版は未だ第七巻まで。
第八卷の出版待ちなのだ。
それだけこちらは年月がかかっている。
書く方も読む方も。
この草原の風は前漢が王莽の手によって終わり、王莽による新朝という新たな時代に入っているところから始まる。
王莽そのものは儒教家なのだという。
後漢の終焉近くになって現れる、とんでもない悪政を行う閻顕(えんけん)、梁冀(りょうき)、董卓(とうたく)・・・そのはざ間はざ間では、宦官によるこれまた私利私欲の政治。
そんなひどい悪党のような連中が国のトップになったとしても、まだなんだかんだと後漢は続くのである。
それに比べて、王莽の作った新朝の15年という短さはどうだろう。
確かにひどい施策を行っている。
田畑への作物へ増税を行うまでは、仕方ないだろうが、過去何年にも遡って、その増税分を納付しろ、などと言って回れば、どれだけ備蓄豊かな豪農だって逃げ出さざるを得なくなる。
漢時代の呼称、官職名や地名を尽く変えようとしたことも人々に混乱を招く。
自らの後継ぎを誅してしまうことも短期王朝へ拍車をかけたかもしれない。
それにしてもだ。
それにしても反乱軍が興ってから崩壊までが早すぎる。
後漢の終焉前に黄巾の乱やら、散々反乱が起きても延々と後漢が続いたのと比べるとあまりにも早い。
この本には天子という言葉が良く出てくる。
主人公の劉秀も周囲は早く皇帝の地位につくべきだ、と言われつつも永い間逡巡するのは自らが天子たる資格があるかどうか、の見極めがなかなかつかないからである。
後漢が事実上、そのていを為さなくなっても延々続いて行くのは、天子という権威に叛いて自らが賊になりたくないからでもあり、高祖劉邦から続いた劉王朝を廃するということによほどの大義名分がなければなかなか民意を得られない、ということもあったのかもしれない。
それに比べれば、王莽の朝廷は倒す方にこそ大義名分がある。
だから、一旦反乱が起きれば、倒壊するのが早い。
宮城谷氏は主人公の劉秀という人物を思いっきりお気に召したようだ。
この人物には徳がある。
それだけでも充分だと思うのだが、戦もうまい、勇気もある。
青年になるまではひたすら農業をして来た人なのだ。
田畑を生き返らせることの達人でもあった。
その頃から人に対する思いやりにあふれ、自分のしたことを誇らず、他人の成果にしてしまう。
伯父から官吏になれ、と言われて長安へ留学する。
その人が兄から推されるように反乱軍を率いる道に入って行く。
それまで、農業と学問しかしたことのない人がいきなり、反乱軍を率いての戦術などたてられるものだろうか。
土方歳三みたいに若い頃から、喧嘩ばっかりやって来た人なら、人と戦うということが如何なることかを知っているかもしれないが、草木を慈しみ、学業をし、せいぜい他にやった事と言えば運送業の手伝いぐらい。
そんな人があろうことが少人数を率いて百万の大軍を破ったりまでもしてしまうのだ。
「後漢書」を著した范曄(はんよう)という人は、劉秀(光武帝)より二百年の後の人だという。
二百年も経過すれば、英雄伝は誇張されたり、作られたりもするだろう。
歴史書の中にあっても、疑義と思えるところにはちゃんと疑義を述べるのが宮城谷氏なのだが、好きな人物にはついつい、筆が甘くなってしまうのかもしれない。
それでも「あとがき」の中で、劉秀をして平凡な人が王になり皇帝になっていくさまを驚いた、と書いているので、筆が甘くなったよりも本当に驚きの心だけでこの本を著したのかもしれない。
草原の風、(上)(中)(下)と結構なボリュームの本ではあるが、全く退屈を感じずに一気に読めてしまう本である。