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天国旅行


自殺願望、遺言、幽霊、心中、そんな死にまつわる短編が7編。

『遺言』という小編。
永年連れ添った妻への夫からの愛情を込めた手紙。
これほどまでに夫に愛される妻はなんて幸せだろう。
と余韻に浸りたいところだが何か引っかかるところがあって再読してみる。
なんて、通り一遍に読んでしまったのだろう。

夫から妻へのようで、この夫というのは女性だよね。
それを前提に読みなおすと各所、各所のほんの小さな違和感の部分が全てあぁそれでか、と解消されていく。

三浦しをんさんという作家、こういうひっかけみたいな書き物はされない人だと思っていただけに、少々意外。

『君は夜』
小さい頃から眠ると夢を見、その中では自分は江戸時代の若妻。
男女の営みも性教育の授業がはじまるよりはるか前より夢の中で体験済み。
もはや、夢の中の自分が本当の自分なのか、昼間の自分が本当の自分なのか、わからなくなってしまう。

「インスペクション」という夢を扱う映画を見たあとだけに「夢」というキーワードに飛びついたが、趣きは全く異なる。

ここでは、寝ている時に見る夢は潜在意識の表れという認識とは全く正反対だ。

『初盆の客』
これが一番が温かくていい話しだったかな。

祖母の初盆に現れた一人の青年。
祖母が祖父と知り合う前に産んだ子が居て、自分はそのさらに子供。
従って自分はあなたの従兄弟なのだ、という。

その先の話は異なるが、少々前に自分の身近な所でこれと同じ状況になったことがあるので、つい引き込まれてしまった。
ストーリーの肝心な部分はそれから先の展開のでしたね。

他に
『森の奥』
『炎』
『星くずドライブ』
『SINK』

一味違う三浦しをんさん作品集でした。

天国旅行  三浦しをん 著



ばんば憑き


もののけ、怪異、そういう話のようでちょっと違う。

強い恨みの念を抱いた亡者のことを「ばんば」というのだそうだ。

江戸の小間物屋の若旦那と若おかみが箱根へ湯治へやってきた旅の途中の宿で相部屋になった老婦人。
若おかみが酔っぱらって寝入った後に、若旦那は老婦人から昔語りを聞くことになる。

その老婦人若き頃、これから夫婦になろうという新郎新婦が居たそうな。
その新郎を片思いで思い続けた女が新婦を刺して亡き者にしてしまう。
「さぁ、これであなたは私と一緒になれる」
とんでもない思い込み女なのだが、事情があって代官所へ届けるわけにもいかない。
では沙汰やみにしてお咎めなしか、というとそうではない。
その村ならではの解決策があった。
その強い恨みの念を抱いた亡者が自分を殺めた人の身体を乗っ取って、その人の魂を追い出してしまう。
それをとり行うことを「ばんば憑き」とその村では呼んでいる。

死者が勝手に乗っ取るのではなく、周囲がその儀式をとり行うのだ。
だから、もののけ、怪異、妖怪とは違って、寧ろ生きた人が、死者から魂を復活させて犯罪者の魂を追い出して入れ替わるように取り計らう。

追い出して入れ替わった後は、元の新婦が別の顔、身体でそこに居る。

顔が違うので結婚式はささやかに身内だけで。
その後もなるべく外へ出ないように、静かに暮らさねばならない。

そうして子供も三人生まれて、新婦(いやもう新婦ではないか)の親は喜ぶが、本当に喜べるのか?
子供へ渡った遺伝子は亡き娘の魂からではなく、やはり犯罪者の遺伝子だろうに・・などと思ってしまうが、江戸時代の話。
もとより遺伝子などという概念は無い。

跡取りが無事出来た後、女はどこへともなく姿を消したのだという。

そんな不思議な話を老婦人から聞いた小間物屋の若旦那。
その老婦人の正体とは?と思い至る。
そしてその後、そのばんば憑きの話を若旦那は役に立てたのだろうか。

その他小編が五編。
「坊主の壺」
「お文の影」
「博打眼」
「討債鬼」
「野槌の墓」

なかでも「博打眼」とか「討債鬼」などというのはおもしろい。

「博打眼」と契約を交わし「博打眼」の主となるととたんに博打には負け無しとなるのだという。
博打で勝ったお金は放蕩して使い尽くさなければ、悪気にやられて死んでしまう。
また、放蕩して使い尽くす生き方をすれば身体を壊してやはり短命になる。
こういう「博打眼」を扱った民間伝承でもあったのだろうか。

「討債鬼」とは、人に貸しを作ったまま亡くなった者が、その貸しを取り立てるためにこの世に現れるというもの。
これは話しの流れからして、どこの宗派かはわからないが、お坊さんの説法に出て来る類の話なのだろう。

いやはや宮部みゆきという作家は、実にいろんな引き出しを持っておられる。

ばんば憑き 宮部みゆき 著   角川書店



三国志(二)


第二巻では、まだまだ世に言う三国志の時代に突入しない。
真の三国志とはその時代を産む背景となった後漢時代が衰退して行く様を描かねば、という宮城谷氏ならではの筆致で後漢時代の政治・宮廷が腐敗していく様が描かれる。

曹操の祖父である曹騰が仕えた八代目順帝が亡くなり、またまた皇太后による院政の時代に入る。
皇太后である梁太后は徳政を行おうとするのだが、皇太后の兄で大将軍となった梁冀という男。
史上稀に見る大悪人。
后の外戚による政治介入の弊害は多々あれど、これほどひどいものはない。

自分に都合の悪い上書を書いた人間を悉く誅殺し、悪党を客分として囲い、町人からも搾取し、とうとう皇帝をしのぐ存在になってしまう。
順帝の後、帝位は冲帝、質帝、桓帝とどこかの国の総理大臣の如く一年毎に変わって行くのだが、それもそのはず。
梁冀の機嫌を損ねた皇帝までも亡きものにしてしまうのだから。

我慢に我慢を重ねた桓帝がとうとう立ちあがり、宦官を味方につけ、梁冀を誅殺するや、梁冀同様にやりたい放題だったその息子、孫、弟、悉くが観念して自害する。

こうしてようやく外戚政治が幕を下ろしたのだが、今度は急に勢いづいたのが宦官たち。
まともな官吏と帝による親政の時代の到来を民衆は期待するが、桓帝という人、官吏を一切信用しない。
官僚を一切信用しないTOPって、これも日本のどこかで最近聞いたような話と似ているなぁ。

官吏の連中は、なんだかんだと言ったところで、梁冀の悪政、暴政を止められなかったではないか。
梁冀をSTOPさせたのは宦官達だ!と官吏からの助言には一切耳を貸さず、宦官の言うことのみを信用する。

梁冀亡きあとの桓帝の時代とその次の霊帝の時代は、宦官たちのやりたい放題の時代で、帝へ伝わる全ての情報は宦官の口を通して入るため、実質、帝は宦官たちの操り人形。
なんのことはない。
梁冀の存在が宦官に変わっただけのこと。

この二代の間に二回も「党錮の禁(とうこのきん)」と呼ばれる大粛清が行われる。
一度目は宦官による政治をこころよく思わない官吏らを一勢に捕え、終身禁固などに処すまでだったが、霊帝の代の二度目の「党錮の禁」ではその対象は官吏にとどまらず、巷で評判の高い人をことごとく捕えて、その一族もろとも誅殺してしまうもので、罪もない人が何百人と殺されて行く。
中には一切逃げない者も居れば、廻りが放っておかず、逃げ延びた者も居る。

こういう時代がえんえんと続く後漢時代。
民は宮廷に失望し続けるが、えんえんと搾取され続けられたのかどうなのか。
この時代の租税制度が如何なるものなのか、その記述が見当たらないのは少々残念である。

この宮廷政治に失望した人達を引き付けたのが「太平道」という宗教でまたたく間に信者は増え続けて行く。
それを取り締まらねば、と遅まきながら宮廷が思う訳でった時にはもはや何百万人の規模に達しており、しかも武装もされている。
ただの門信徒たちではない。

こうして第二卷の終わりでようやく「黄巾の乱」という三国時代の入り口に到達する。

実はこの第二巻目はだいぶん以前に読んではいたのだが、最近になってようやく、続きを数冊手に入れたので読み進めてみたものの、あまりの登場人物の多さでわけがわからなくなり、再度、第一巻から再読しているのだ。

宮城谷氏はいったいどれだけの歳月をこの連作に費やしているのだろう。

一巻、一巻の出版間隔がだいたい一年置きぐらいか。またまたその前の構想期間が何年間もあるのだろう。

元々はこの時代など書きたくは無かったのではないか。

特にこの第二巻の終わりの部分あたりからの三国志を書いている人はあまりにも多くの人に書かれすぎている。

これまで宮城谷氏ならではだった中国古代も春秋戦国時代もさすがにもう書き尽くしたか。
古代、周の時代、春秋戦国時代、秦の始皇帝、項羽と劉邦の攻防から漢の時代まで来てしまった以上、とうとう後漢と三国志を書かざるを得なくなったということだろうか。

それにしてもこれだけの歳月をかけておられる。
宮城谷氏はその時代の風景に自分が馴染み、とけ込んでその時代の風景が見えるようにならなければ、書き始めない人だと推察する。

おそらく、この時代の風景にはさぞかしとけ込みにくかったのだろうな。

そのあり余る雑音を振り切って、ようやく見えて来たその時代の風景。宮城谷氏ならではの三国志には何が見えてくるのだろうか。
この卷以降が大いに楽しみだ。

三国志 第2巻   宮城谷昌光 著 (文春文庫)