第二巻では、まだまだ世に言う三国志の時代に突入しない。
真の三国志とはその時代を産む背景となった後漢時代が衰退して行く様を描かねば、という宮城谷氏ならではの筆致で後漢時代の政治・宮廷が腐敗していく様が描かれる。
曹操の祖父である曹騰が仕えた八代目順帝が亡くなり、またまた皇太后による院政の時代に入る。
皇太后である梁太后は徳政を行おうとするのだが、皇太后の兄で大将軍となった梁冀という男。
史上稀に見る大悪人。
后の外戚による政治介入の弊害は多々あれど、これほどひどいものはない。
自分に都合の悪い上書を書いた人間を悉く誅殺し、悪党を客分として囲い、町人からも搾取し、とうとう皇帝をしのぐ存在になってしまう。
順帝の後、帝位は冲帝、質帝、桓帝とどこかの国の総理大臣の如く一年毎に変わって行くのだが、それもそのはず。
梁冀の機嫌を損ねた皇帝までも亡きものにしてしまうのだから。
我慢に我慢を重ねた桓帝がとうとう立ちあがり、宦官を味方につけ、梁冀を誅殺するや、梁冀同様にやりたい放題だったその息子、孫、弟、悉くが観念して自害する。
こうしてようやく外戚政治が幕を下ろしたのだが、今度は急に勢いづいたのが宦官たち。
まともな官吏と帝による親政の時代の到来を民衆は期待するが、桓帝という人、官吏を一切信用しない。
官僚を一切信用しないTOPって、これも日本のどこかで最近聞いたような話と似ているなぁ。
官吏の連中は、なんだかんだと言ったところで、梁冀の悪政、暴政を止められなかったではないか。
梁冀をSTOPさせたのは宦官達だ!と官吏からの助言には一切耳を貸さず、宦官の言うことのみを信用する。
梁冀亡きあとの桓帝の時代とその次の霊帝の時代は、宦官たちのやりたい放題の時代で、帝へ伝わる全ての情報は宦官の口を通して入るため、実質、帝は宦官たちの操り人形。
なんのことはない。
梁冀の存在が宦官に変わっただけのこと。
この二代の間に二回も「党錮の禁(とうこのきん)」と呼ばれる大粛清が行われる。
一度目は宦官による政治をこころよく思わない官吏らを一勢に捕え、終身禁固などに処すまでだったが、霊帝の代の二度目の「党錮の禁」ではその対象は官吏にとどまらず、巷で評判の高い人をことごとく捕えて、その一族もろとも誅殺してしまうもので、罪もない人が何百人と殺されて行く。
中には一切逃げない者も居れば、廻りが放っておかず、逃げ延びた者も居る。
こういう時代がえんえんと続く後漢時代。
民は宮廷に失望し続けるが、えんえんと搾取され続けられたのかどうなのか。
この時代の租税制度が如何なるものなのか、その記述が見当たらないのは少々残念である。
この宮廷政治に失望した人達を引き付けたのが「太平道」という宗教でまたたく間に信者は増え続けて行く。
それを取り締まらねば、と遅まきながら宮廷が思う訳でった時にはもはや何百万人の規模に達しており、しかも武装もされている。
ただの門信徒たちではない。
こうして第二卷の終わりでようやく「黄巾の乱」という三国時代の入り口に到達する。
実はこの第二巻目はだいぶん以前に読んではいたのだが、最近になってようやく、続きを数冊手に入れたので読み進めてみたものの、あまりの登場人物の多さでわけがわからなくなり、再度、第一巻から再読しているのだ。
宮城谷氏はいったいどれだけの歳月をこの連作に費やしているのだろう。
一巻、一巻の出版間隔がだいたい一年置きぐらいか。またまたその前の構想期間が何年間もあるのだろう。
元々はこの時代など書きたくは無かったのではないか。
特にこの第二巻の終わりの部分あたりからの三国志を書いている人はあまりにも多くの人に書かれすぎている。
これまで宮城谷氏ならではだった中国古代も春秋戦国時代もさすがにもう書き尽くしたか。
古代、周の時代、春秋戦国時代、秦の始皇帝、項羽と劉邦の攻防から漢の時代まで来てしまった以上、とうとう後漢と三国志を書かざるを得なくなったということだろうか。
それにしてもこれだけの歳月をかけておられる。
宮城谷氏はその時代の風景に自分が馴染み、とけ込んでその時代の風景が見えるようにならなければ、書き始めない人だと推察する。
おそらく、この時代の風景にはさぞかしとけ込みにくかったのだろうな。
そのあり余る雑音を振り切って、ようやく見えて来たその時代の風景。宮城谷氏ならではの三国志には何が見えてくるのだろうか。
この卷以降が大いに楽しみだ。