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歌うクジラ


村上龍という人、何年かに一度、途轍もないものを書いてくれる。
「コインロッカー・ベイビーズ」、「愛と幻想のファシズム」、「五分後の世界」、「半島を出よ」いずれも長編で、あまりの衝撃、あまりのエネルギーに圧倒されてしまうのだ。
他の作家の本で、どれだけ感動するものがあろうと、どれだけ傑作だ、と思えるものがあったってこういう凄まじいエネルギーを放つような作品にはそうそう出会えるものじゃない。

この「歌うクジラ」もそうした一冊だった。正確には上下巻なので二冊なのだが。
一言で言えば未来小説。
一口に未来小説と言っても大半は、いくら木星へ居住していようが、金星に移住していようが、どれだけ優秀なロボットが登場しようが、どこか現在の価値観を延長しているものが大半である。

この本の圧倒的なパワーというのは未来小説というよりジャンルを大きく飛び越え、既存の価値観や概念、全てを破壊しまくってしまうところだろうか。

110数年後の日本。
そこには今で言うところの格差というものがない。
何故なら人民は最上層階級、上層階級、中層階級、下層階級、最下層階級の間で隔離され、下の階級に要るものは上の階級の存在すら知らない。
江戸時代の士農工商の様に共存しているわけではない。隔離されているのだ。

存在を知らないので、妬むことも羨むこともない。そこには格差が無い。
なんとも逆説的に思えるが、実際にそうなのかもしれない。
仕事もしない目の前のエリートが収入を何倍も得ていれば、嫉妬心もわくのだろうが、ビル・ゲイツに格差だのと嫉妬するやつはいない。
ビル・ゲイツはメディアに登場したりするのでその存在を知られているが、存在する知らなければ、もはやその差そのものも彼らには存在しない。

そういう隔離された階級の最下層。最下層というのは性犯罪者やその子孫たちが住み、平均寿命は短く、45年で三世代が入れ替わる。
その最下層の島からから主人公は旅立って行く。

SW遺伝子と呼ばれる、老化に繋がる遺伝子を修復して老化をSTOPさせてしまう遺伝子が発見され、最上層と呼ばれる階級はその恩恵を受け、100歳を超えても尚、若々しさを保つ。

同じ遺伝子を逆用することで、犯罪者にはその逆の老化を一気に早めるという措置が取られる。

この110数年後の世界に至るまでの間に、「文化経済効率化運動」、という一見彼の国の文化大革命を想起させるようなネーミングの改革を経て、日本人は敬語という文化を捨てる。
敬語が通じない世界。
それだけでも日本人の意識はかなり異なるものになるのだろうが、まだまだそんなレベルの話ではない。
恥という概念がもはや無い。
怒りという概念が無い。
人を可哀そうだという概念が無い。

最上層のi一部の人間は理想社会を追い求め、その行きつく先はとことん自然と共存した、ジャングルに住むボノボという類人猿に近いものになって行く。
たった一世紀やそこらで類人猿になるほどの変革が起きてしまうとは考えづらいが、我々小市民にはわからなくても案外「命を守りたい」と演説したあの人なら、最後の演説で「国民がとうとう耳を貸さなくなってしまった」と言い切る人になら、自然と共存しすぎて類人猿になることも理解出来るのかもしれないな。

この理想社会も逆説的ではあるが、何事にも極端にぶれて行けば実現してしまうのかもしれない。

下層階級の中には移民の子孫たちも含まれるのだが、彼らは日本語の助詞を敢えて違えて会話する。
さすがにこの部分がえんえんと続いた箇所はかなり読みづらいものがあった。

はたまた別の場面では、高齢化社会のとことんの行く末を描いた箇所なども読み応えがある。

この本はこれからの100年先という未来から見た歴史書なのかもしれない。

この100年後はかなりいびつに強調された姿ではあるが、ここまで行かずとも似たようなことは起こり得るのかもしれない。

実際の100年後の人たちからすればもう一つの100年後。まさに「5分後の世界」なのかもしれない。

歌うクジラ(上・下巻) 村上龍 著



月と蟹


小学校3年生の時に父の会社が倒産し、祖父の住む鎌倉近辺の海辺の町へ転校した小学生。
おまけにその父も他界してしまい、友達が持っているゲームソフトを何一つ持たない主人公の子は友達が出来ない。

唯一の友達は同じ転校生の男の子。

クラスに他に友達はいない。

主人公は東京からの転校生で、もう一人は関西弁バリナリなので関西からの転校生なのだっろう。
この関西弁の子はかなり能動的な子。
この子に友達が出来ないのはちょっと不思議かな。
誰とでもすぐに溶け込んでしまえるような雰囲気を持っていそうにも思える。
だが、ストーリーのは設定上、この子は孤独である必要がある。

その子は家庭ではドメスチックバイオレンスの被害者で、身体にはいくつものあざがあり、絶食させられたのか、あばらが見えるほどに腹がへこんでいる時なども・・・。
家では虐待され、学校では友達が居ない。

彼らは海辺でペットボトルを沈め、ヤドカリや小エビなどを捕まえたりして一緒に遊ぶ。
子供の遊びというものはだんだんとエスカレートして行くものなのだろう。

ヤドカリの殻をライターであぶり、ヤドカリをあぶり出して遊んだり、そのヤドカリ達を飼うための潮だまりを少し登ったところの岩場のくぼみに作ってみたり。
遊びはどんどん発展?して行く。
次にはヤドカリを捕まえて、その殻をライターであぶって出て来たヤドカリを「ヤドカミ様」として願いを叶えてもらうことを考え出す。
二人とも、複雑な思いを持つ少年たちなのだ。

その「ヤドカミ様」への願いが「お金が欲しい」ぐらいならまだ可愛いものなのだが、これもだんだんとエスカレートして行く。

何かしら心の苦しさから逃げ道を探すのは、大人も子供も同じなのだろうが、その方向がなんとも危うい。

この本を読んだ人の評には子供らしいだとか、少年らしい心理だとか、子供の切実な願いだとかそんな言葉が目立ったが、果たしてそうだろうか。

願い事、自分の叶えたい事を願う場で出て来てしまうのが、人の不幸を願う事になってしまった段階で、もはやそんなもには切実でも子供らしくもなんでもない。

それにしても何と言っもその願いを叶えてやろうとする友人の少年にはかなり少し薄気味の悪さを感じずにはいられない。

祖父の語る「月夜の蟹は食べるな」の逸話が表すように、蟹は醜いものの象徴として描かれている。
月夜の蟹は、月の光が上から射して海の底に蟹の形が映り、その自分の影があんまり酷いもんだから・・・・

主人公は自分で自分の気持ち、願いが醜いことにも気がついていて、月夜の蟹の醜さは、主人公の心の醜さの比喩のように使われている。

この「月夜の蟹・・」が本来一番印象に残るべき言葉であるべきなのだろうが、なぜなんだろう。

「カニは食ってもガニ食うな」という祖父の言葉の方が印象に残ってしまった。

月と蟹 著  道尾 秀介 (著) 2011年 第144回直木賞受賞作品

2011年 第144回直木賞受賞作品



家族の言い訳


家族をテーマにした短編集です。
親子の話や、夫婦の話。

家族に対して、大切に思うから言えなかったり、
家族という関係に甘えてしまうから言うべきでないことを言ってしまったり、
いつか言おうと思っていたら言えなくなってしまったり。
「あーわかる。」と思うと同時に、
家族に対してもっとしなくてはいけないことがある気がして焦りました。

印象に残った一編の
ざっとあらすじ。

経営する会社が倒産し、夫が蒸発してしまいます。
しばらくは子供と二人、どうにかやっていこうと頑張りますが、
ある日疲れ果てて子供をつれて旅に出てしまいます。
電車に揺られ、呆然としていると、
気づかないうちにすぐ側にいる子供が熱を出していました。

途中下車したところで小さな宿を見つけます。
様子のおかしい親子に気づいた宿の女将さんは、
特に何を聞くでもなく、自分の家族について話します。

夫について、子供について考え、
溜め込んでいた苦しさを吐き出して、
主人公はもう一度頑張って生きていこうと思えるようになります。

主人公は、出会ってから夫の会社が倒産するまで、
一緒に苦楽を共にしてきたのに、肝心なときに支えになれなかったことや、傷つくとわかっていたことを言ってしまったことを悔やみます。
でも、『まさか自分の側からいなくなるとは思わなかった。』という気持ちが根底にあります。
この感情こそが家族への甘えや、言い訳を生んでしまうのだと思いました。

そして、長く連れ添った夫婦が互いをうまく思いやれなかったにも関わらず、
熱を出したまだ小さな子供は、母親に自分が熱を出してしまったことを謝り、
父親が出て行ったのは自分のせいではないかと心を痛めます。

家族の中に存在する感情はたくさんあって、
とても難しい。
でも理解したいし、理解されたい。
うまく伝えられるかはわからないけれど、
家族に伝えたいことがあふれてくる物語でした。

家族の言い訳  森浩美 著