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きつねのはなし 


昔、京都に住んでいたことがあるが、この本を読むとその界隈の風景がまざまざと目の前に現出するように、懐かしく思いだされる。

京都の一乗寺にある芳蓮堂という骨董屋、古道具屋か?を舞台にする「きつねのはなし」。
「果実の中の龍」
「魔」
「水神」
の四編が収められている。

怪奇小説、と言うが果たしてそうだろうか。
「きつねのはなし」「魔」「水神」などは何やら京都を舞台にした日本昔話のような気がしないでもない。
京都で怪奇と言えばなんと言っても深泥ヶ池か。
自分が住んでいた頃も深泥ヶ池の幽霊話は良く聞かされた覚えがある。

四編の中で個人的に気に入っているのが「果実の中の龍」。
主人公が気に入っている先輩の実家は明治維新後に成り上がった大地主だったのだという。その先輩のお祖父さんは還暦を迎えてから自伝を書き始めたと先輩曰く。
幼少時代からの思い出を書き始めたはいいが、構想が膨らんで、明治時代の栄華を書き、更に構想が膨らんで明治ははるか遡り、古事記、日本書紀の時代まで遡ってそこからの家系の物語を書き始めたのだという。
無数の物語を集めて来てはその断片をつなぎ合わせ、長大な物語に仕上げて行く。
もはや妄想によって作られた一族の年代記なのだが、それを妄想と言ってしまうのはどうなんだろう。
どんな時代にも日本も他の国でも、成り上がった者が一族の箔をつけるために作り物の年代記を作って、それが年を経るうちにいろんな話が織り交ざって、今や史実になってしまったなどと言う話は山ほどあるのではないだろうか。

だが、作者の落とし所はそんなところではなかった。

先輩は祖父の血統をまさに継いでいた、いや、そうではなく先輩が祖父そのものであった・・・。
短編をあまり詳しく紹介してしまうわけにはいかないが、まことにその先輩こそ作家稼業そのものではないだろうか。
この一篇のみ他の三篇とはかなり違った味がある。

帯に「祝山本周五郎賞受賞」とあったが、なんのことはない。作者が別の本で受賞したということで、この本のことではなかったようだ。

もちろん、賞がどうしたなどは読者にはどうでもよいことで、他の三篇も何やら不思議な空間へ行って返って来たような読後感を感じる作品だった。

きつねのはなし 「新潮社」 森見登美彦著



きりきり舞い 


「東海道中膝栗毛」をご存知ない方でも「やじきた道中」と言えば、中身をご存知なくとも聞いたことぐらいはあるのではないだろうか。
弥次さん、喜多さんというお調子ものの二人が東海道中をなんやかやとひと騒ぎしながら旅をして行く、という言わば江戸時代のコメディ本。
当時の言葉で言えば「滑稽本」。

その作者である十返舎一九という人の娘の視点から描かれたのがこの「きりきり舞い」。
十返舎一九という人、相当な奇人だったらしい。

酒びたりと大暴れが日常茶飯事の奇行に走る父。
そんな父にいつも縁談をぶっ壊される娘の舞。

この物語にはもう一人有名な人が登場する。
登場と言ったって台詞があるわけではないのだが、奇人変人ぶりが一九を凌ぐものであるのは、そのそっくりと言われる娘のありようからも充分に察せられる。

その人こそ、あの天才画家ゴッホにも影響を与えたと言われる、葛飾北斎。

一箇所に留まっていては作品が書けぬと、転居を繰り返し、生涯で93回の転居を繰り返したとも言われる。

おかげで娘も妻も北斎の居所、居所といったって住まいですよ。その今の住まいすらがわからないことがしょっちゅうだったのだとか。

その奇人の娘のお栄がこの一九の家に居候する。
そのお栄がまた北斎に似たのか、とんでもない奇人。
奇人ではあるが絵に関してはこれも父親譲りの天下一品。

北斎作と言われる中に実はこのお栄の作品がまざっているのではないか、などという奇談が残るほどに。

この物語には、もう一人奇人が登場する。
一九が連れて来た浪人風の男、これも酒好きで奇人の一人。

という三人の奇人に囲まれ、父の何人目かの後妻である”えつ”は諦めたのか開き直ったのか、という状態なので、まともなのは自分だけか、と娘の舞の周辺の騒動の物語。

まぁ、単にそれだけでも結構面白い本と言えるだろう。

NHKの大河ドラマみたいに人気俳優は集めるが、時代考証が無茶苦茶で、現代もののドラマをその時代に当て嵌めただけみたいなものとは違って、何やら江戸の町人を取り巻く風景というものが見えて来る。

単にそれだけでもと書きながら、単にそれだけでは無かった。
十返舎一九が元々は駿河の国の武士として育ったことは一般的に知られていることだが、実はその出生は・・・。
東海道中膝栗毛を書いた真の理由は・・・。
などと未読の方のためにも書けないような、最終顛末がある。

なかなかにしゃれた本である。

きりきり舞い 諸田玲子著 十返舎一九



サイゴンの火焔樹―もうひとつのベトナム戦争 


この連休中に国土交通相、国家戦略相が相次いでベトナム訪問。
ハノイーホーチミン間での新幹線や原発受注に向けて国を上げて動き出そうという取り組みだ。
韓国はじめ競争国が国をあげてのトップセールスのご時世だからだろうが、日本の政権に海外メディアから下された評価がloopy からcontemptに変ろうとしている最中、その政権の大臣が訪問しても相手にしてもらえるのか、とも思えたが円借款などの支援策も持ち出したとのことだったので全く手ぶらでの訪問というわけではなかったようだ。
また、そうまでしてでも食いこむ値打ちがあるほどに近年のベトナムの経済成長は目を見張るものがある。

現在のベトナムを訪問するとこれがあの20世紀最大の空爆の被弾国とはとても思えない。
また、社会主義共和国という国名からも単純連想出来ないような経済国家である。
もはや、社会主義国家、資本主義国家というかつてのイデオロギーの名残りのようなネーミングはこの21世紀においては意味を成さないものなのかもしれない。
とは言いつつもモンゴル人民共和国やカンボジア人民共和国、コンゴ人民共和国・・・などのように人民や人民共和を国名から取っ払ってしまった国も多くある。
ドイモイ(刷新)政策にて中国のように改革開放路線を取りながらも社会主義国家時代からずっと政体が継続しているということなのだろう。

ベトナムと聞いて連想するのはもちろんベトナム戦争にての悲惨な被爆国としての姿。そしてアメリカが去った後に大量に発生するボートピープルだろうか。
実際に現在のベトナムの人とその頃のことを聞いてみると、ベトナムはかつて中国ともフランスともアメリカともカンボジアとも戦って来た。
日本に進駐された時もある。
アメリカとの戦争の時には、韓国もオーストラリアも参戦して来た。
それでもそれらの国を恨む気持ちなどこれっぽっちも無い、などと言う。

実際にホーチミンにあるベトナムの戦争記念館へ足を運んでみて驚いた。
当然ながら、枯葉剤による被害者や、被爆で逃げ惑う姿などの写真の展示の数々なのだろうと想定していたが、いやその類も若干はあったのだろうが、実際に案内されたのは、かつての南ベトナム政府の大統領室を再現したものが大半。
いかに南ベトナム政府の大統領が贅沢三昧をしてきたかを強調する展示の数々。
戦争展示館というもの敵国の残虐さを強調する展示をされる例が多い中、ベトナム人は敢えてそれを避けているのだろうか。
それともしれだけ鷹揚な国民性なのだろうか、それとも現在の最大の輸出相手国が米国だからだろうか、と不思議な気持ちになったものである。

この本を読んでその一旦が見えて来たような気がする。
そもそも、ベトナムについて何を知っていたのか。
ベトナム戦争の頃は戦争の悲惨さを訴えるためにベトナムのニュースは連日メディアの中心だっただろう。
それがサイゴン陥落以降から今日まで、メディアは取り上げてはいたとしても矮小な記事でしかなかったではないだろうか。
ほとんどというぐらいに何が起きて来たのかを知らずに今日に至ってしまっている。

そもそもベトナム解放戦線と北ベトナムとは同じものだと思っていたが、そうでは無かった。
サイゴン陥落に至るまでの道筋をつけて来たのはベトナム解放戦線の力が大だろう。
最も影響のあったのはテト攻勢でのアメリカ大使館への襲撃。それを実行したのも解放戦線。
ところが陥落後のサイゴンに来たのは当時のソ連をバックに持つ北の労働党の正規軍。
民族独立の戦のはずが、共産軍の勝利にすり替わってしまい、あわてるサイゴン市民。
ベトナムにおける北と南の対立は相当に根深いものがあり、対立などという生やさしい言葉より憎しみに近いものがあるのだという。
その北と南の確執を知ると何ゆえベトナム戦争記念館が旧南の政府の贅沢三昧ばかりを強調していたのかの一旦が見えた気がする。

陥落したサイゴンは、サイゴンの人から見ればそれはハノイからの進駐であり、ハノイから見ればアメリカ文化に毒された愚民達への再教育の場ということになるのだろう。

ベトナムからボートピープルの人たちが大量に難民として出て来た頃、ベ平連と反対の立場の人たちが「それみたことか」の類の主張を繰り広げていた。
しかしながら彼らとてどこまで真実を知っていたのだろうか。
解放戦線がハノイの思惑と異なっていたことまで知っていただろうか。
旧南の政府を破った後の南の政府であるはずの臨時革命政府が申請した国連加盟申請を圧倒的に賛成国の多い中、米国の反対一票で申請が見送りになったことなど日本でどれだけの人が知っていただろう。
臨時革命政府が国連加盟となれば、北と南の二つの政府が国際的に認められたことになり、北の労働党側もやすやすと南北統一を成し遂げえなかったかもしれない。

また何よりも驚くのは実はボートピープルそのものが、北が政治的に仕向けたのではないか、という著者の指摘。北はサイゴンの愚民たちを再教育するよりもむしろ資産は全て剥奪した上での棄民政策をとったのではないかという見方。

いやはや、歴史とはこうまでも複雑怪奇なものなのか。

この本の後段にさしかかると更に複雑怪奇な話にぶち当たる。
解放戦線側の中には旧日本兵がいたのではないか、という話。
日本の敗戦時に仏領インドシナに駐留していた日本兵は9万人。
その内、ベトミン軍の中核となった日本兵は四千人にのぼるという。

ベトミン軍の要請を受けて士官学校を創設し、人民解放軍百名を養成した旧日本兵の手記もある。

その背景は何だったのか。
旧大本営の唱える大アジア主義を地で行くものそのもので、アジアの解放のための捨て石になることだったという。

いや、日本という国、とうとう国レベルでは軽蔑すべき国とまで言われるようになってしまったが、個人のレベルでは尊厳を失わず、尊敬される存在も居たということか。

この本を読んで一番に切ないのは、この著者の存在そのものか。
ジャーナリストとしてあれほどの危険な場所に危険な時期に残留することを自ら選択し、北の姿を発信し続けた行為は、捕縛されることすら覚悟の行為だったのだろうが、最終的には国外退去で済んだ。
しかしながら現地での通訳をこなしてくれたスタッフはその後、さんざんな目に会い、最後はボートピープルとなって国を捨てる。
彼の目に著者は日本の大新聞をバックにベトナムの国旗が血に染まり、引き裂かれている姿を見下ろしている、そんな存在に思われていたことを知った著者はさそかしショックだったことだろう。

いずれにしろ、本書は「もうひとつのベトナム戦争」というサブタイトル通り、これまでスポットの当てられることのなかったもうひとつのベトナムのを当時のジャーナリストの視点から描いた歴史書であり、これを書き残してくれたことに一読者としては感謝の気持ちで一杯である。