カテゴリー: マ行



告白 


「私の娘は事故で死んだのではありませんでした。このクラスの生徒である誰かに殺されたのです」
中学1年生の最後の終業式の教室で担任が語る言葉としてこれほどインパクトのあるものがあるだろうか。

まだ四歳の幼い一人娘を亡くした担任の女性教師。
学校のプールに事故で転落という扱いとなり、警察でもそのように処理されたが、真相は転落事故などでは無かった。

殺した生徒は八つ裂きにしたいほど憎いが、逆に教師は生徒を守る義務があるから警察には言わないから安心せよ、と彼女は言う。

だが、そうでは無かった。
少年法に委ねるなんて生やさしいことでは無くってもっともっと厳しい罰を与えたとも言える。

終業式の場では犯人を名指しせず、A、Bと匿名でしか言っていないが、クラスメートにしてみれば誰のことなのかは一目瞭然。

司法という大人に委ねるのではなく、中学生という大人のルール無き社会の中のしかもクラスメートの中に放置しておいて自分は教師を辞するということで後々どんなことが起こってしまうのか、それまで担任として接して来た人間なら容易に想像がついたのだろう。
この本は事前に読んだ人から、なんとも後味の悪い作品ですよ、と紹介された。
だが、そうだろうか。

なんとも斬新な裁きではないか。

少年事件というもの、加害者の審判の途中経過はおろか、審判の結果すら被害者には一切伝えられない。
それどころか、せいぜい家庭裁判所を経て保護観察処分、そして事実上の無罪放免。

そんな裁きに委ねるぐらいなら、というこのがこの女性教師の思いなのだろう。

章毎に語り部が変り、各々の立場からこの一連の事件のストーリーが語られる。

惜しむらくは、単行本にするにあたって書き下ろした部分の中の最後。
再度、辞職した先生が語り部として登場するあたりあだろうか。

確かに最後の結びは必要なのだろうが、そこまでは敢えて書かずに読者の想像に委ねておいた方が良かったのかもしれない。

少年A、Bの飲む牛乳にHIV感染者の血液を混入した、という冒頭の終業式の発言だけで、実際はどうだったかまで書いてしまうのは寧ろ蛇足かもしれない。

ただ、この本、もの凄い人気だったのだろう。

小説推理新人賞を受賞し、2009年の本屋大賞を受賞したのだとか。
単行本から文庫化されるのも早かった。

そしてこの5月か6月には映画化までされるのだという。

なるほど。映画化ともなれば、やはり最後のエンディングがなければシマラナイ気がする。



神去なあなあ日常 


実に生々しい林業の体験記ではないか。
と、思いたいところなのだが、主人公が山村に住み込む20前の男の子であるのに対して作者は女性であり、はたまた結構売れっ子の作家。
実際に体験したわけではないのだろう。
まさしく、実体験を書いているような、そこでしか味わえないような描写の数々。

多くの人に取材をしたのだろうが、取材だけでここまで実感あふれるものが画けてしまうものなのだろうか。

この本は山での仕事の過酷さを描くこともさることながらそれを上回る山仕事の充実感。林業の魅力にあふれている。

林業従事者は昭和30年代の1/6。
ここ10年をとってみたって10年前の約6割と言われる。

老齢化が進んでいる産業なのだ。
現在従事している人がもっと老いて行けば、もはや産業として成り立たなくなってしまうのかもしれない。

先日、1月末に2009年の全国都道府県の転入、転出のそれぞれの差異が新聞に載っていたが、
「大都市圏への人口流入鈍る」との謳いながらもなんだかんだと、東京圏への転入超過はやっぱりプラス。愛知万博以降、転入超過が激しかった名古屋圏内の転入超過がようやく収まってはいるが、鈍化したとはいえ、東京、神奈川、埼玉、千葉という首都圏へは全部合わせれば10万人超の転入超過。

年越し派遣村・・ってネーミングもどうかと思うが、ホームレス村ではあれだけ仕事がない、住むところがない、と方や騒ぎながらもそれでもやはり東京へと集中しているのが現状の姿なのだ。

神去村というこの本の舞台となる山村も若者離れの例外ではない。

横浜から職業訓練生として嫌々ながら来てしまった主人公の若者。
当初は携帯すら通じないこの山村を逃げ出そうとするが、だんだんとこの山や木やこの仕事、この村が好きになって行く。

若者が離れてしまうのは単に仕事がきついからだけではないのかもしれない。
同年代の若者が他に居ない、というのもなかなかきついものなのかもしれない。

この村のオヤカタさん、1200ヘクタールというとんでもない山持ち。昔なら大長者様のような存在だろうに皆の衆から清一、清一、と呼び捨てにされる。しかしながら一旦指示を出すと誰も逆らわない。

この人などのように東京へ大学へ行った時に結婚相手を見つけて連れて帰って来てしまう。こういうのがSTOP・ザ・過疎化に一番いいのかもしれない。

山暮らしの良さはお金のたかでは量れない。
そこで暮らすだけならお金を使うことがないのだから。

この若者の場合は、野菜だってなんだって食い放題の状態で豊かな自然を満喫し、尚且つ給金がもらえるだけでも充分と充足している。

この本、2009年の出版。
都市圏でも仕事が無い無いと言っている最中の出版。
まさに時宜を得ている。
雇用の今後の行く末は介護業界しかないように言われるが、林業などどうなんだろうか。ホームレス村でおかゆをすするよりははるかにマシのように思えるのだが・・・。

まぁ、まず自分が行かないことには始まらないか。

神去(かむさり)なあなあ日常 三浦しをん著(徳間書店)



ハイブリッドカーは本当にエコなのか?  


頭から冷や水をかけられたようなタイトルにまず驚く。
エコ減税、補助金もね!と散々コマーシャルされているハイブリッドカー、それがエコなのか?という問いかけのタイトル。

著者は車にはかなり詳しい。
書かれたこの本もかなり専門分野に踏み込んで書かれているので、熟読の覚悟で読まなければなかなか頭に入って来ないだろう。

ハイブリッドカーは本当にエコなのか?と問われれば、そりゃエコでしょう、と誰しもが答えたいところである。
だが、筆者が言うには、ハイブリッドカーでのCO2削減効果は既存の車でアイドリングストップをするのと変らない、もしくはそれよりも落ちるかもしれないのだという。

高速道路の土日千円効果で、土日や連休には各地の観光地は他府県からの車で渋滞状態。その超渋滞の横を歩いていると、その排気ガスむんむん状態に思わずハンカチで鼻と口を覆いたくなってくるほどである。

10分待って10mほどしか進まないようなところだったら、止まっている間だけでもエンジンを切ってくれたらどれだけ、その排気ガスむんむん状態は緩和されたことだろう。アイドリングストップ、大いに賛成である。

ハイブリッド車とは何かと問われれば、自動車の内燃機関をガソリンで動くエンジンと電気で動くモーターを併用させるものなのだろう、と単純に思っていたが、その併用の仕方にもいくつもの方式の違いがメーカーや車種やその車種の世代で存在するのだった。

あまりに専門的なので端折るが、内燃機関で発電機を動かし、そこで作り出した電力をモーターに送り込んで走行する、というのが一番わかりやすい。
これについて著者はハイブリッドが活きる状況は限定される、とばっさり。

ハイブリッドが燃費を稼ぐ最大のポイントは減速時のエネルギー回収。
加減速の多いほど回収率は良く、安定走行であればあるほど回収率は低いのだという。
つまり日本の市街地などのようにしょっちゅう信号で止まったり、という道にはまだ良いが、欧米の様な混雑しないハイウェイで一定速度で走る場合にはその効果を発揮しない、というのだという。
効果を発揮しないどころか通常ならエンジン一つで済むところへモーターなどを搭載しているために車体は嵩張り、重量も200kgも重くなった分、余分なエネルギーが必要になってしまうのだとも。

著者がもう一つ言及しているのは、日本のメーカーの燃費発表の際のお受験システム。
その車の最適な状況で出した燃費を公式数値として発表していることと、それに対して何も言わないマスコミへの批判だ。

著者の言及は燃費にのみとどまらない。
その消費行動が生み出す負の遺産である廃棄物処理の問題。
メーカーたるものモノ作りの際には製品の「解体」「分別」「回収」「再資源化」を設計時から頭に入れて作るべきものなのにその視点が全く抜け落ちているのだという。
それでエコなのか?と。

究極のエコカーと言われる水素自動車に関しても、水素を取り出す際にCO2を排出する、水素を運ぶにはマイナス253度以下にして液体にする必要がある。それら製造・供給のインフラ整備にかかるコストが多大。

従って、究極は水力、風力、太陽光、地熱などの自然エネルギーを利用した発電なのだろうが、最低でも20年という時間軸で考えていくことになるだろう、ということである。
どこぞのノーテンキなお方が2020年までに90年比25%減と根拠もないまま演説してしまったがために、その党の方々は問い詰められる都度、苦しげに、産業構造が変りますから実現可能です、などと言わざるを得なくなっている姿を良く見かける。

産業構造を変えるったって、2020年ってたったの10年しか無いんですよ。
産業界の人が言うならまだしも、政治屋というのは言葉遊びで生きているんだなぁ、とつくづく思う。
昨年末より新聞では首相のそして次にはその党幹事長の政治と金の問題の記事がの一面をかざる頻度が高くなっているが、政治資金云々よりもあの演説の方が後世に与える影響としてははるかに罪深いだろう。
後年、諸外国からあの25%はどうなった、と詰め寄られたら、お得意のあの演説草稿は秘書が作りました、とでも言うのだろうか。

そんなことはさておき、
著者の言いたいことはよくわかる。

ただ、ハイブリッドが活きる状況は限定されるのだとしても、いいじゃないですか。
実際にこれまでの車よりも燃費が悪くなっているわけではないのでしょうし。
実際に著者がL当たり38kmの三代目プリウスで実験した結果、カタログ燃費より10数パーセント低かったからと言っても既存車よりははるかに燃費がいいじゃないですか。
その御指摘のお受験システムにしたって、消費者は承知の上なんじゃないでしょうか。
かつてスーパーカブがカタログ燃費はL当たり150kmだったかな?確かそのくらいだったと思うが、そんなものは最低速度でしかも一定速度で走った場合なんだろ、って誰しも思って購入していたことでしょう。
実際にはその半分の燃費しかでなくても満足していたんじゃないでしょうか。
それにおもしろいのは、スムーズな運転をする人よりも緩急の激しい、どちらかと言うと運転の荒い人の方が燃費効率が良くなるという点でしょう。
これまで排気ガスを、巻き散らかしていた人ほどハイブリッドを利用するメリットがある。

何より自らアイドリングストップをしなくったって観光地の排気ガスむんむん状態が無くなるなら大歓迎じゃないですか。

今や日本経済は疲弊しきっている。
折りしも、本日1/18の日本経済新聞朝刊の一面記事の中に「ハイブリッド トヨタ、倍増100万台」の見出し。

当面は自動車、家電に再度、産業の牽引車になってもらわなければ、もっと疲弊してしまうでしょう。

この本を読んだからと言ってハイブリッドを買うのはやーめたって!っていう単純発想をする人ばかりじゃないでしょうが、あまりネガティブな側面を強調しすぎると日本経済は終焉してしまいかねませんよ。

著者がネガティブな指摘を行うために書いたとは思っておりません。
キチンとご自身で分析した結果を書いておられる。
その分析結果を踏まえて自動車業界は新たな技術革新を図れ、という業界への叱咤激励
なのでしょう。

技術者たちがこういう著者のような指摘者に対して、じゃぁこれではどうだ、とばかりにまた次の技術革新へと一歩を踏み出してくれることを期待して、結ばせてもらいます。

ハイブリッドカーは本当にエコなのか?  宝島社新書  両角岳彦著