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チャイナ・レイク 


アメリカの一地方での新興のカルト教団をめぐる話である。
日本と欧米では宗教に対する寛容さはかなり違いがあるだろう。
日本人はその人が信じている宗教の内容、教義というのか?に対してまでそうそう口出しをしたりはしない。
ただ、自分が入信を薦められたら、お断りをするだけで、滅多に馬鹿にしてみたり、などはしない。
それは寛容というよりも怖いからなのかもしれないが・・。
いずれにしても春・夏の甲子園にでも過去結構な数の宗教の関係の学校が出場して来ているはずだが、それに違和感を感じる人は少ない。

欧米ではキリスト教以外は異教であるから、どうしても新興の教団と言ったってキリスト教から大きく離れるわけには行かないのかもしれない。

大きく離れるどころかもっと原理主義的なまでに熱烈なのが新興カルトとして度々登場する。

結構平気でその人達の目の前で、教義をからかってみたり、ジョークにしてみたり出来てしまうのは国民性の違いなのだろうか。

日本でも例外はもちろんある。
ハルマゲドンだったか、終末論を煽り、実際に予言が当たらないとなると、自らサティアンなるところに信者が籠もって化学兵器を製造し、東京の地下鉄にサリンという猛毒をばら撒いたあの教団である。

この小説に登場する教団も終末思想を唱え、聖書を引用しながら、自らその終末を起そうとする。
日本のあの事件をかなり参考にされたのではないだろうか。

ここではサリンでは無く、狂犬病ウィルスを用いようとする。
そのメリットは潜伏期間が永いため、犯人が特定されづらいこと。非常に致死率が高いこと・・などだが、読みすすめると結局なんでも良かったんじゃないのか、とも思える。

この教団、死者を冒涜し死者に鞭打つ。
エイズで亡くなった人の葬式に大勢でプラカードを持って現われ、その死を冒涜する。

どこまでされたら、いくら信じるのは勝手と言いながらも、その教義に反論したくもなるだろう。

「チャイナ・レイク」という地名は実在する。
そしてそこが航空開発基地であることもどうやら実際の話らしい。
そのチャイナ・レイクともう一つの舞台となるサンタ・バーバラももちろん実在する地名である。

だから信憑性があるか、と言えばそれはどうだろうか。
誰だってまともな人間ならちょっと取り合えないほどにその教義はボロボロでどうしようもなく薄っぺらい。

その教団という恐ろしい組織に対して立ち向かうのが弁護士でもありSF作家でもある主人公の女性。
この女性の勇気は凄まじい。

ただ少しだけ残念なのは、その恐怖の教団そのものへ妄信する信者達の圧迫感というか、集団の怖さというものがあまり伝わって来ないところだろうか。

小説の読みやすさから言えば登場人物をあまり多くしてしまうと読みづらいということを意識してなにか、何か事がある毎に登場する教団側の人間はほんの数人、毎度おなじみの顔なのである。
しまいには最初から数人しかしなかったのではないか、とすら思えてしまうほどに。

この作者、アメリカ人でありながらなかなかアメリカでは出版の機会に恵まれず、ずっとイギリスで出版してきたのだいう。
運よくアメリカで認められて出版したのがこの2009年の今年。
で、いきなりアメリカ探偵作家クラブのエドガー賞の最優秀ペイパーバック賞を受賞したのだという。
探偵作家クラブの賞というと探偵物のイメージを想像されるだろうが、決して探偵者ではない。
なかなか読み答えがあって読み出したらやめられない本であることは確かだろう。

チャイナ・レイク (ハヤカワ・ミステリ文庫) メグ・ガーディナー (著), 山西美都紀 (翻訳)



まほろ駅前多田便利軒


元、車のセールスマンの男が開業した便利屋。
ある日の仕事の帰りに、バッタリと高校時代の同級生に出会う。

その同級生というのが変わり者で高校3年間、ある一瞬の一声(痛い)と発したのが唯一で、その他には一切しゃべらなかった、というつわものである。

その同級生である行天が便利屋の多田のところに何故か居候することになる。
行天は高校時代3年間沈黙を通した男と思えないぐらいに饒舌になっている。
変人であることに変りはないが・・。

物語はそこから始まり、便利屋稼業の種々雑多な仕事を多田とその手伝いの行天がこなしていくというお話。

便利屋の手伝いとしては何の役にも立たないように思えるこの行天。
便利屋の親方である多田はこの行天をお荷物としか考えないし、そう扱うが、その行天が肝心なところで誰も思いもしないような力量を発揮する。

意表をつく行動。
喧嘩が滅法強い。
ヤクザもチンピラも恐れない。
初対面では危ない男に見られがちだが、しばらくすると誰にでも好かれてしまう。
「フランダースの犬」の物語のラストシーンを「あれはハッピーエンドでしょ」と言い切る男はそうざらにはいない。

方やの多田だって、チンピラ相手に言うべきことはしっかり言うし、決して、生真面目優男と無鉄砲無頼漢という取り合わせでもない。
たぶん、便利屋は多田一人でもその依頼に無難にこなしていくんだろう。

だからこそ、相変わらず「お荷物の行天」としてしか考えないを多田なのだが、だんだんと行天のその存在の大きさ、というより自分の相棒としての必要性が分かっていく。

この本、3年ほど前の直木賞受賞作である。

従って、書評などは山ほど書かれているだろうから、あまり無用な解説をする必要も無いだろう。

それにしても、なんだか選者に読み手の力量を試されているのか、と疑いたくなるような芥川賞受賞作に比べて、直木賞受賞作というのはなんと安心して読めるのだろう。

なんとも言えないほろ苦さを漂わせながらも軽快で乗りのいい会話。
物語がテンポの良く進んでいく。

やはり素直に「面白い」と言う言葉を発せられるのも直木賞受賞作の方である。

これは余談だったか。

まほろ駅前多田便利軒 三浦しをん 著(文藝春秋)



三国志(一)


かつて「三国志」というものこれまであまたの人が書いている。
漫画にもなっている。
ゲームにさえなっている。
宮城谷氏が「三国志」を書いたことは承知していたが、正直購入して読み始めるまでに少々時間がかかってしまった。
何故か。
宮城谷氏の書く世界はあまり人の手を染まっていない分野、というよりも誰もスポットを当てることもなく、歴史の中に埋まっている人物を描いて表舞台に登場させるところに氏の持ち味があるのではないか、という思い込みがまずあり、あまた書かれた「三国志」に手を染めることで氏の作品に対するこれまでのイメージがくずれてしまうのではないか、などと思ってしまったからである。

まさに杞憂であった。
一読者がそんな心配をしているなどとは作者は露ほども思わぬのに違いない。
そんなことを考えていたら作家なる職業成り立つはずがない。

杞憂というのは、宮城谷のイメージを壊すどころか、まさに三国志のイメージを壊してくれたからである。

いわゆる三国志という物語の序章にこれだけの精力を費やす作家は宮城谷以外には居るまい。
第一巻も第二巻もまだ世に言う三国志のはじまりですらない。

宮城谷氏らしい。

物事にはその前提というものがある。
その前提がどのようにしてうまれたのか、徹底的に追求せずには本編には入らない。
三国志のはしりである曹操が登場する前にその祖父である曹騰(そうとう)を描き、その曹騰を描くにあたって、さらにその祖先である曹参(前漢の高祖の挙兵時代の立役者)まで遡る。

そんな宮城谷氏にしてみれば、三国志とはそもそも後漢時代を書かずして何を書くのか、と逆に呆れられるかもしれない。

後漢時代は官僚よりも宦官や皇后の外戚の影響力が最も色濃い時代である。

皇后とその外戚としては、後漢4代目の和帝の皇后、和帝崩御の後の鄧太后と鄧氏、鄧太后崩御の後の閻皇后と閻氏、8代目順帝崩御の後の梁太后と梁氏が描かれるが、宮城谷氏の好悪感情は明らかである。

歴史上の人物で極端にこの人物は悪でこの人物は善である、などということはそうそうないのであろうと思うのはシロウト考えであろうか。
なぜか歴史ものには善玉と悪玉はついてまわる。

織田信長を討った明智光秀が善か悪か。
豊臣を滅ぼした徳川が善か悪か。
どちらが善でも悪でもないだろう。
どちらを主に据えるかによって見方は変わる。

この本の中では鄧太后と鄧氏は善政を布き、鄧太后亡き後は愚者の安帝と鄧太后という重しが無くなって栄耀栄華を極める閻(えん)皇后とその兄の閻顕(えんけん)が悪政を布く。
閻顕を倒した順帝は善政で、順帝亡き後の梁太后の兄の梁冀(りょうき)の存在はもはや善政悪政などという生やさしいものではなく大悪党という扱いで描かれている。
梁冀は寧ろ第二巻でその悪役ぶりを発揮する。

しかしてどんなものなのだろう。
鄧太后の摂政時代にも鄧太后を批判した官僚には撲殺の命が下されている。
鄧太后も閻顕も同じ様な事をしているではないか、などと思ってしまいかねないが、ここは書き手とほぼ同じ主観となるのが読み手というものだろう。

秀吉か家康かであれば各々を礼賛もしくは貶した書き物は山ほどあれど、いやもっとこの時代に近い存在の項羽か劉邦かでもその好悪はかなり分かれるだろう。

鄧太后はどうか閻顕はどうかと問うてみようとも比肩する読み物が存在しない以上、鄧太后の考えは、あくまでも浅慮な批判を甘んじているようでは示しがつかない、果ては混乱を招くだけである、と天下国家を憂えての撲殺であって、閻顕が行ったのは私利私欲のため、自分個人しか見えていない、という宮城谷氏の主観に乗るしかないのである。

それに宮城谷氏にはこの時代の空気というものを読んでいる。
文献、文献の行間を読み、その時代の空気を感じ、その時代の人の気持ちを読んだ上で書いているのである。

好悪はともかくとしても悪政はやはり悪政なのだろう。
閻顕がどれだけ贅を極めようが現代の人には絶対にその当時の人々の感覚ではわからないであろうし、わかるための物差しすら持ち得ないだろう。
テレビで芸能人がご馳走をいくら頬張ったところでメタボを心配する現代人は羨ましいどころか、「可愛そうにあんな仕事させれて」なのだからその当時の贅を極める事そのものがどれだけのものなのか実感としてはわかり得ない。
わかるのは悪政を行うものは往々にして愚者である、ということぐらいかもしれない。

まさしく現在においては悪政かどうかはさておいても愚者を宰相に戴いていることはもはや明白になってしまった。
漢字が読めない。発言が少々ぶれ気味なことはもうわかった。しかし完璧な愚者だったとは。
「小人窮すればここに濫る(みだる)」
この第一巻にも孔子の言葉が牽かれているが、まさに窮してしまったのか。自らも関与し推進した件についてあれは反対だっただの、濡れ衣を被せるなだの、元宰相の言ではないが、恥知らずを通り越して笑えてしまうほどの愚者であった。
愚者を戴いて真っ先に迷惑しているのは宰相を担いでいる人達であろう。
担いでいる人達の被る迷惑は民への迷惑へと拡大する。
やはり愚者は担いではいけない。

宮城谷本には賢者の宰相がよく登場する。登場するというより発掘してスポットを当てたという方が正しいか。
宮城谷が発掘する宰相は最後までぶれない。

この宦官と皇后外戚が縦横無尽に暴れまくる時代においても賢者の宰相というものにスポットを当てる事を忘れない。

その中でも第一巻では楊震という人が光っている。
四知(しち)という訓言を残した人である。
密室での二人の会話で誰も知りませんよ、と悪事をそそのかす相手に
「天知る。地知る。我知る。汝知る。誰も知らないとどうして言えるか」と説く。
これが四知である。

とここまで書いたがやはり宮城谷本は書ききれない。
三国志第一巻だけでどれだけ登場人物が多いことか。
この第一巻だけでいったいどれだけの物語がつまっていることか。
覚えきれないので何度も頁も戻すことになる。

盛りだくさん。充実感満点なのだ。

三国志 第一巻 宮城谷 昌光 (著)