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海辺のカフカ


村上春樹の本を読んだのは何年ぶりだろうか。
かつては既出版物、全読破対象の一人だった。

小説の本の帯にはサンフランシスコ・クロニクル紙で3週連続1位、
ボストン・グローブ紙で4位、英ブックセラー誌で9位などという言葉が並ぶ。

翻訳されてアメリカでイギリスでベストセラーになっていたのにこれまで未読だったわけだ。
しかもかつて、あれだけ読んだ村上春樹の小説なのに。

誰よりもタフな15歳の少年。
父からの予言(呪いか?)を回避するために一人家を出る少年。

少年時代にとある事故で、頭の中がすっからかんになって漢字の読み書きも出来ないが、猫と話をすることが出来る老人のナカタさん。

この二人が主人公。

この二人の周辺にはいつも手助けをしてくれる人達がいる。

星野という自衛隊上がりのトラック運転手はナカタ老のヒッチハイクを手伝ってからというもの、ナカタ老のファンになってしまう。
そんな愛すべき青年を引き付けるナカタ老は、と言えば漢字が読めないので、電車にも乗ったことがなく、東京中野区を一歩も離れられないような人。
誠実で、その愛すべき話し方のせいなのだろう。
ナカタ老は誰からも親しみを持たれる。

そのナカタ老が中野区を出る。そして誰よりもタフな15歳も出奔する。二人とも、何故かに手繰り寄せられるように四国を目指す。

四国で辿り着くのが高松の甲村記念図書館という私立の図書館。

そこで司書をしている大島さんの博学な事。

話は夏目漱石などなどの小説、平安時代の悪霊、ギリシャ神話から、シューベルト、ベートーヴェン、ハイドンという音楽に至るまで非常に幅が広い。

この小説の筋立てには直接影響しないかもしれないが、大島司書の語る博識がこの小説に魅力的な彩りを添えている事は間違いないだろう。

ちなみに「雨月物語」なんて英文翻訳ではどんな翻訳がなされたのだろう。
アメリカの読者は意味がわかったのかな。

海辺のカフカ  村上春樹 著



蒲生邸事件


歴史を遡るだとか、時空を超える話、いわゆるタイムトラベルをしてしまう話はいくらでもある。
望んで行く話、偶然に行ってしまう話。
行った先の歴史を変えてしまう話。
絶対に歴史を変えてはならない、と眺めている様な話。

この「蒲生邸事件」という話もまさにタイムトラルの話。
ただ、他のタイムトラルの話と決定的に違う点がいくつかある。

一つはそのタイムトラベラーの能力を持った人間は一様に皆、暗く、陰気で顔を見たら、ガラスをギーっと擦る音を聞いた時に似た嫌な気分になってしまう。
彼らは友達はもとより、親兄弟の誰からも無視され続ける存在。
また、それだけ存在感が無いのだ。

こんなタイムトラベラーは他の話ではあまりお目にかかれない。
その暗さ、存在感の無さの理由は、他の時代へ行ってもその存在感の無さ故に誰からも気に留められることがないからだという。

それでも彼らはその能力を発揮しようと、歴史を変えようとするのだが、歴史というものの流れは決して変わる事がないのだという。

あの忌まわしい事故、日航ジャンボ旅客機の墜落をなんとか未然に防ごうと、飛行機に爆弾を仕掛けたと電話して無理矢理欠航させ、その飛行機は墜落を免れたとしても、その翌日か翌々日に別のジャンボ機が墜落する。
そうして、歴史はちゃんと帳尻を合わせるのだという。

日航ジャンボ機はあの時期に一機、墜落をしなければならない宿命があったのだという。あの山崎豊子の「沈まぬ太陽」がその後に明らかにした様な、日航そのものの安全管理をないがしろにした会社の姿勢はそういう形で何か事件にならなければ、改まらなかった、ということなのだろう。

だから、どのジャンボ機を救おうと、別のジャンボ機が必ず墜落する。

ということは、歴史は必然、という事なのだろうか。

ということは大化の改新の時、蘇我入鹿に事前に事件の事を告げていてもやはりどこかで蘇我蝦夷・入鹿親子は殺害されたということなのだろう。
現天皇を廃して蘇我天皇が誕生しつつある事態を撲滅させるのが歴史の望んだ結果だということか。

本能寺の変直前にタイムトラベルをして明智光秀を拉致監禁してしまったとしても、他の誰かが織田信長を倒すのだろうか。
自らを王と称し、寺院を焼き討ちにする様な存在は誰かが討つのが歴史の必然だということか。
ただ、本能寺の変の際には織田信長を討てるのは明智光秀しかいなかった。他の武将は皆遠征ではるか遠くまで行っていたはずである。
それでもその明智を拉致しても織田は誰に討たれるのだろう。明智の部下だろうか。

某日本放送協会でやっている「その時歴史が動いた」という番組がある。
まさしくその瞬間の行動が、その瞬間の判断の左右によって歴史はこんなに動いたのだ、という紹介話である。
でも、歴史が必然なら、その瞬間の判断を右から左へ変えてあげたとしても結果は同じだったということになるのだろう。

バック・トゥ・ザ・フューチャーとは対極にあるタイムトラベル話である。

さて、時代は二・二六事変である。
ここに登場するタイムトラベラーは他のどの時代への選択肢もあっただろうにこともあろうか、二・二六事変の直前からを自分の永住の地と定めた。
だんだんと日本全土に暗い影がさして来た頃なのじゃないのか。
それは戦後の人間が勝手にそう思っているだけで存外に今よりも住みやすい時代だったのかもしれない。
それでもその数年後には戦争へと突入して、最後は散々空爆されて、戦後は食うものもない時代へと流れていくわけだから、最終的には住みやすい時代であるはずがない。

作者は蒲生大将(架空)が未来を覗き見てしまったがために変節をし、未来の人からあの時代にそれだけ先を見通していた人がいたのか、と後世に名を残し、子孫を助けようとする様な人には歴史に不誠実な人としてばっさり切り捨てる。

東条英機の様に最後まで悪者で通して、戦犯となったの方が歴史に誠実、正直であったと寧ろ評価が高い。

では、二・二六の時代へ移り住もうとしているこのタイムトラベラーはどうなのだろう。赤紙で戦地へ引っ張られてしまえばどうしようもないが、引っ張られなかったとしたら・・。
東京への大空襲のことも知っているだろうし、長崎、広島へ原爆が投下されることも知っていれば、8月15日に玉音放送がある事も知っている。

戦後に起きること、朝鮮動乱のこともその後にどんな産業が伸びるのかも、ケネディの暗殺もアメリカの有人宇宙船月着陸も、東京オリンピックも大阪万博も・・・この歴史に影響を与えることをやめた人がそれを知ったからといって、先見の明を発揮したり、株でボロ儲けすることもないだろうが、戦争を生き抜いとしたらその先の人生は果たして面白かっただろうか。

未来は自らの手で作るもの、と言うが、彼は決して未来は作れない。
何故なら歴史に縛られているから。

彼はだけではないのかもしれない。
歴史には流れというものがあり、その流れには決して逆らえないのであるというように過去から今日に至る歴史が必然なのだとしたら、未来だって同じではないのか・・・必然。
未来は自らの手で作るものなのではなく未来は定められた必然のルールどおりに進んで行く?

この本にはそのような意図はないのはわかっている。
昭和初期の日本でしか存在し得ないような優しい温もりのある女中のふき。
ふきと主人公とのロマンスなどがあれば、随分違う感想をもつのだろうが、二・二六事変に訳もわからず参加した兵士への「原隊へ戻れ」の号令。
「原隊へ戻れ」をふきから復唱され、戻るべきところへ戻る主人公。
それだけでもふきという女性の優しさは伝わってくる。
感想としてはそういう締めが望ましいのだろうが、蛇足は書かずにはいられない。

歴史の落ち着く先が決まっている、という宮部流歴史必然説に沿えば、未来は自らの手で作るものなのではなく未来は定められた必然のルールどおりに進んで行く。

では、未来を、この地球の未来を変えようとする人々の努力はいかに。
地球温暖化は続き、ツバルは沈み、北極から氷がなくなっていくのは歴史の必然?
洞爺湖サミットにても結局、2050年と彼らの次々世代に対しての約束事でさえ、中国、インドからの前向きな発言を日本国首相は得られなかった。

これは宮部流必然説でもなんでもなく、まさに我々の目の間の現実そのものなのだ。
歴史のこの未来の必然の行き先はこのまま推移すればもうほとんど見えていると言っても過言ではないだろう。

最後に、それでも我々には我々の子・孫の世代のためにもその必然の未来を変えるための努力をする義務があるはずだとこころから思う。

蒲生邸事件 宮部みゆき 著



理由


我々はメディアを通して現実を知る。
テレビでニュース番組やドキュメントを見ることによって、新聞や雑誌を読むことによって、今この日本で世界で何が起こっているのかという情報をつかむのである。
肉眼で見ること、自分の足で歩いて遭遇し、手で触れて体験する事などメディアがもたらしてくれる情報の量に比べたら、たかが知れている。
(中略)
普通の人が普通に暮らしてその一生の間に獲得することのできる何十倍もの量の情報をテレビやコンピュータの前で居ながらにして手に入れることができるようになると厄介な問題がひとつ生まれてくる。
「現実」や「事実」とは一体何なのだろうかという問題だ。
何が「リアリティ」で何が「バーチャルリアリティ」なのか。
(中略)「実体験」と「伝聞による知識」のふたつを「インプットされる情報」という枠でくくってしまうならば、現実と仮想現実のあいだに相違など無いと言ってしまうこともできるし・・。

上記は『理由』の中で宮部みゆきの語っている事である。多少誤植(パンチミス)もあるかもしれないので原文のままとは言えないが。

確かにごく一般の人間の行動範囲のなかには、薬害エイズ訴訟も官僚の不正行為も環境保護団体も中国のチベット問題もチェチェンも日銀総裁不在も存在しない。

私の友人にアフガニスタンのタリバンの幹部と友人になった男が居たとする。
彼はアメリカの9・11テロとタリバンは無関係であるとあの当時言ったとする。
アルカイダなどという組織そのものは実在するわけでは無く、それぞれの地域でや反米嫌米で中小のテロを起こす個別な集団や起こす可能性のある個別な連中。彼らが所謂アルカイダと言う名で総称されているだけでそんな組織は存在しないんだ、とありとあらゆるところでそれを説明してまわったとする。
述べていても既にメディアの力で出来上がったアルカイダという組織がある以上、それが事実となり、アルカイダが9・11テロを起こした事も事実となり、オサマ・ビン・ラディンがそのリーダーだという事も事実となり、オサマ・ビン・ラディンをはじめとするアルカイダをタリバンがアフガンにかくまったという事も事実となり、アメリカに攻撃されるのが当たり前なんだ、という事も事実となり、現実となる。
彼はアメリカはタリバンを制圧して勝った勝ったと騒いでいるが、タリバン、タリバンと言ったってカラシニコフを捨てて「私はタリバンではありませんでした」と言ってしまえば、彼がタリバンであった事実は無くなって、一市民に紛れてしまっているって何故わからないんだぁーと言ったとする。
でもそんな事実はメディアに載らない以上、事実では無いのである。
イラクにしても同様。今でこそアメリカも後悔しているのか、イラクからは大量破壊兵器が存在しなかっただの、アルカイダをかくまった事実は無かったという事実を米政府が正式に公表しようが、それまでの事実はそれまでは事実であり、現実だったのだ。
この問題、あまり深くふれるとどこかの政党のキャンペーンとでも勘違いされなねない。またそれは私の本意ではない。

では、私の友人は事実を語った事は果たして事実と認識されるのか。
「伝聞による」という意味ではそれも「伝聞によるもの」。
但し限りなく「現実」に近いところから発信された「伝聞による」ものである。
しかしその最も「現実」に近いところから彼が得た「伝聞」も私へ伝聞される事で、今度私が語れば「伝聞による伝聞」という非常に「現実」から遠い「事実」になってしまう。
ましてやWEBサイトにUPされた情報などはそれこそ現実よりかなり仮想現実に近いものとなってしまう。

「現実」とは?「事実」とは?

宮部氏はこの『理由』というルポルタージュを纏ったフィクションの中で結構辛辣にメディアを批判している。

ある場面では報道を通して一時は一家四人殺しの犯人として扱われた「石田」という男の言葉を借りて、
「マスコミ」という機能を通してしまうと「本当のこと」は何ひとつ伝わらない、と。
伝わるのは「本当らしく見えるること」ばかりだ、と。
そしてその「本当らしく見えるること」は、しばしばまったくの「空」のなかから取り出される、と。

宮部氏は「カード破産」という社会問題を取り上げたり、この『理由』の中でも「裁判所による不動産の競売とその裏をかく悪質業者の問題」や社会問題化されているものをいくつもその作品の中に織り交ぜている。

それらの多くの社会問題の根底にいつもあるのがメディアがもたらす社会問題。
いくつもも社会問題はそのとてつもなく大きな社会問題の一遍でしかなく、そのおおもとに鉈を振るっているかの如くである。

それにしてもボリュームのある読み物だ。
ルポルタージュはあまりにルポルタージュっぽく、これはノンフィクションなのだろうと予備知識なしに読み始めた読者はまず思ってしまうだろう。

ルポをしている記者の口調にはまったく女性臭さが無い。
たぶん男性という設定なのだろう。

いや、宮部氏そのものもかなり謎である。
写真にしたっていろんな本の著者の紹介に出て来るのはいつも同じ年代の同じアングルの写真。
そのワンショット以外にお目にかかったことはない。
実はその写真も現実ではないのかもしれない。
宮部みゆきが女性だなどというのはその名前から勝手に判断しているだけで実はマッチョな男性だったりして・・・。

いやはや・・。どこまでが現実なんだか仮想現実なんだか・・・。

理由 宮部 みゆき (著)