カテゴリー: マ行



氷点


私の枕もとにはいつも何冊かの未読本が積まれている。
とっとと片付けてしまおうと思うのだが、新しい本を購入するペースの方が早く、以前からずっと積まれたままの本は相変わらず積まれて下に埋もれたまま新刊の方を先に読み始める。

三浦綾子という作家、以前からクリスチャンであるという事は知っていた。
この『氷点』を購入したのもだいぶ以前の事である。
ひょっとして大昔に読んだのではなかったか、と思いつつも何故か本屋の書棚から引っ張り出して購入してそのままだった。

昨年末にこの『氷点』のドラマ化をしたものが放映される、というので録画予約をして、本を読むより先に見てしまった。ドラマを観てやはり昔に読んだものではない事がはっきりした。

録画の時間を間違えたので全ては観られなかったが大筋は理解した。理解してそしてついバカ笑いをしてしまった。

幼い娘が殺害された病院長が、殺害した犯人の娘を養女として引き取り、その養女を育てさせる事で娘が殺害された時に男と逢引をしていた妻への復讐をしようとする。

いずれその事実を知った妻が今度はその養女を苛める。

学芸会の時に一人だけ衣装を揃えてやらなかったり、給食費を渡してやらなかったり。
卒業式の答辞を読むにあたってその答辞の原稿を抜き取ってしまったり・・
いったいどこまでいくんだ!あぁー!って、その滑稽さに笑いまくってしまったのだった。

だからなおさら、本への手は伸びなかったのだが、何かの拍子で本の山が崩れ、現れ出でたるのがこの『氷点』だった。まるで読んでちょうだい、とでも言う様に。

ドラマで大筋を知ってしまっているだけに読むスピードは速かった。

しかし読み始めてみるとどうだろう。ドラマを観た時に感じた滑稽さなどは微塵も無い。
なんともシリアスな話なのである。
このシリアスさを理解するには昭和20年代という時代背景を考慮に入れなければ成り立たないであろう。

近年はもっぱらレトロブーム。昭和の時代は良かった。あの頃は夢があった・・と。
現代日本人が失った何かを持っていた時代。
そしてその何かの中には「恥」という概念も含まれているのだろう。
そしてその何かの中には「寡黙」というものも含まれているのかもしれない。

妻が浮気をしているかもしれないというのにその事を妻に直接尋ねるも出来ないこの啓造という病院長。

この平成の時代にあっては妻が浮気をしようがしまいがどうでも良いと思う夫はざらにいるだろう。
逆に気になる人は夫婦喧嘩をしてでも問い詰めるか。
今を時代背景として考えると啓造というキャラクターは成り立たない。
だからこそ余計に現代人が演じるドラマなどで観てしまうとその行為は滑稽を通り越して異常としか言い様が無い。
いや昭和20年代であったとしても異常である事には違いは無いのだろうが、そういう事を問い詰める事そのものに対する卑しさの様な気分的なものを残していた時代なのかもしれない。
それにしても学生時代からの恩師の教えである「汝の敵を愛せよ」を実践する、という言葉と裏腹に自分の妻を許すどころか一番陰険な復讐方法を考え、それを実践してしまう感覚はどうだろう。

いずれにしろ「恥の美徳」や「寡黙の美」を日本人がまだ持っていた時代は同時に己の美徳からはずれる者に対して陰険で暗い粘着性の様なものも前時代から引き継いでいた時代なのかもしれない。

この本が出版と同時にベストセラーとなったという事実はそういう時代背景の引きずりがあったからではないか、などと思ってしまうのである。

それにしてもこの養女となった陽子の明るさ、強さ、性格の良さはいったいなんなんだ。
小学校に入った頃に隣に座っている子はどんな子?前の子は?後ろの子は?と聞かれる場面があるが、どの子に対してもいいところを見つけて褒める。
人を悪し様に言う事を決してしない。
真実を知った母親からどんな目に合おうと告げ口をしない。
常に明るく明るく振る舞い、逆境を逆境と思わない強さを持っている。
この子こそ、神の子なのでは無いのか。
子供というもの、わがままなのが当たり前な生き物である。
子供の心は清く正直だ、などと言う勘違いを耳にする事があるが、子供だって嫉妬心もあれば嘘もつく。正直だというのはその嘘のつき方が下手だというだけだろう。
陽子はわがままという一般的な子供が持っている特性を持たない。
この養父養母は「血」というものへのこだわりが強いが、子供の育つ後天的要素についてはどうなのだろう。

子は親の背を見て育つと言われるが、給食費をくれない母親に文句を言う代わりに牛乳配達を始めるという発想はまさか「血」ゆえではあるまい。この両親のどこからそんな要素が受け継がれたのか。

幼い頃より父の膝に座る事さえなかった子供がここまで明るく他人に対して優しい性格を持ち得るのか。

今のご時世、親は子供から無視をされるご時世。
子供にとって父親は外で金さえ稼いで来てくれればそれで良く、ウザくて近寄ればオヤジ臭さが移りそうで、近寄るのも話をするのも嫌。
また母親は賄い婦であり、掃除婦であり、買い物に走らされる雑用一切をすれば良い家政婦の様な存在。

少子化のこのご時世の中では子供はこわれものの宝物の様に育てられ、家の中で一番偉そうにしているのが子供。
そんな家も多いのではないだろうか。

有り得ない様なありがたい「神の子」の様な子を授かりながらそれに気が付かない憐れな養父母の姿。

作家が描こうとしたのはクリスチャンならではの「許し」であり、生きている事そのものの「原罪」なのかもしれないが、読む側にしてみればどうしても平成のこの時代の現実を重ねて読んでしまう。

やはり平成のこのご時世に置き換えて考えて見る事そのものが滑稽な行為なのだろう。
なんとも言えない異質な気分が残る。やはり違和感はぬぐえない。

氷点 三浦 綾子 (著)



ドラゴンランス


森と自然を愛し、容姿端麗で1000歳まで生きる「エルフ」。

背は低いが勇猛果敢。細工物、建造物を作らせたら天下一品の「ドワーフ」。

邪悪で醜くいつも悪役の「ゴブリン」。

あまりにも有名な「指輪物語」(映画名では「ロード・オブ・ザ・リング」)や映画化が実現した「エラゴン」、世界2000万部とも言われる「アイスウィンド・サーガ」・・・・この手のファンタジー物語では必ず登場するこの手の種族。

もうあまりにも頻繁に登場するので、あたかもそういう種族が現存するのではないか、と思えて来てしまうほどです。

ドラゴンランスという本、注釈というものがついています。「注釈はネタばれになる事が書かれているので、6巻全てを読んだ後にお読みください」というコメント付きで。

6巻全部読んだ後で注釈だけを読もうとしてもそこには何頁のどの部分の注釈かがわからない。
従って最初から二度読みをしなさい、と言われている様なものなのです。

注釈を読んでいてわかるのですが、この物語はこのマーガレット・ワイスとトレーシー・ヒックマンの二人だけで書かれたものではない、という事。
チームの人達が皆でキャラクターを作っている様なのです。

マーガレット・ワイスなどは主人公のハーフエルフのタニスの性格がわからない、とさえ言っています。作者が生み出すべき個性を作者がわからない、とはどういう事なのでしょう。

また、この注釈ではそういう裏話だけならまだしも、本来本筋のストーリーの中に書かれていてしかるべき内容の様な話がいくつも書かれています。

それは何故なのか。注釈も読んで行くうちにだんだんと状況が飲み込めて来ます。
ドラゴンランスという世界はこの物語と併行してあるいはこれに先行して書かれた複数の本やドラゴンランスのゲームストーリーという制約の中で書かれている。
二人ともTSRという会社に勤める人でその会社の会社員でこそあれ、作家でもなんでもなかった。(その当時は)出版化を決めるのも会社。

後に、トレーシー・ヒックマンはドラゴンランスはゲームストーリーの制約に縛られずに書く事が出来たと語っていますが、ある種のクリン(ドラゴンランスの世界で言うところの地球に相当する)上発生した歴史というか、過去の時代背景などは既にあるものとしてその中で自由に書けた、という事ではないでしょうか。
例えば「信長の亡き後に秀吉が天下を取り、秀吉亡き後に家康が天下を取った」という様な、歴史の事実は曲げられないにしてもその中で暗躍した忍者を描くのも信長、秀吉、光秀、家康そのものをどのような人間像に描くのかは作者の自由。しかしながら、天下は信長、秀吉、家康と受け継がれて行くこの時代背景そのものには手を入れられないみたいな・・・・。

ちなみに後に出版されている「ドラゴンランス伝説」邦訳全6巻ではそのクリンの歴史そのものに挑戦しようという試みがなされている様にも思えます。

話の途中でパラダインの僧侶(キリスト教の神父様に相当するのでしょうか、はたまた牧師様に相当するのでしょうか)エリスタンというキャラクターが登場します。

注釈ではマーガレット・ワイスはこのエリスタンを殺してもいいか?とヒックマン氏に相談しているのですが、ヒックマン氏は「とんでもない。神聖なパラダインの僧侶を殺してしまうなんて・・」と猛烈に反対しています。おそらくですが、ヒックマンという人かなり敬虔なクリスチャンなのかもしれません。

読む立場からしてもこの神聖なパラダインの僧侶エリスタンはなんとも存在感も希薄で、なんとも胡散臭い。おそらく次の巻あたりで死んでしまうのでは?と思ったぐらいですから、マーガレットさんのご意見ごもっともと思えてしまいます。

もっとも半分はマーガレットさんが書いている訳で、敢えてエリスタン僧侶の存在感を希薄に描いたのは彼女なのかもしれませんが・・。

そもそもゴールドムーンという癒し人が存在するのですから、存在感は当然希薄になるでしょう。
ゴールドムーンという人は怪我人たちどころに治してしまうし、死にかけている人も救ってしまうのですから、キリスト教でいえばもうほとんどイエス・キリストの様な存在。
パラダインの信者どころかゴールドムーン教の信者が出て来てもおかしくは無い様なものです。
ゴールドムーンがいる限り味方には死者は出ないのだろうと思いきや、ゴールドムーンは途中から物語の中心から去って行き、脱落して英雄死を遂げるキャラクターも出て来ます。
これにも注釈があって、仲間内から一人も死者が出ないのもおかしいだろう、というチーム内の話合いがあったらしいです。

但し、英雄スタームの死については別途、その後の「ドラゴンランス伝説」だったか、さらにその続きの「ドラゴンランス セカンドジェネレーション」の注釈だったか忘れましたが、筆者はスタームの死は無くてはならない大事なストーリーだったと語っています。

注釈は、そういう楽屋話だけならまだいいのですが、それをあーた言ってしまっては・・という箇所が多々あるのです。
それは読み手にゆだねるべきところを何故そこまで饒舌に語ってしまうかなぁ、という首を傾げたくなる箇所も存在します。

従って私の結論としては注釈は要らないと思うのであります。
読む読まないは個人の自由ですが無しで読んだ方が素直にストーリーに突入出来るでしょう。

ドラゴンランスが「ドラゴン=竜、ランス=槍」つまり「竜と戦うための槍」がどんな役割りを果たすのかと期待しましたが、あまりそこにはこだわる必要は無さそうです。
ドラゴンランスというネーミングの世界が既に出来上がっているのですね。

話の筋としてはタニス、キャラモン、レイストリン、ローラナ、スターム、フリント、タッスル、ゴールドムーン、リヴァーウィンド・・・といった面々が暗黒の女王タキシスとその配下のドラゴン卿、更にその配下のドラコニアン、ゴブリンと戦いながら、暗黒の支配から世界を救おうとする訳なのですが、いつもの事ながらこの手の物語につきものなのが、暗黒、闇、邪 VS 光、善、正義 という構図。
レイストリンという魔法使いは心のどこかにいつも闇と病みを抱えている様なキャラクターでその人気が非常に高かったと作者は驚いていましたが、この人気はわかる様な気がします。多くの読者は勧善懲悪の単純に飽きて来ているのでしょう。

この物語、ドラゴンランスの続編のドラゴンランス伝説、そしてセカンドゼネレーション(息子達の世代が出て来ます)、夏の炎の竜・・魂の戦争・・喪われた星の竜・・・と次々と続いて行くのですが、既に続編の時点で、ヒックマン氏をもう敬虔なクリスチャンとは思わなくなるでしょうし、闇VS光ではなくなって来ます。

以前に書かれたものを含めるといくらでも膨れ上がってしまうこのドラゴンランスという物語の数々。もう終わりが無いのでは?とも思えてきます。
地球がある限り、世界史に終わりが無い様にクリンの世界にも終わりが無いという事なのでしょうか。

どの本にも全世界5000万部という帯がありました。
ドラゴンランスの一巻目が5000万部だとして全6巻、更に続編・続編も5000万部か、一巻目を無事に読んでしまえば、自ずからそうなるかもしれません。
一巻目の最初からぐいぐいと引っ張るタイプの読み物ではありませんし、なんせ最初は名前を覚えるだけでも大変。
同じ人物でも「タニス」と書いたり「ハーフエルフ」と書いたり、また「スターム」と書いたり「スタームブライトブレード」と書いたり「ソラムニア騎士」だったり「騎士殿」だったり。他にもそんな表現が一杯。
まぁそのあたりを乗り切れば後は一気に全6巻、また次の全6巻・・と行ってしまうのではないでしょうか。

さて冒頭の話に戻りますが、エルフあり、ドアーフあり、ゴブリンあり、・・あれ?
「ロード・オブ・ザ・リング」で活躍したホビット族はどこへ行ったのでしょうか。

ホビットは好奇心旺盛な種族なのですが、ちょっと個性として物足らないと言う事なのでしょう。
ドラゴンランスの世界では新たにケンダー族、ノーム族が登場します。

ケンダーの好奇心の旺盛さはホビットをはるかに上回り、死ぬ事すら冒険の一つと考えている。
また錠前破りの天才でスリの天才でもある。他人の所有品、貴重品も大切に自分の小袋に仕舞い込んでしまう。

ノームもケンダーに負けず劣らず好奇心旺盛で早口言葉の天才。発明の天才。
後続の後続あたりで実はノームもケンダーも同じ種族から分かれたという事実が明らかになる。

この物語、レイストリンが人気だったそうですが、私は陽気なケンダーのタッスルホフがこの終わり無き物語の中で一番好きなキャラクターでした。

ドラゴンランス(1) 廃都の黒竜  マーガレット ワイス (著) トレイシー ヒックマン (著) 安田 均 (翻訳)



DIVE!!


夏の高校野球の出場校 全国で4112校。大阪だけでも188校。
サッカーとなるともっと多い。高校選手権の加盟校は大阪だけでも223校。その比率で行くと全国では5000弱ほどか。中学、大学、社会人、プロ、少年クラブ、その他クラブ・・・そのチーム数掛ける1チームあたりの平均選手数。どれだけ凄まじい人数になるのだろう。
その頂点に立つ選手の出した答えが先日のイエメン戦だとしたら少々寒いものがあるが、本題からはずれるのでその話はよそう。

このDIVE!! という本、飛込み競技でシドニーオリンピックを目指す若者達の物語である。
この本の中にも書いているのだが、日本での飛込み競技人口はたった一つの高校の生徒数程度。せいぜい600人なのだそうだ。

いかにマイナーなスポーツかがこの数字に表れている。
競技中も隣りで競泳をやっているので、観客はその競泳の一着、二着にどよめく。
そんなどよめきとは無関係に飛込み競技は行われるのだそうだ。
同じ競技場で複数の競技が行われるという意味では陸上でも同じ様な事がいえるかもしれない。
トラック競技が行われている最中に走り高跳びが行われ、砲丸投げが行われ、・・・
選手は自分の競技に集中するのが大変だろう。
ましてや飛込み競技というのはほんの一瞬、たったの1.4秒にこれまでの練習成果を出さなくてはいけない。

マイナーなスポーツという意味では射撃の五輪代表やアーチェリーの五輪代表を知っている人はそうそういない。
だが時にマイナーなスポーツが大化けする事もある。
カーリングというスポーツがある事すら知られていなかったものが五輪終了後にはカーリングブームが起こったりもする。
カーリングの場合はあれなら自分にも出来るのでは?と思わえてしまう事がブームの発端だろうが、飛込みの場合はそうはいかない。
第一、競技をしようとしてもその競技をする場が無い。
この本の中では屋内ダイビングプールを有する施設は東京都内でもたった一つだけ。
記載されている東京辰巳国際水泳場というのは実在しているのでごたぶん事実なのだろう。
それに自分にも出来るのではないか、とは誰も思わないだろう。
きれいに入水出来なかった場合は、時速60キロで水面に激突する。その痛さは亀田興毅の連打をくらうより数段痛いだろう。
入水失敗も痛いだろが、飛び板に頭をぶつけてしまったら・・そういえばソウル五輪で実際に飛び板に頭をぶつけて頭から血を流している選手がいたっけ。
そのマイナーさを象徴する様に、主役達の所属クラブも高校生が1人、中学生が7人、小学生が26人。
その中学生もどんどん脱落して行く。尻つぼみなのだ。学年が上がる毎に減ってしまう。

最終的には同じクラブに所属する高校生と中学生がデッドヒートする。

一人は両親共飛込み競技の選手で共にオリンピックに出場し、自らも3年連続の中学生チャンピオン、高校1年にしてすでにインターハイの最有力選手。まさに飛び込みサラブレッドの要一。

また一人は伝説の天才ダイバーを祖父に持ち、津軽の断崖から海に向かって飛び込んでいた沖津飛沫。
その祖父の名前が沖津白波。まるでどこかの焼酎か地酒の様な名前だが、代々命がけで海に飛び込み海神の怒りを静めるという家柄に相応しいさんずいだらけの名前が水との縁の深さを強調している。

もう一人は動体視力の良さ故、ダイヤモンドの瞳を持つとコーチに言われた中学生、知季。

断崖から海に向かって飛び込むと言うとつい思い浮かべてしまうのが、あの自殺の名所の東尋坊の断崖絶壁から海へ飛び込んでいたオジさん。
これは「探偵ナイトスクープ」というローカル放送でだいぶん以前に放送していたものなのだが、それは競技用の飛込みでも何でも無く本当に単に飛び込んでいる、それだけなのだ。
何が楽しくってそんな所から飛び込むんでしょう、というのはオジさんには愚問だろう。
登山家に何が楽しくって山なんか登るんでしょう?って聞くのと同じ事だろうが、本当のきっかけはなんだったのだろう。
東尋坊あたりでは低い所から飛び込み位置を順番に高くする様な事は出来ないだろう。
本当は自殺志願者だったのかもしれない。死を覚悟して飛び込んではみたものの生きていた。
そしてあまりの気持ち良さに飛び込みの魅力に魅入られてしまった・・・?。

沖津飛沫が子供の頃、海へ飛び込む姿を見た元飛び込み選手だったオーナーが感激してダイビングクラブを作ったという。
感激するぐらいなのだから、ちょっと危険すぎて考えづらいが、東尋坊の飛び込みオジさんとは違ってかなり華麗な飛込みを海に向かってしていたという事になる。
いずれにしても飛沫もダイブする事に魅入られてしまった一人には違い無い。
プールでの飛び込みなんて、と野性児の様な飛沫には幼稚なお遊びに見えていたものが隣りの競泳の観客の視線を独り占めするに到って競技としてダイブの魅力に魅入られていく。

この物語を急展開させるのは新任のコーチの夏陽子の存在。アメリカでコーチングを学び、飛び込みにかける熱意は並々ならぬものを持つ。
具体的で的確なアドバイス、そして選手を潜在能力を見出す能力。何より中学生の大会ですら上位にも入れない選手を見て、オリンピックを目指そうという無謀とも思えるこころざしの高さ。

そしてエリートなだけで面白みの無さそうな要一。
物語の中盤から徐々にこの少年の個性が光って来る。
「あがるのはダイバーとして素質がある証拠だ。大事な試合で緊張もしないやつには感受性がない。感受性がないやつには美しいダイブなんてできない」
と、本番を前にして緊張しているライバルに声をかけ、緊張を和らげる。
人からはサラブレッドと呼ばれ、そのプレッシャーを小学生時代から抱えながらも、自らクラブを引っ張って行くリーダーであり続けようとし、遊びも友達も部活動も休みもガールフレンドも、焼肉もプリンも・・・。
同年代の少年達が味わったであろう楽しみの全てを投げ打ち、飛び込みのためだけに全てを捧げて来た。
友達よりコーチに評価され、それを友達に嫉妬されて悩む後輩には、
「いつかどでかい会場で十万の観衆をわかせたいと思うなら、そばにいる一人や二人の事は忘れろ。いちいち気を配っていたら、十万の観衆をわかせるエネルギーなんか残らないぞ」と声をかける。
このスポーツそのものを背中に背負ってしまったかの様に、アスリートとして一流なだけで無く、時には名コーチの役割も担っている。

この本を読んだ後に飛び込みの映像を見るチャンスを得た。

高さ10メートル。とんでも無い高さだ。本当にそこから飛び込むのか?
これまでたまに見た事のある飛び込み競技は3メートルか5メートルだったのか。10メートルという圧倒的な高さにまず威圧される。
第一群 前飛込 第二群 後飛込 第三群 前逆飛込 もうこのあたりから唖然としてしまうのだ。
なんだなんだこの飛び方は?最初の回転で良く踏み板に頭をぶつけないものだ。第四群 後踏切前飛 第五群 捻り飛込 第六群 逆立ち飛込・・・。

前回のアテネ五輪の後、成績不振に終ったメダル候補の各競技の選手達の「楽しめたから満足です」のコメントラッシュに対して国を背負い国費を使っての五輪出場だというのになんというコメントか、という不評がプンプンであったが、結果についてのコメントそのものの是非を云々するつもりはない。

だが実際に、この高さ10メートルの踏み板を前にした時の選手の気持ちはどうだろう。
全てのプレッシャ-を抱えたままでの1.4秒はあまりにも重たい。
もう楽しんでやろう、もうそれしか無いのではないだろうか。

かくして私の中では次回の五輪では飛び込みは絶対に見逃せないスポーツとなったのだった。

DIVE!!  森 絵都著