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羊と鋼の森


2016年の本屋大賞受賞作。

なんかとっても美しい本だった。

過去、こういう美しいだけの本が本屋大賞になったことってあったっけ。

「村上海賊の娘」のようなわくわくするような躍動感があるわけじゃない。
「海賊とよばれた男」のような感動と勇気を読者に与えるわけじゃない。

ただ、美しい。

人間、天職に巡り合うほど素晴らしいことはない。
主人公はなんと17歳にして天職と巡り合ってしまう。
たまたま学校の体育館までの道案内をした相手がピアノの調律師だった。

後にわかることだが、その調律師は著名なピアニストから調律の指名を受ける様な人だった。

最初に出会ったその人の調律がどれだけ彼の心を打ったのか、ピアノを弾いたことがあるわけでも、音楽の素養があるわけでもない少年が、その人に次に会った瞬間には「弟子にして欲しい」とまで言い出してしまっている。

調律の専門学校を出た後にその師と憧れた人の店に入社するが、人の何倍も努力してもなかなか調律は上達しない。
いや、上達していない、と思い込んでいるだけなのかもしれない。

この話の中では音というものがいろいろな比喩で表現される。
調律という作業もまたいろいろな比喩で表現される。

正直、その比喩が本当に妥当なのかどうかはわからないが、その比喩の言わんとするところに共感してしまうし、そこにも美しさを感じてしまう。

調律という作業がこれほどに奥の深いものだとは思わなかった。

羊と鋼の森 宮下奈都著



オールドテロリスト


とんでもない爺さんたちだ。

低迷する日本経済をして、戦後、焼野原から立ち直ったんだから、その気になりゃいつでも復活できますよ。などと言う連中が居るが、焼野原を体験したことの無い人間がその気になどなれるわけがないだろ。
ならばどうするか。もう一度、日本を焼野原にするしかない。

なんともダイナミックで斬新な爺さんたち。
地方再生なんていうチマチマした話じゃない。
全てリセットしようかって。

そんなことを頭の中で考えている分には、なかなか楽しいだろうが、事件は起きる。

まず、NHKの玄関で起きた爆破テロ。
全身が焼けただれるような死体が出るほどのひどいもの。
異臭のする液体を撒いて、それに火をつけた犯人はその場で焼死。

次が、自転車が通ってはいけない商店街を自転車で横切ろうとした人の首を草刈り機で切り落とすという凄惨なテロ。これも犯人はその場で自殺。

その次が歌舞伎町の映画館でのイペリットという毒ガスによるテロ。
これが最も規模も大きく、最も陰惨なもの。

でもこれはほんの序の口。

老人たちは旧満州から持ち帰った対戦車砲を浜岡原発近所にぶっ放し、日本国相手に戦争するとまで言い放つ。

この老人たちの大胆さ、豪胆さ、潔くもある姿に比べてなんと主人公のセキグチというジャーナリストのふがいないことか。次元が違いすぎて比べることそのものがおかしいと言えばおかしいが・・・。

当初の2件の事件以外は記事をスクープするどころか、書く行為すら行わない。
肝心なネタ取りの場所では震え上がり、嘔吐し、しょんべんを漏らし、その時もその後も安定剤と酒に浸って、ひたすら書くことから逃避する。
ジャーナリスト魂のかけらでもあれば、少なくとも書くだけは書くだろうに。

この話、ほんの数年後(2018年か?)の未来の話で、直近までの実際に起こった事件のことも書かれているので、10年後、20年後の読者はどこまでが事実なのか、少々混乱するのではないだろうか。

なんか読んでて龍さんそのものも年をとったのかなぁ、とも感じさせられる。
立派な戦士を前にいくらビビる主人公を描いたって、加齢だとかという言葉はこれまで使わなかっただろうし。

至るところに過去に村上龍が書いた小説のエキス満載。
学校を放棄した中学生たち独立国を作ろうとする「希望の国のエクソダス」の若者たちはダメダメ日本の例外として描かれ、この老人たちの武闘意識は「愛と幻想のファシズム」を想起させられ、日本が降伏せずに地上戦で戦っていたら、という老人たちの言葉は「五分後の世界」を想起させられる。

まさか、龍さん、これを集大成としようとして、こういう長編ものからの引退を考えているんじゃないでしょうね。
まだまだ早いですよ。龍さんにはこういう豪快なものをもっともっと書いて欲しいですから。

オールドテロリスト 村上龍 著



ラン


レーンを超える、と言う言葉、自分のコースからはずれてしまって、隣のコースに移ってしまった時などに使われると思うのだが、特にボーリングなどでレーンを超えてしまったら、ハタ迷惑やら、恥ずかしいやら。
いや、ボーリングに限らずどの競技でもそうか。

この本の中では「レーンを超える」という言葉が、生者の世界から死者の世界へと飛んでしまう時に使われる。

13歳の時に両親と弟を亡くして、その後の育ての親だった叔母さんにも死なれた天涯孤独の女性。

唯一の話相手が猫と自転車屋のおじさん。

その猫も亡くなり、おじさんも田舎に引っ越してしまう。

いよいよ本当の一人ぼっちになってしまった。
その自転車屋のおじさんが別れ間際にプレセントしてくれた特別仕様の自転車、ほとんど漕いでないのに勝手にスピードが出る、というシロモノでそれに乗って走っている内に彼女はレーンを超えてしまう。

レーンを超えた先に居たのは、生きていた頃より優しくなった父親、母親、弟で、その後、彼女は失った期間の家族の団欒を取り戻すかのように週に何度もレーン超えを行うようになる。
ここまでは前振り。

そのレーン超えするにはいくつかの条件が必要となるのだが、その自転車の存在がその条件をカバーしていたのに、ある時期を持ってその自転車を手放さなければならなくなる。
自転車無しにレーン超えをするには、一定時間内に40キロを走破しなければならない。

これまで5分も走れなかった彼女が、40キロ走破を目標にランニングに打ち込んで行く。

毎日、早朝に走り、仕事場の昼休みにも走る。

個性豊かなメンバの集まっている「イージーランナーズ」というチームに勧誘され、毎週の休みには集まってのチームランニングをする。

チームの目標は久米島で行われるマラソン大会へ全員が出場し、マラソン雑誌に掲載されることなのだが、彼女の目標は42.195キロではなく、あくまでも40キロの走破。

さすがに毎日走っているだけのことはある。
1時間で10キロを走るのだという。
同じペースで2時間。20キロを2時間なら、市民ハーフマラソン大会女子などでは真ん中よりもかなり上のペースではないだろうか。

孤独だった彼女に仲間が出来たこと。走り続けることで湧いて来た自信。
死者たちに会うのが目的だったものが、だんだんと、死者たちの世界との別れを受け入れられるようになって行く。

どんどん走る距離を伸ばして行く話を読んで行くうちに、読んでいるこちらも走りたくなって来る。

読み終えた翌日に久しぶりに20キロ走ってしまった。

後で後悔したことは言うまでも無い。

ラン 森 絵都 著