カテゴリー: マ行



とっぴんぱらりの風太郎


いやぁ、楽しい本でした。

時代は関ヶ原より後、徳川が征夷大将軍となるが、大阪城にはまだ豊臣が残っている、そんな時代。

伊賀の里から放逐された忍者、風太郎。
文字通りプータローになったわけで、京都の吉田神社の近くにて隠遁生活を送る。

究極の忍びとは目の前を歩いても気が付かれない。それだけ「気」というものを消す。
その「気」を消すことでは伝説の人、果心居士.。
その片割れだという因心居士という「ひょうたん」の幻術使いにいいようにあしらわれる風太郎。

その因心居士から語られる豊臣家のひょうたんの馬印の由来。

自分でひょうたん作りまではじめて、出来あがった立派なひょうたん。
何の因果か因心居士からの頼みで大阪城の天守閣へと届けなければならない。

とはいえ、その時には、大阪夏の陣が始まろうとしている。
冬の陣の和議の結果、城の周囲の堀は埋め立てられ、もはや裸同然の大阪城。

滅ぶ寸前の大阪城へ今度は高台院(亡き秀吉の未亡人)からも秀頼あてに届け物を頼まれる。

これから大阪夏の陣で滅ぶ寸前の大阪城へ忍び込む使いを仰せつかる。

10万の大軍に囲まれた中へ忍び込んで、無事に脱出するなどという離れ業が成し得るのか。

秀頼からはまだ赤子の娘を託される。

「プリンセス・トヨトミ」の昔語りと一致はしないが、一応は「プリンセス・トヨトミ」につながる話にはなっている。

この本、トヨトミとかひょうたんとかはおまけだろう。

これからは太平の世。

もはや忍びなどは要らない。

武将も武勲をあげるやつは必要ない。
徳川に従順な大名であればいい。
その部下は、殿さまに従順なだけの侍でいい。

忍びなどの特殊技術はもはや必要とされない時代になったのだ、という中で生きている忍びたち。

なんだかどこかで聞いたことがあるような話ではないか。

古くは自動織機が出来たから織り子さんたちは要らなくなる。
最近では、3Dプリンターが出来たら少量多品種の金型メーカーは要らなくなる、とか。

江戸時代になっても忍びには忍びの役割りがあった如く、それぞれの産業でも手作りで無ければ出せない味のために機械化が進んでも残っては来たし、今後もそうなのだろう。
それでも、 電話の交換手みたいに日本では100%消えてしまった職業というものもある。

この時代の分かれ目に居る忍びたち、敵・味方で戦ってはいるが、それぞれ「もう俺達の時代は終わったんだな」と思いながら戦っているかと思うと、なんだか哀愁が漂ってくる。

とっぴんぱらりの風太郎  万城目学 著



ターミナルタウン


三崎亜記さんがまたまた不思議な三崎ワールドを書きあげた。

隧道と呼ばれる植物のような通路やそれを作る隧道師。
植物のようなもので感情が伝わるものらしいので作るというより育てる、という言葉の方が合うかもしれない。

影の無い人たち。無いというより失ったという方が正確か。

鉄キチならぬ鉄道原理主義者たち。

現実界には無いものなのでじっくり読まないと理解しづらいものがある。

舞台は日本のどこにもない架空の町。

でありながら、逆に地方ならどこにでもあるような町に思えてしまう。

それは、地方の商店街が軒並みシャッター通りになっていき、このターミナルタウンも御多分にもれず、シャッター化しつつあるという背景。
かつてはじゃんじゃん人が住む予定で建てたニュータウンに閑古鳥が鳴いている様はまさにバブル景気とその後の日本の姿じゃないか。

その地方をなんとか活性化しようとする若者に対して、補助金さえあればいいじゃないか、ともはや諦め気分の大人たち。
この構図も今の地方商店街と似通っている。

なんとか地域活性化をしてくれるはずの計画が、地元に益を一切残さず本社のある首都にのみ益を出すチェーン店だらけの計画だったり・・・これもどこかで聞いたことのある話ばかりだ。

ターミナルタウン、大阪の北部で言えば十三や淡路のような駅だろうか。
いろんな線が交差して乗り換え客は多いが、案外改札を出る人は少ない。
その十三や淡路に特急はおろか急行も快速も通り過ぎるだけで乗り換えも不要になったとしたらどうだろう。
さぞや閑散とした駅になるんだろうな。

この物語に登場する静原というのもそういう駅だ。

アーケードがボロボロになっていよいよ取り壊されようという時に、よそ者の若者が提案したのが、鉄道でしか使われることの無かった隧道を使ってレトロな雰囲気の商店街を作ろう、というもの。

さて、果たしてこの架空の町、ターミナルタウンは地域再生を果たすことが出来るのだろうか。

ターミナルタウン 三崎亜記 著



ヴェルヌの『八十日間世界一周』に挑む -4万5千キロを競ったふたりの女性記者-


ジュール・ヴェルヌに「八十日間世界一周」という作品がある。

ジュール・ヴェルヌと言えば、後にアメリカのアポロにてほとんど再現してしまった月世界への旅行であったり、2万マイルの海底であったり、地底への旅行だったり、ほとんどが当時の技術では為し得ない夢の地術を描いたSFの作家なのだが、この「八十日間世界一周」だけはSFではなく、実際に当時に有った技術で行えるはず、として書かれたものだ。

19世紀後半のその時代にジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」に挑んだ二人の女性記者。

その時代のアメリカは、いくらアメリカとはいえ、まだまだ女性が男性と同様に仕事をまかされる時代じゃなかった。
女性の新聞記者と言っても、男性と同様の取材仕事などはやらせてもらえない。
社交界のお飾りみたいな記事を少し書く程度。

そんな中で、危険を顧みず、潜入取材で身体を張って取材活動をする女性が現われる。
ネリー・ブライという20代の女性記者だ。
当時の精神病院がいかにひどいところなのか、精神病患者になりすまして入院して牢獄よりひどいその実態をあばく。
またある時は工員として働き、その苛酷な労働条件を体験取材したり、当時治安が悪く危険だと言われたメキシコへ渡って、実際のメキシコを体感し、アメリカよりもはるかに安全な国だという記事を書いてみたり。

とにかく身体を張って取材をする人なのだ。
その人がヴェルヌの書いた「八十日間世界一周」を自分なら75日でやってのけるから、やらしてくれ、と上司を説得する。

その世界一周の発表を受けて、別の社も即座に動く。
文芸評論のコラムを書いていた文芸記者のエリザベス・ビズランドという女性記者に命じてネリーとは正反対の方向で世界一周をせよ、と命じる。

ネリーはニューヨークから一路東へ。大西洋を経てイギリス、フランス、イタリアのルート。
エリザベスは逆に、一旦サンフランシスコまで機関車で移動し、そこから乗船して日本へと向かう。

この二人、ひたすら旅を急ぐので、そこでの発見や取材や紀行文は極めて少ないが、その極めて少ない中にエリザベスが見た日本の印象がある。

彼女は富士山を見て感動する。日本人の信仰の対象となるのはもっともだと感じる。
彼女の見た日本は明治維新から約20年。
日本に非常に良い印象を持っているところは嬉しい。
人力車の車夫を見てその筋肉質に惚れぼれとしたりするところはやはり20代の女性ならではだろうか。

ネリー・ブライは最初のうちこそ、フランスで本物のジュール・ヴェルヌを訪ねたり、という余裕があるが、半ばから、旅の目的はとにかく急ぐことそのものになってしまったようだ。

取材する対象があっても、取材するに足る時間が空いていたとしても、取材という熱意が消え去ってしまっている。

彼女は72日という驚異的な記録で世界を一周し、一躍全米で最も有名な女性となり、行く先々で、熱狂的な歓迎を受ける。

遅れて帰国したエリザベスは、騒がれることもなく、彼女自身も旅については沈黙を守るという、同じことを行いながら全く正反対の状態となる。

瞬間熱烈な歓迎を受けたネリーがその後、幸せだったかというとそうはならないのが物語とドキュメンタリーの違いだろう。

記者としてではなく、講演旅行に出る彼女にだんだんと世論は覚めて行く。
記者に戻ろうにもあまりにも顔が売れすぎてしまって潜入取材などはもはやできない。

この本、500頁を超える大長編である。
その大半は、彼女達の軌跡を追ってこの著者がこの時代の各地の出来事や時代背景などをを膨大な資料を元に書いているもので、その合い間にはラフカディオ・ハーンやらピューリッツァー賞で有名なピューリッツァーなども登場する。

あらためて彼女たちの旅の意味はなんだったんだろう、と思う。
蒸気機関車やスエズ運河の開通で世界の距離は短くなったことの証明?

いやいや、それよりも新聞社そのものの宣伝の意味しかなかったのではないだろうか。

彼女たちが訪れたそれぞれの地に短くとも2週間や3週間ずつは滞在し、旅そのものは1年かかったとしても、そこで若い女性記者ならではの感性で、また弱者の味方で帝国主義の英国人の驕りが大嫌いなネリーの見方、イギリス大好きのエリザベスの見方、それぞれで観たもの、聞いたもの、感じたものを取材し、書きあげていたらどうだっただろう。

その書きものは100年たっても200年たっても色褪せなかったのではないだろうか。
少なくとも彼女たちの足跡が歴史から消えてしまうということだけは無かっただろう。

著者が資料集めをして書いたものより、彼女たち自身が書いたものを読みたかった。

ヴェルヌの『八十日間世界一周』に挑む -4万5千キロを競ったふたりの女性記者-  マシュー・グッドマン 著