カテゴリー: ヤ行



明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち


芥川賞の選考委員として、結構厳しい選評を書く人なので、最近はいったいどんな本を書いている人なんだろう、と一番の新刊を読んでみることにした。
「ベッドタイムアイズ」の頃と対して変わらないなら、二度とこの人の本は読むまい、と心に決めて。

で、結論を先に書くと、「さすが」でした。
芥川賞の選考委員として新人の作品をボロクソに言えるだけのことはあるわなぁ。
というのが素直な感想。

この本、タイトルからして、人にお説教でもしている類の本かと思ったが、さにあらず。

家族の中のとても大事な人が亡くなった後のそれぞれの人の心の中、残された家族の有りようを描いている本だった。

父が家を出、母とその子供兄妹の三人家族。
その母が、妻と死別し、男の幼子を抱えた男性と再婚することになる。
その結婚を子供達に打ち明ける時には既に母のお腹の中には、妹が誕生していたのだから子供達に相談するまでもない。

この家族の一番上の兄というのが、心の優しいおもいやりのある子なのだ。
母と義父が結婚した時点で、お腹の子を含めると子供は四人。
その中で母の血をひいていないのは義父の連れ子の男の子だけ。
だから彼が疎外されることがないようにと気を使う。

この兄がいたから二つの別々の家族もすんなりと一つ家族の家族になれた。

そんな兄がまだ高校生の時に事もあろうに雷に打たれて死んでしまう。

残された家族はそれでも一つになろうとするが、母だけが違った。
わがままで自分勝手で人の心をずたずたにする人であり続けた。

兄が死んだ後、アルコールに溺れ、依存症として入退院を繰り返す。

気を使って世話をやく次男に対して「なんであの子だったの?あなたじゃなくて」って。
普通の子ならもう心はナイフでずたずた状態といったところだろう。
この子はこんなにずたずたにされながらも母に寄り添おうとして行く。

子供達三人はそれぞれ成長して行くのだが、長女は兄の死以後、誰かを愛すれば愛するほどに、その人を失うかもしれないという恐怖心から結婚には踏み切れない。この妹がこの兄を思う気持ちはそんじょそこらの恋人達よりよほど強かったのだ。

弟は母ほどの年齢の人と付き合い始める。

大切な人の死がそれぞれの人にどんな影響を及ぼすのか。
皆が生きている時には見えなかった人の心根の本質のようなものがさらけ出される、なかなかにしてフカーイ本なのでした。

明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち 山田 詠美 著



ジパング島発見記


以後よく(1549年)伝わるキリスト教。
誰しも頭に残っている年表語呂合わせではないだろうか。

1500年代に日本を訪れた宣教師たち。
その時代に日本を訪れた7名の西洋人の目から見た日本。

彼らも布教するためなら、と数多の危険を顧みず、ここまでたどり着いたというキリスト教でいうところの聖人君子ばかりだったか、というと、どちらかと言えば、せっぱつまって、やむにやまれぬ事情でジパングまで流れ着いてしまったという人の方が多かったりする。

7名の人の視点で、ルイス・フロイスが書いたが如くに書いてはいるが、それぞれの一篇一篇はルイスフロイスが書いたものを下敷きとした作者の創作だろう。

7名の人達の見る日本と日本人のイメージはそれぞれ異なるが、共通しているのは、仏教や八百万の神を悪魔だのと嫌う点。
それに織田信長に対する畏敬の念だろうか。

「織田信長が本能寺で討たれなければ、日本は早い段階から開かれた先進国ぬなっていたものを、三河の田舎の閉鎖意識が国を閉ざしてしまったために最新技術に乗り遅れた」のとおっしゃる歴史学の先生がおられたが、果たしてそうだろうか。

江戸鎖国260年は、日本独自の洗練された文化を生み、日本独自の道徳観、倫理観などに磨きをかけたのもこの期間あってのことだろう。

それに宣教師を送りこんで、住民を懐柔した後にその地を植民地化していくのは当時のキリスト教国の常套手段だった。

秀吉がバテレン追放を行い、江戸幕府がキリスト教を禁教したのは極めて妥当なことであったろう。
逆に言えば、その当時にこの島国にあってよくぞそれだけアンテナを張りめぐらせてキリシタンの情報を収集したものだと感心してしまうほどだ。

この作品、こころみとしては面白いが、好きか?と尋ねられたら、決して好きな作品とは言い難い。

ジパング島発見記  山本 兼一 著



斗棋(とうぎ)


昨年出版の本で「ダークゾーン」(貴志祐介著)にという仮想世界の中での将棋やチェスに似たルールで人間が闘うという物語があった。

「斗棋」という話もそれに近いのか、と思っていたが、全く違う世界が繰りひろげられていた。

「ダークゾーン」は次のステージになれば再度生き返るが、「斗棋」はそんな仮想世界じゃない。一度きりの命を張った闘いだ。

舞台は江戸時代の黒田藩内にある宿場町。

博徒の二つの勢力が、いや組と言い換えた方がわかりやすいか。
本の中の言葉とは違うが、元は一つだった組が分かれて二つになって、縄張り争いだの抗争だのを繰り返している。

まともにぶつかりあったら、即、お縄になる。将棋での勝負なら問題あるまい。
そこで、始まるのが「斗棋」だ。

歩が互いに九枚ずつ、飛車、各、金二枚に銀二枚。

相手と駒が接触するまでの棋譜で言えば、普通の将棋と一緒だ。
▲7六歩 △3四歩と互いに角道を開けて角を取りに行くということは即ち角交換だ。
相手の角を頂く代わりに、自分の角を相手に差し出す。

どころが「斗棋」では、相手の角の上に角を置いた段階で、互いの角の役割を与えられた子分同士が命を張った闘いをする。
勝てば、相手の角は盤上から消え、手駒にもならない。
だから、相手の角を頂く代わりにがない。その角を銀で取りに来れば、その銀の役を担った子分と角がまた闘う。

親分はもちろん、玉だ。
将棋のルール通り、玉が取られたらそれでゲームセット。
極端に言えば、△8四歩 △3三角成(王手)で三手で玉を倒せばそれでゲームセット。

逆に「詰み」というものも発生しない。
これまた極端な話、自陣の駒が全部相手に倒されようとも、玉が残りの勝負全て勝ってしまえば、手駒無しでも勝ててしまう。

ならばやはり、喧嘩の強いヤツが一人居れば勝つだけじゃないか、と思うかもしれないが、そのとことん強いやつをどこに配置して、次の手をどう打つか、という戦術が大事になる。
とことん強いやつが居たところで、そいつをかわして玉だけを狙いに行く戦術もありえる。

物語としては、そんな戦術めいた話があるわけではない。
侍同士の斬り合いでは無く、田舎の博徒同士の泥臭い命掛けの闘いだけにやけに生々しい、そんな闘いが繰り広げられる。

と、出版されて間が無い本なので、未読の方のためにも本筋をはずした本の紹介をしておきます。

斗棋  矢野 隆 著 (集英社)トウギ