カテゴリー: ヤ行



昼が夜に負うもの


1930年代から始まる北アフリカの物語。
主人公の一家は畑の作物作りにて生計を立てていたのだが、豊作だと思った年に畑が全焼してしまう。
土地を捨て、都会へと一家は出て行くのだが、行きついた先は、ジェナヌ・ジャトと呼ばれる貧民達の住む一帯。
誇り高き一家の父は誰の頼りにもならず、自力で貧困から抜け出すべく働くが、兄の説得にて、主人公のユネスを兄(主人公からすれば伯父)の夫婦に預けて、満足に教育を受けるようにしてやる。その町がオラン。
伯父の家には子供が居らず、伯父もその妻も我が息子のようにユネス=この時には名前がジュネスとフランス読みされるようになる。
父・母・妹を貧困の暮らしに置いたままジュネスは綺麗な衣服を纏い、教育を受け、家でも大切に大切に扱われる。
ある時、伯父をみまったある不幸な事件にて伯父一家はオランを去ることに・・そして向かったのが、リオ・サラド。
少年期から青年期までジュネスはこのリオ・サラドで親友達との親交を深めて行くのだが、アルジェリアの独立運動が始まり、やがて独立戦争になって行くに連れ、ジュネスの立場は複雑である。
イスラム教徒で先祖がアルジェリア出身の彼に対して彼の友人達はユダヤ人であったり、はフランス系をはじめとするユーロッパの白人ばかり。

寧ろ彼らのコミュニティに属するよりも民族的にはアルジェリアの解放戦線側に属する人なのだ。
9.11のテロ後がそうであったように、ヨーロッパ人が殺されると、アルブ系の人は敵視され、アルブ系の死人が出るとヨーロッパ人は敵視される。

ちょうど、その間の立場に居る人達はどちら側からも敵視されかねない微妙な立場となる。
リオ・サラドをはじめ、彼らの周辺にはアラブ系だヨーロッパ系だと簡単に割り切れない人が大勢いる。
アルジェリア人でありながら奥さんはフランス人だったり、夫はイスラム、妻はキリスト教徒などが当たり前に混在していた地域なのだ。

また元はフランス人だったとしても、祖父の代からアルジェリアで暮らし、祖父や父はそこを切り開いき、自らはアルジェリアで生まれ、育ち、日常の生活を営んでいた人たち。
彼らにとってのふるさとはアルジェリアなのだった。
アルジェリアの独立戦争は、アルジェリアが独立を勝ち取るための戦いでありながらも、方やそんな人達が国外脱出を余儀なくされた戦争でもあった。

毎日のようにどこかで人が殺されるのが当たり前のそんな時代の中、主人公のジュネスは孤独でありながらも、結構日和見な立場のまま、命をかけることもなく、この時代を生き抜いてしまう。

彼にとっては、一時も忘れられないエミリーという女性を思うことの方が大事だったのだ。
エミリーという女性はかつて彼に最大限のラブコールを送って来るのだが、彼の方がそれに応えなかった。
エミリーを知る前に彼女の母親である女性に恋心を抱いてしまったがための一時の過ちが原因で彼はエミリーからの求愛に応えなかったのだ。

それが、離れ離れになるに連れ、彼のエミリーへの思いは強くなる。

方や血なまぐさい戦いが繰り広げられる中、彼の中では独立戦争よりも彼女への思いの方が心のウエイトを占め続ける。

ストーリーそのものは、なんとも優柔不断な男の生き様のようにも思えるが、冒頭のジェナヌ・ジャトの貧民街の描写やリオ・サラドの町並みの描写などは、その当時のその場所がまさに目に浮かぶような描写が続く。

北アフリカを舞台にした読み物などは、何故か表現が難しく読みづらいものが多かったりする。
二度翻訳されて・・ということもあったのかもしれない。

それに比べてこの活き活きとした描写はどうだろうか。

作者はもとより翻訳者の功績が大きいのかもしれない。

藤本優子さんという翻訳者、アルジェリアとフランスという二つの国、民族への理解がかなり深い方なのではないだろうか。


昼が夜に負うもの  ヤスミナ カドラ (著) Yasmina Khadra (原著)  藤本 優子 (翻訳)



獅子頭(シーズトォ)


むしょうに中華料理が食べたくなってしまう本です。

楊逸さんの芥川受賞作「時が滲む朝」が天安門事件以降だとすれば、この本の出だしはそのもう少し前。
文化大革命の名残りが残っていた時代から、ということになるでしょうか。

地方の農家の次男として生まれた主人公が都会へ出て成長していく過程は極めて順風満帆。

人民軍で手柄をたてた伯父さんのコネで父親が雑技学校の調理師に就職が決まります。
兄弟で雑技学校へ入学を試みるが、兄は成長したぶん身体がかたく落第。弟の主人公は幼くて身体が柔らかかったことが幸いして、入学が出来てしまう。

雑技学校ではメキメキと頭角を表し、上海での舞台にまで立てるようになり、そこの主催者から招待された高級レストランで食した獅子頭(シーズトォ)と呼ばれる肉団子が彼の将来を左右する食材となる。

慰安公演の練習中の事故が彼の人生を変える。
雑技団の一員になることをあきらめた彼には不遇の人生が待っているかというとそうではない。

大連へ出て、中華料理の店で働く事を決意するのだ。

そこでも彼が恵まれていることに、店の娘(後の妻の雲紗)が一緒に料理学校へ行こうと勧めてくれる。
店主への説得は雲紗がしてくれる。
料理学校で調理師免許を取り、卒業するや大連で一番のホテルの調理師見習いで雇われたかと思うと、従業員の賄い作りで、メニューに無かった「獅子頭」を作って出したことが幸いして、20歳をわずかに過ぎた頃には、そのホテルの本格料理人になってしまう。
そして雲紗とも晴れて結婚し、可愛い子供にも恵まれる。
あまりにも順風満帆すぎるのです。

看板料理人となった彼は日本から来た紳士に認められ、日本へ行くことを料理長やら経営者から命令される。

さぁ、ここまではほんの入り口。

物語はここからが本編と言っていいでしょう。

愛する美人妻、産まれたばかりの愛する娘と別れて暮らすことに散々抵抗をこころみるが、中日友好のためだから、と上から散々説得されてしぶしぶ日本へと旅立ちます。

中日友好のためなどと言われて、舞い上がっていたのになんのことはない、日本の中華レストランの料理人の一員に加わっただけのこと。
しかもカビ臭い共同部屋をあてがわれて。

ここから先のこの主人公、あまりに可哀そう過ぎるのです。

彼はそれまで自分は田舎から出て来た田舎者としか呼ばれていなかったので、自分では意識していなかったのでしょう。
なかなか男前らしい。
それに雑技をやっていただけあって、ひきしまった身体もスマート。

つまり、日本の女性からもてるのです。
昼食時に必ず寄り添って中国語を習いたいといい、日本語を教えるという店の看板娘。
実は娘というには少々とうが立っているのですが・・。

そうやって寄り添うのも中日友好なのか、と納得する主人公。
ある日、紅葉を見に行こうと彼女から誘われる。

この男、それがデートの申込だと気が付かないのです。

出国した時の意識のままの彼は国が変わりつつあることを知らない。
以前の中国共産党から「不適切な男女関係」と見られないように、気を配るのですが、それでも「断る」ということを知らない。
彼女の家へ招かれるとそのまま付いて行くことが礼儀だと思っている。

彼女からキスされてほぼ襲われる格好ながら、行きつくところまで行ってしまったのが運の尽きだ。
とうとう彼女に結婚を迫られてしまう。
子供が出来たというのだ。
結婚適齢期、実際にはそんなものはないのでは、と思うのですが、そう思っている女性で且つ自身が適齢期を少し過ぎたあたりと思いこんでいる女性というもの、なんて怖いんでしょう。

同僚の上海から来た先輩料理人も文革時代の人で、「お前は政治犯として死刑になるぞ」と散々脅し、大連の妻とは離縁出来るように取り計らってくれる。

この主人公氏、かつての順風満帆はどこへやら。
それもそのはず。彼が自分で物事を決めたのは、大連の中華料理屋で働く、と決めたことだけなのだ。
その後の料理学校にしろ、一流ホテル勤めにしろ、獅子頭づくりにチャレンジしてみる、などは全て後の妻となる雲紗のアドバイスに従って来ただけ。
流されるままの彼はいつの間にか故国の愛妻とは離縁となり、自分より年上で、化粧を落とせば美しくもなくたるんだ頬の女と結婚させられ、その先には、レストランもやめてその妻(幸子)が計画した食堂の厨房で料理を作るはめになる。
一流の料理人が、町の食堂で一律700円の定食を作り、年間365日働かされて、お金は妻が握っているので事実上賃金無し。
まさに資本主義による搾取じゃないか、とぼやいてみてももはや打つ手なし。
彼は結婚前から幸子とはどうやって離婚出来るのか、結婚後も頭の中はそれしかない。

こうやって早い時期に日本へ来た人というのは時計の針が来日の時から止まってしまっているのかもしれない。
毎日毎日、厨房にいるので、世の中がどう変わったのかなんて知る由もない。

その厨房で働き続けているうちに、本国は発展し、自分よりはるかに恵まれなかったはずの兄ですら、会社を経営し、豊かになって左団扇の状態だというのに、彼だけは文革時代のまま取り残されている。

本の帯には「誰も読んだことにない成長小説」だとか、「中国人青年の波乱万丈の日々を明るく描く新しい成長小説」などと書かれていたのだが、果たしてこれが明るい成長物語なのでしょうか。

悲しい悲しい話のように思えてきます。

はてさてその先、主人公氏に待ちうけているのはどんな展開なのでしょう。
その先は手に取って読んでみることをお勧めします。

それにしても楊逸さん、どんどん作品が活き活きとして来ますね。

楊逸さん、あまりテレビとか出ない方がいいんじゃないでしょうか。
あまりにも騒々しく話されるので、書かれているものそんな騒々しいものだと誤解されてしまいますよ。

この物語の主人公が先輩中国人から教わった日本語習得の仕方に、日本の漢字をそのまま中国読みし、その後に「する」をつける、すると大抵の言葉は通じてしまう、というくだりがあります。

楊逸さんの日本語会話の当初の習得方法はこれだったのではないでしょうか。

獅子頭(シーズトォ)』楊逸(ヤンイー)著



寿フォーエバー


とっても時代錯誤のような結婚式場。

寿樹殿という名前からして昭和の臭いがぷんぷん。

いや、昭和が嫌いと言っているのではない。
寧ろ平成より好きかも・・・
ただ、少々ずれている、と言っている。

正面玄関の一隅にある「ときめきルーム」だの、ピンクのハート型のテーブルだの・・・それどころか、上空から見れば、建物がハート型。
今どきゴンドラがある式場って・・・。

3階建てで上に行くほど狭くなる、ウェディングケーキを模した形状なのだという。

いやいや昭和全盛期だってこんな恥ずかしげな結婚式場はそうそうないだろう。

外壁がピンク色ってどうなんだ。
夜中にライトアップすれば、まさにラブホテル。

当然ながら、時代遅れの感は否めず、もっとはるかに規模は小さいがデザイナー達がプロデユースしたというフランス料理をメインにする新手の式場にどんどん人気を奪われて行く。

そんな結婚式場で結婚相手どころか彼氏もいない女性がいちゃつくカップルの結婚式の相談にのっている。

なんなんだ、この物語は?とかなり訝しげな気持ちで読んで行くうちに、だんだんとこの時代錯誤の寿樹殿に親近感が湧いて来るから不思議だ。

主人公の女性は、そんな時代錯誤の式場にあって、子供の一時預かり所を併設するプランを企画してみたり、メインの料理が無いなら、新郎新婦の故郷にちなんだ地方の料理をメインにするという毎回料理が変わるプランだとか、いろいろとアイデアを駆使する。

少年が現れて、まだ結婚式を挙げていない父親と母親の結婚式を二人に内緒で準備をしてくれだの、母親をゴンドラに乗せたいだの、お金が無いので模擬式をそのまま結婚式にあててしまうカップルだの・・・。

そんな彼らをここの人たちは温かく祝福する。

そう。この話、本当の祝福を。
祝福するとはどういうことなのかを、ちょっと変わった舞台を用いて著しているのです。

寿フォーエバー  山本幸久 著