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現代中国女工哀史


このタイトルを見れば誰しも中国の過酷な労働事情、労働環境が描かれているものと思うだろう。
だが、実際にはそういう内容の本では無い。

現代の中国の出稼ぎ労働者、その中でも特に若い女性のたくましさを描いた本である。

複数の出稼ぎの女性労働者に密着取材をし、なかなか語りたがらないその生い立ちや生活を聞き出し、その生き様を著したドキュメンタリーである。

彼女たちの大半は、一般の電話線すらまともに引かれていないような地方から出て来て、何ヶ月かの給料を貯めて携帯電話を手にする。
彼らとの連絡手段は携帯電話が無ければ成り立たない。
一カ所に留まらないからである。

この本が翻訳されて出版されたのが2010年2月。ちょうど1年前。
原著の出版日は記述がなかったが取材は2004年から2007年。
日に日に変わる中国。
賃金も、ほんの数年でも経てば参考程度の情報かもしれない。
それでも敢えて紹介しておくと、取材された女性たちの賃金は大抵、日本円にして月に5000円ほど。
もちろんそれで満足をせず、8000円の仕事に転職し、やがては1万円の仕事に転職する。
今や年収何千万の億万長者が百万人レベルと言われるかの国だ。

巷言われるように賃金格差が日本の比にならないほど高いのも事実だろう。

日本で経営者と新入社員の給与格差はあったとしても、よほどの有名人経営者や特殊な例でない限りは、せいぜい数倍という一桁内範囲だろうし、中小企業なら倍すらも行かないかもしれないが、かの国の賃金格差たるや、二桁どころか三桁ほども違うのではないだろうか。

かの国から言わせれば、日本が賃金格差が無さ過ぎるのだ、ということになるのだろう。
日本だって、明治、大正時代に伸し上がって行った人たちの収入の上がり方なんて今から考えればとんでもないレベルだったのだから。
棒給:何十銭から始まって、何円に何十円に何百円にそして何万円に・・と。

それにしても
「貧しいまま死ぬのは罪悪だ」
「頼れるのは自分だけ」
「悲しくなる暇などない。しなければならないことがこんなにたくさんある」
「時は人生なり」
なんというエネルギーだろう。
稼いだお金を学びに投資することを厭わない。

パソコンを学び、語学を学び、ホワイトカラー講座に学び、そしてホワイトカラーに転身して行く。

中国の出稼ぎ労働者の数は日本の人口よりはるかに多い。
その凄まじい人口がこれだけのエネルギーとたくましさを持っているとしたら・・・。
それこそいつかは彼らと競争することになるかもしれない日本の若い衆達、いや日本の就職戦線の一部ではすでに競争は始まっているか。
そしてすでに太刀打ち出来ていなかったか。

著者は、両親が中国から台湾へそして台湾から飛び出したアメリカ人で、その祖父も元々は中国からアメリカへの出稼ぎ労働者であった。

著者のルーツもまた中国にある。

かなりのページを著者の祖父の世代の記述に割いている。
著者の祖父の時代というのは、十代で清朝が崩壊。代わりに共和国が出来、丁度その頃も孤立主義から世界の仲間入りをしようとした時代だ。

祖父はアメリカへ出稼ぎに出るが、その心意気が立派なのである。

祖国の現状を憂え、如何に立て直すのか、将来には何が必要なのか、と鉱山について学習したりする。
その後、帰国の後、ロシア兵か中共軍かのいずれかの犯人に殺害されてしまうのだが・・・。

これだけページを割かれてしまうと、どうしても現代の出稼ぎの彼女たちと比較してみてしまいそうになるが、それは時代背景が違いすぎてほとんど意味のないことだろう。

その試みは「平成の開国だ」と叫ぶ誰かさんと実際に明治維新を成し遂げ、欧米列強に比肩するほどの大改革を成し遂げた人たちを比較するほどに等しいではないか。
いや後者の方がはるかに虚しいか。

話を戻そう。

彼女たちは国家を背負うつもりなど毛頭ない。
自らがリッチになること、向上することを考えるが、その向上心には共通するものがあるのかもしれない。

中国のある新興の都市では、市役所の発表する住民数は170万人なのだが、毎年、出稼ぎ労働者で100万人規模で増え続けていて、実際の人口は1000万人は居るだろうと言われている。

そんな新興都市はそこだけではあるまい。

毎年、毎年、大阪をしのぐ、いや大阪どころか東京をもしのぐ規模の都市が生まれて行くということか。

中国そのものの人口にしたって13億と言われているが、実際にはもっとはるかに多いかもしれない。
15億以上いると言われても驚かない。
住む場所も一定で無く、所在のつかめない人口があまりに多いのだ。
それにこれだけ人が流動すれば、その確かな数字など誰にわかろうか。

現代中国女工哀史 レスリー・T. チャン 著  Leslie T. Chang  栗原 泉 訳



水深五尋


第二次大戦中の物語。
ドイツのUボートが現われるイギリスの港町が舞台。
主人公の少年は自国の貨物船が撃沈されるにあたって、この港町のどこかにドイツのスパイが居るのでは?と疑い、自ら捜査を始める。

と書くとまるで愛国少年、軍国少年のようだが、やがては自国の権力者達を嫌悪するようになる。

「水深五尋」というタイトルだから潜水艦の中まで冒険する物語かと思ったのだが、そうでは無かった。
舞台は陸上である。
寧ろ、Uボートにまつわる冒険話などではなく、国内の移民や様々な階層の人たちの有りようを描いている。

イギリス国内にもアンタッチャブルとも言えそうな、警察も手が出ない地域があったりする。
そんな中でのスパイ捜しは少年にとって危険でないはずもなく、それが冒険話として語られている。

スパイ捜しはともかくもその舞台となる地域でのことは著者自らが体験した話なのだと著者は書いている。

それにしても何故?
何故この本が本邦初訳なのだろう。
戦後60年以上経過し、既に著者も10数年前に亡くなっている。

日本人を敵視している表現があるから?そんなわけはない。
当時は敵国だったわけだし、戦中ならともかくも。
2009年になって何故今頃初訳なのだろう。

もう一つ、何故?
あのスタジアジブリの宮崎駿氏が表紙を飾り、挿絵を書いている。
もちろん、といえばもちろんながら隣のトトロ風でも無く、風の谷のナウシカ風でもない。
何故今頃挿絵なんて書いているんだろう。

と、物語の本筋とは違うところでどうしても何故?が発生してしまうのである。

水深五尋 ロバート・ウェストール著 宮崎駿 (イラスト)  金原 瑞人 (翻訳)  野沢 佳織 (翻訳)



造花の蜜


なかなか期待させる出だし、予想を裏切る展開。
誘拐・身代金奪取ということを試みながらも結局一銭も奪い取らず、・・どころか奪い取れるはずのお金を返上しながらの人質解放。
犯人には別の目的があったのか・・・・・と本来ならば、ぐいぐい読まされるはずの展開。

非常に発想の面白い作品なのだが、何ともリアリティが無いという印象が残ってしまうのである。
小説なんてそんなもの、と言ってしまえばそれまでなのだが・・・。
もっとリアリティの無い世界を舞台に描いている作家でさえ、バックボーンにリアリティが無い分、ディテールにおいてのリアリティさにかけては細心の注意を払っているはずである。

細かいことを言い出せば、被害者宅へ来た刑事が「ご主人が金持ちだという事を云々」
「金持ち」って・・・そんな表現。
ちょっとした言葉遣いだけでも、それまで積み上げて来た、エリート刑事のキャラクターを台無しにしてしまいかねない。

それにしても日本の警察もずいぶんとなめられただ。
いくら昔に比べて未解決事件が多くなったとはいえ・・・。

渋谷のど真ん中でいくら人通りが多いからと言って、犯人が指定した場所へ車を乗り付けての人質解放。
それで、共犯も誰一人逮捕者が出来ない?
周囲一体、私服の警官が取り巻いているというのに。
遠隔地から指定場所への監視体制も整っているのに。

その前にも指定の交差点に目印の赤いペンキのようなもの。結局血だっただが、それをどうどうと撒き散らかした車も追跡出来ない?
そこまでひどい?

ミステリーものというのは謎になった部分について最後には全て、あーそうだったの、という納得させる答えを読者に提供するものとだと思っていたが、いくつもの「?」はそのまま放置されたままである。

人質の母香奈子と刑事が渋谷で共に見た、目つきの鋭いいかにも人相の悪い犯人っぽい男。
それって結局何者だったの?
何故、刑事にあれが犯人なんですか?と聞かれて「犯人です」って香奈子は答えたのは何故なんだ?
渋谷の交差点に撒かれた血は結局なんだったの?。
などなど・・。
あえてグレーにする部分とグレーを明らかにすべきところについて、少し極め細やかさに欠けていやしないか。

刑事が質問している事に「そんなことどうでもいいじゃないですか」などという香奈子の口調ってどうなんだ。
一般人がいくら誘拐事件の最中だからと言って刑事という人種を前にしてそんな言葉を吐けるか?

相手が刑事だから、だけでなく、誘拐された被害者宅は刑事を呼んで来てもらっている。助けを請うている。そういう立場である。
彼女は偉そうな言葉を吐ける立場にはいない。

納税者の立場から言わせてもらうなら、この女性は国民の血税を使って、誘拐された子供の救出に来てもらっているのである。
この被害者側の態度は許しがたい。

後にもっと許しがたい存在である事があきらかになるのだが、その前に反感を持たれてどうする。

共犯者でもあり被害者でもある青年の話のくだりなど、なかなかに面白い筋立てだろう。

それでもいくらなんでも最後の事件のくだりは、もうほとんどアルセーヌ・ルパンじゃないか。
平成日本に現れた女アルセーヌ・ルパンといったところか。

物語の要所要所に必ず蜂が登場する。
蜂が所謂キーワードなのだろうか。蜂という存在に何かを暗示させているのだろうか。

そんな一見極め細かいようなつくりに見えながら、実はかなり荒っぽい作品なのである。

閑話休題。
蜂と言えばこの本が出版された2008年、日本から大量に蜜蜂が減少した。農家は授粉作業を蜜蜂に頼って来ただけに、今後が大変なのだとか。
閑話休題終わり。

この本、新聞の書評欄でのベタ褒め記事を読んで読む気になったのだが、その書評といい、ずっしりとしたこの本の重量感といい、いかにも面白い本ですぞ、と言わんばかりの装丁といい、読む前にかなり大きな期待を持ちすぎてしまったのがいけなかったのだろう。宮部みゆきばりの事件的描写を期待してしまった。

少々辛辣な感想になってしまった。

この辛辣さは、あくまでもそういう過度な期待度が事前にあった上で読んだためのものであって、予備知識なしに読み始めれば、間違いなく面白い作品の範疇に入るのではないだろうか。

「造花の蜜」 そうまさに造花なのだ。本物の胡蝶蘭では無く、あくまで造花の蜜。
なかなかにして相応しいタイトルではないだろうか。

造花の蜜 連城三紀彦 著(角川春樹事務所)