カテゴリー: 東野圭吾



真夏の方程式


海が美しい町、玻璃ヶ浦。
その町に向かう電車の中で、小学五年生の少年、恭平は物理学准教授の湯川学に出会う。
そんな冒頭から始まる今作は、ガリレオシリーズの第6弾、シリーズの劇場版第2弾である。

仕事で瑠璃ヶ浜に来た湯川は恭平の親戚が運営する旅館に泊まるが、同じく旅館に泊まっていた塚原正次が夜中に姿が見えなくなり、翌朝変死体として発見される。

いつもは湯川の大学時代の同期であり、現在刑事をしている草薙俊平が湯川に事件を持ち込み、湯川は警察でなんとかしてくれとわりと淡白(ある意味当然の反応だが)に断る。その後妙なトリックに興味を示した湯川がそのトリックを物理学で解明し、事件の解決に繋げてしまう、というパターンが多い。

しかし今回、湯川は「ある人物の人生が捻じ曲げられる」ことを防ぐ為に事件解決に協力するという。

進んで事件に関わる姿勢、そして苦手としていたはずの少年、恭平とのやりとり。
今作では今までとは少し違う湯川学を見ることができるだろう。

さらについ最近劇場版も見たが、途中湯川と恭平が海を見る為にペットボトルロケットを飛ばすシーン。海の美しさと、夏の暑さも感じるようなあのシーンだけに入場料を払っていいほどのできばえだった。夏も終わりの今だからこそ、より思い入れができたのかもしれない。

原作も劇場版も、東野圭吾作品で特に私が好きな「自身の思惑を一切明かさぬまま、周囲を巻き込み、地位や名誉も全て投げ打って望みを叶える」ような身勝手な人の生き方をみることができた。

やはりそういう身近にいたら迷惑な人の話は、物語の中で読むに限る。



片想い


アメフトが題材として用いられるのは、日本の小説ではかなり珍しいと思う。
「どしゃぶりが好き」須藤靖貴 著(光文社)という小説があるにはあるが、これなどはアメフト部を率いる監督が主人公でアメフトそのものを描いているので、物語の背景としてのアメフトの存在を据えるのとはまた異なる。

大学時代のアメフト仲間達の集い。卒業して10年を経過しても尚、再会して必ず出るのが最終戦の敗北ゲームの話題。
QB(クオーターバック)が完璧なフリーで走っている選手へパスを出せば、そのままタッチダウンで優勝だったはずが、そこへは投げずに敢えてマークされている選手ヘパスを出してしまい優勝を逃してしまうという、その話題。

大学時代のアメフト仲間達はアメフトを離れてそれぞれの道を歩んでいるが、近況はこうした集いで知れる。
だが、中には同窓会にも全く来ない、どうしているのかわからない者もいる。

二人いた女子メネージャーのうちの一人がそうだ。
もう一人の女子メネージャーは、QBの妻となっている。

そのかつての女子マネージャーとQB夫妻が再会する。
彼女はかつての女子ではなく男の容姿であった。

彼女は性同一性障害なのだという。
卒業してからそうなったのではなく、学生時代も、もっと前の幼少時代からずっとそうだったと。

かつての仲間が女でありながら男たりたいと思ったところでさほどの問題ではない。

問題は彼女が男性の容姿をしている時に起こした殺人だ。
男性の恰好でバーテンの仕事をしていた彼女は、ストーカーに付きまとわれているホステスの女の子を自宅まで送り、その際にしつこくつきまとっていたストーカーを殺害してしまったのだという。

QB夫婦は彼女に自首をすすめるのではなく、かくまう方を選択する。

女性の格好にさえなれば、絶対みつからないだろうとQBの妻はいい、彼女はそれを嫌がる。

それにしても「性同一性障害」ってなんで「障害」なんだろうか。

女性の身体を持つ人が男性の心を持ったとして、それの何が障害なのだろうか。
女性の心を持って男性の身体を持つ人などは、テレビにいくらでも登場している。

この小説ではこのような女性の身体を持つ人が男性、男性の身体を持つ人が女性が複数登場するが、染色体の性にもふれている。

男女の染色体とは男が「XY」で女が「XX」だと一般的には言われている。

高校陸上で圧倒的な脚力を持つ女子選手。
彼女の染色体には「Y」が含まれているのだという。

それゆえ、有名な大会に出てしまってオリンピックの候補にあがってしまっては一大事。陸連そのものが方針を出せないでいる、ということで一流大会には出場しないまま、もくもくと練習を続けている。

彼女の場合は、心も女、身体も女。ただ染色体だけに「Y」が含まれている。

その話は余談ではあるが、この事件の結末は元QBの主人公次第。

それぞれ、登場するかつての仲間がランニングバックならランニングバックとしてのかつての役割りや個性を残していたり、ここでフェイクをしかけるだとか、アメフトのゲームをもじりながらの物語運びがなかなか面白い。

さて、主人公氏はかつての司令塔QBのように、この事件でも司令塔となり得るのだろうか。

片想い  東野 圭吾 著 (文春文庫)



マスカレード・ホテル


いつでも映像化して下さい感が満々な本だ。

配役が決まっている、と聞いても驚かない。

東京で起きた三つの殺人事件。
各々、加害者にも被害者にも接点は見当たらないのだが、犯行現場に残された謎のメッセージ。そのメッセージの共通性からこの三つの繋がらない犯行が連続殺人事件として取り扱われる。

各々のメッセージの中には次の犯行場所まで埋め込まれており、そして次の犯行場所として犯人が予告しているのが、この話の舞台となる高級ホテル。

推理小説としての流れは、まぁ読んで頂くとして、それより何よりホテルのお客様に対するサービス。
このホテルのサービスに対する情熱は並みのものではない。

そのサービス第一のホテルへ従業員に扮した刑事が張り付くというのだから、ホテルのスタッフにとっては溜まったものではない。

人に対する扱いや思いが正反対の人間がその正反対の仕事をする。

「いかにしてお客様に居心地の良さを提供するか」を思う人達の中に、人を見たら泥棒だと思う人間が入り込んではいびつに過ぎるだろう。
しかも、それがフロントとなれば目立って仕方が無い。

ところが、この刑事、日に日にホテルマンとしてプロらしくなって行く。
彼の指導係がそのフロントスタッフの女性なのだが、この人のホテルに対する思いも尋常ではない。

ちょっと文句が出ればルールを変えてしまうのはおかしいでしょう、という潜入刑事に対し、「お客様がルールブックです」と言い切る。

それにしてもホテルマンらしくなった刑事扮するフロントマンが、とある顧客のクレーム対応をするシーン、あれはいくらなんでもやり過ぎだろう。
お客様はルールブックだから、とほとんど言いがかりに等しいことまでもまともに言いなりになってしまってはホテルだっていくら人出があっても足りなくなってしまうだろうに。

「いってらっしゃいませ。お客様」
「お帰りなさいませ。お客様」

このセリフ、三谷幸喜の映画 『THE 有頂天ホテル』 を思い出させる。

そう、その映画でしか思い出せないということは、実際にはお目にかかったことがないのだろう。

それなりに出張やらでホテルを利用しているというのに。

やはり、それなりのサービスを受けるなら一流ホテルに、ということなのだろう。

マスカレード・ホテル 東野圭吾著 (集英社)