愛と幻想のファシズム
以前にこの本を読んだのは何年前だっただろうか。
10年、いや15年前かもしれない。
どちらかと言うと村上龍が芥川賞を受賞したあたりから、だんだんと芥川賞の受賞作品というものも嫌いになりはじめ、そのあたりから芥川賞の受賞作家の書いたものから遠ざかっていたと思う。
三田誠広の「僕って何」などを読んだ時は思わず、むかついてきてしまい、読後には捨て去った覚えがある。
「限りなく透明に近いブルー」も当然の如く読んだ。
何故こんな退廃的で堕落的な作品が大騒ぎされるのか、当時流行りの若者の退廃的思考への迎合ではないのか、などと書くとよほど年寄りの様であるが、村上龍氏よりははるかに若年の私は当時そう思えてならなかったものである。
実は「限りなく透明に近いブルー」にはもっと違う意味での、例えば第三者的な視点で「私」そのものを描写するという意味においてこれまでに無い作品、という様な、画期的な側面があったらしいのだが、当時の私にはそんな事は気が付かなかった。
再読すれば、また違った見方が出来るかもしれない。
10数年前、そんな村上龍への評価を100%変えたのがこの「愛と幻想のファシズム」だった。当時読み始めた時の衝撃は未だに忘れられない。
鈴原冬二や「狩猟社」はどこまでやってくれるのか・・・
今回、たまたま本棚にこの「愛と幻想のファシズム」を見つけ、久しぶりに読み始めた。読み始めたのはいいが、上下巻の内の下巻が見つからない。
そういえば、10数年前に読んだ時に最後の終り方に何かしっくりしないものを感じていた事を思い出し、そのまま下巻を読まない方がいいのではないか、などと考えつつ読み出してみるともうたまらない。
即座に下巻を購入して読みつづけた。
何故今回、「愛と幻想のファシズム」だったのだろう。
先日の選挙にて小泉圧勝を目の当たりにし、小泉のある種のカリスマ性が連想させたのかもしれない。
「ファシズム=悪」というのがこれまでのある意味、常識的な考えだった。
いやそういう教育を受けて来たのではないだろうか。
「農耕民族は隷属を好む」
「人から指示されて生きるほうが楽だ」
こういう考えを100%否定出来るだろうか。
あらためて歴史というものを考えた時、この永い人類の歴史の中で現代の様な民主主義、(それはエセ民主主義と呼ぶ人もいるだろうが、それは話題が逸れるのでここではふれない)と呼ばれる体制に変わってからの時代というのはほんの一握りでしかない。
日本も中国も西洋も王侯貴族や殿様という絶対権力の元でそれぞれの文明・文化が築かれて来ており、民衆は常に圧制に苦しんでいたのだろうか。
飢きんや疫病、圧制に苦しんだ時代もあれば、善政をしく王を戴いて栄えた時代もあっただろう。
現代の制度の中でも指導者が無能であればそのとばっちりは民衆へ跳ね返る。
何も全体主義やファシズムを肯定している訳でも中世の絶対君主制度が正しいなどとも言っている訳では無い。
ただ、国家がなんらかの危機に直面した時ほど、民衆は強い指導者を求め、よりカリスマ性の高い人物を指導者に求める。
だからこそ、この「愛と幻想のファシズム」内の日本においては鈴原冬二に皆惹かれて行く。
この本にはあまり余分な感想文など不要であろう。
人の感想などに興味を示すよりも読めば、それで事足りる。
いずれにしても、ファシズム=悪 という短絡的を打破し、真っ向から既存常識を打ち破った村上氏に拍手、である。
もう一点拍手を送りたいのは、
「米国という強い男にいいように蹂躙(じゅうりん)されている弱々しい女。それが、戦後から現在までの日本の姿だ」
「そんな国で日本人はプライドを持って生きていけるのか」
というプライド無き日本、プライド無き日本人への作者へからの強いメッセージである。
まさに村上兵衛では無いが、「国家無き日本」に対する強いメッセージ。
これをあのまだまだ左派勢力がマスコミの大半を牛耳っていた当時に書いている事は驚嘆に値する。
最後に下巻の最後まで再読してみて、10数年前に感じたあの「尻切れトンボ」の様な感想は今回は抱かなかった。あの当時はもっと過激な最後を期待していたのかもしれない。
もう一点。文庫本のあとがきにて著者そのものがふれているが、
冬二とゼロとフルーツは「コインロッカーズベイビー」のキクとハシとアネモネに相当すると言うが、私にはそうは読めなかった。
やはり、もう少し読み込みが必要なのかもしれない。