降霊会の夜
郊外の森に住む団塊の世代の初老の男が毎晩、同じ夢を見る。
同じ女性が現われて、過去への懺悔を求めている様子なのだが、男は夢の中で言う。
この歳まで生きて、悔悟のないはずがない。それらを懺悔して贖罪するなどあまりにも都合が良すぎるではないか、と。
そんな彼が降霊会に招かれる。
振り返る過去の時代は二つ。
一つは、彼の小学生時代。もう一つが大学生時代。
それにしても小学校の一学年のたった一学期だけ、という短い付き合いの転校生のことが良く頭に残っていたものだ。
いや、普段はとうに忘れ去っているが、降霊会という場が思い出させたという方が正確か。
戦争が終わって、さぁ復興、という波にうまく乗れた人と乗り遅れた人の差。
うまく乗れた人が主人公氏の父親で乗り遅れた人がその転校生の父親。
方や、瀟洒な家に住み、都心で会社を経営するプチ・ブルジョア。
方や、空き地にバラックをおっ建てて、トタンを被せただけのボロ屋住まい。
ボロ屋というよりは、ただの空き地に住んでいるのだから寧ろホームレスに近い。
母親はニコヨンと呼ばれる、日給240円の日雇い労働者。
父親は普段はパチンコ屋通いの当り屋稼業。
当り屋と言っても自分の身体を使うならまだしも子供の身体を使って当り屋をする、とんでもない親を持つ子。
そういう霊に主人公氏は懺悔しなければならないことの一つでもあったのだろうか。
小学時代の近所の警察官の霊が現われて主人公氏に言う。
人間は嫌なことを片っ端から忘れていかなければ、とうてい生きてはいけない。
でも、そうした人生の果ての幸福なんて信じてはならない、と。
忘れてしまう罪は、嘘をつくより重い、と。
それを当時小学生だった主人公氏に言うのは酷すぎやしないか。
いや、高度成長時代にも貧富の格差はあったとか、貧困はあった、とか、そんなことは当り前だ。
ただ、仕事など探せばいくらでもあった時代に、自ら「くすぶり」だと決め込み、「せっかくやろうと思ってた矢先なのに」と、まるで子供の駄々のような理屈をこね、悪いのは他人で、世間で、時代だとばかりに怠惰な暮らしを決め込んだその転校生の父親こそ、どうしようもない。
方やの大学生時代は、まさに学生運動の真っただ中の時代。
ゲバルトもノンポリもフーテンも含めて、自分達が地球上のほかのどこにも、歴史上のどこにも存在しないぐらい稀有な人種であることに気が付いていなかった、と当時のやりたい放題だった自らの学生時代を振り返る。
ここでも主人公氏は一人の女性を忘れ去ってしまっていたわけなのだが、小学時代の回顧にせよ、大学時代にせよ、あたかも高度成長を否定しているかの如くに読めてしまえそうな箇所がいくつもある。
だが、著者が言いたいのは、そんなことではないだろう。
著者は忘れ去って捨て去ってしまったものを、今一度振り返って見つめ直してみよ、と言いたいのかもしれない。
浅田氏の本に霊のようなものが登場するのは少なくない。 だが、これは少々重たいなぁ。