カテゴリー: 浅田次郎



輪違屋糸里


幕末の時代で大好きな人を一人挙げよ、と言われたら・・・。
高杉晋作?坂本竜馬?桂小五郎?吉田松陰?佐久間象山?否。
西郷隆盛でもなければ大久保利通でもない。
もちろん徳川慶喜でもなければ勝海舟でもない。
たった一人を挙げるならば、「土方歳三」と答えてしまうかもしれない。
なんでだろう。
敗北の美学? 滅びの美学とでも言うのだろうか。
大阪夏の陣、冬の陣で徳川に滅ぼされる事は自明の理でありながら戦い続けた武者達も敗北の美学を求めて大阪城に参集したのではあるかいまいか。
真田幸村、木村重成、後藤基次、明石全登、塙団右衛門・・将も一兵卒も。
彼らは死に場所を求めてやって来た。
敗北する事は承知の上で。

同じ敗軍の将であっても土方の方と彼らとでは圧倒的な違いがある。
大阪の陣で死に場所を求めて来た武者達には少なくとも自らの御大将が大阪城には居たのである。先陣に立ってはくれないが、降参をしたわけではない。

それに引きかえて、土方の場合はどうだ。
御大将であるはずの慶喜はとんずらのあとの江戸城無血開城、謹慎という名の隠遁生活状態。
五稜郭での御大将である榎本は降参の仕方ばかりを考えている。
その中で会津の残兵や新撰組の残兵を率いた土方の目的とはなんだったんだ。
一体誰のために戦っていたのか。
土方は近藤勇を局長に戴くサブリーダーのはず。ところが自ら軍を率いさせたら近藤の比では無い。
同じ幕末の軍略家としての天才大村益次郎の様な軍略のみの人でもない。
同じ戊辰戦争の負け組みの中で、先の見えた天才河井継之助の様に最新兵器に頼った訳でもない。
軍略家であり、智略、胆力があり、勇猛さ有り、才気溢れ、現場指揮官として常に最前線で戦ったのが土方。ただその目的だけが破滅的でありだからこそ美しい。
それこそが自分の抱く土方のイメージ。

『壬生義士伝』で浅田次郎は吉村寛一郎という無名の新鮮組剣士にスポットを当て、主君へ忠を立てる以外の武士道を描いた。

この『輪違屋糸里』ではあの悪名高き芹沢鴨にスポットを当てている。
芹沢鴨とは新撰組がまだ浪士隊であった時からの筆頭局長である。
清河八郎が結成した浪士隊は将軍上洛の際の護衛がそもそも名目上の結成目的。
清河八郎がその浪士隊の本来の結成目的は尊王攘夷の先鋒にあたる事だ、と演説をぶった時に真っ先に反駁したのがこの芹沢鴨。それに追随したのが近藤、土方らの試衛館組。

そういう意味では芹沢鴨という男、一本筋の通った男なのかもしれないが、商家への押し入り、商家の焼き討ち、大阪で相撲取りへ切りかかり、島原では太夫を切り捨てる。島原では太夫という存在、正五位の位を持つのだという。大名級の存在である。
傍若無人も甚だしい。
しかも酒を飲めば酒乱となり誰も手がつけられない。
新撰組が「壬生浪」と京スズメから軽視・蔑視されていたのもこの乱暴狼藉し放題の芹沢鴨の存在故ではないかと思われる様なふるまいで知られる人だ。

この芹沢鴨をして侍の中の侍。男の中の男として語られる。
呉服商の妾(この本ではおかみ)で芹沢に手篭めにされたお梅の言葉を借りて。
また壬生浪士に住まいを提供している八木家、前川家のおかみさんの言葉を借りて。
また、近藤と芹沢の間を取り持ったような関係の永倉新八の言葉を借りて。
芹沢こそが尊皇攘夷思想の権化であり、本物の武士、本物の尽忠報国の士だと。
商家への押し入りにも、商家の焼き討ちも、全ては意味があったのだ、とその解説がなされて行く。
さすがは浅田次郎。その視点、見事。説得力もある。

それでもさすがにその話なかりは鵜呑みには出来ない。
芹沢が尽忠報国の士だったとしよう。生まれも育ちも確かに武士かもしれない。
しかし、本当に何かを成そうとしていた人間だったのだろうか。
酒浸りで、暴れまくるのも単なる芝居だったと言うのだろうか。
芹沢鴨という人。先が見えない、というよりも先の事など一切考えない人だった様な気がする。上では土方を敗北の美と書きながらおかしいかもしれないが、芹沢は破滅型の人。そんな事をしていたらいつか誰かに刺されるか、ろくな死に方はしない、おおそれで結構じゃねーか。どうせ一回こっきりの人生よ。酒飲んで好きな事して暴れまくって死んでやろうじゃねぇか。という破滅型の確信犯的な人の様に思えてならない。

この幕末の先が見えない時代、そんな人は多かったのではなかろうか。
たまたま剣に覚えがあってしかも浪士隊という寄せ集め軍団の長であるが故に余計にやる事が派手になってしまった破滅男。
それが自分の持つ芹沢鴨のイメージである。

それに芹沢鴨を持ち上げれば持ち上げるほどに芹沢を討つという絵図を書いた土方の悪役ぶりが目立ってしまう。

この話、女の視点から描いた新撰組の話であり、島原という京で一番(という事は日本で一番)由緒のある花街の舞台から見た新撰組の話であり、もう一つは百姓と武士という構図から描いた新撰組の話である。

確かに土方は策謀家なのでやり方そのものには構わないところはあるだろう。
だがそれが百姓の戦い方だとでも言うのだろうか。
子供の頃ならともかくも成人した後の土方や近藤が武士になりてえ。侍になりてえ。などと言っていたなどとはとても思えない。
この本のでも中に土方に上野の松坂屋へ奉公に出た時の事を語らせる場面がある。
店の者からは「百姓はやっぱ百姓だの」「このどん百姓め」と罵声を浴びせられ、士農工商はお題目。百姓は商人より下だと感じた事になっている。
それだけ百姓と呼ばれる事に負い目を感じていたとう設定。

だが土方がその奉公を辞めたのは、すぐに先が見えてしまったからのはず。丁稚から手代になるまで何年、番頭になるまでは・・と。

江戸時代も初期なら戦国の気風も残っていただろうが、江戸時代の安楽も二百数十年も続けば、腐るものはかなり腐ってきていてもおかしくはない。
問題さえ起さなければ、その地位が代々保障されるのが武士という階級だっただろう。
現代のお役人、いやサラリーマンにだってそういう側面はある、そういう事なかれ主義の発端は江戸時代に培われたのかもしれない。
それも武士という社会によって。

上には従順。下には偉ぶるだけで、問題解決能力のない武士という連中に土方ほどのものがいつまでも「なりてえ」「なりてえ」などと言っているわけがない。
土方は階級としての武士にあこがれたのではなく、自ら信ずるところの武士道を守り抜いた男だろう。

浅田次郎の本の中で嫌いな本は一冊も無い。この本にしても土方への見方が違うという点はあるが嫌いではない。

『輪違屋糸里』という作品、そのタイトルからして『天切り松闇物語』の中で松が闇語りする姉の話を連想してしまう。
子供の頃、ろくでなしの父親が姉を遊郭へ売っぱらい、姉はその遊郭で若くして死んでしまう様なせつなく悲しい話である。
もちろんこの話にも花街の女としての悲しい話は出てくるが主人公の糸里という天神は芯の強い人である。
状況を哀しむだけの人ではない。

尊皇攘夷だ、尽忠報国だ、となんだかんだと偉そうにしている男達の大半は若くして幕末の時代に命を落として行き、残りの大半も明治になってすぐに命を落として行く。

明治の日本の発展を謳歌したのは幕末を闊歩した男達ではなく、女達と百姓達だった。
この本の中では土方より芹沢が武士だと言う設定の永倉新八が大正時代まで生き抜いたというのはなんとも皮肉だが、永倉新八が生き残った後に建てたの芹沢鴨などではなく、土方歳三の墓を建てたということを最後に記しておこう。

輪違屋糸里 (上・下) 浅田次郎(著)



椿山課長の七日間


死後の世界については古今東西、いろんな人がいろんな事を本に書いたり諸説さまざま。その信ずるところの宗教によっても民族によってもそれぞれの説があるのでしょう。
「人が人を殺して何故いけないの?」と子供達に問いかけられた時、多くの大人はて明解な説得力を持って答えることができない。さしずめ「いけないものはいけないの!」ってなところではないでしょうか。
昔から死後の世界には「地獄」と「天国」の二つがあるなどと言うのは案外「いけないものはいけない」事を納得させる方便なのかもしれません。
「人を殺すと死んだ後に地獄へ落ちるのだよ」などという様に。
「地獄界」と「天界」、それじゃあまりにも両極端だろう、という事で冥界(正しくは冥土なのか?)なるものが出来たのかもしれません。
いずれにせよ、誰しも死した後に書き残したわけではないでしょうから、諸説さまざまあって良いのでしょう。
もちろん中には臨死体験を元に書いた・・などというものもあるでしょうが、それすらさほどの説得力があるものでもないでしょう。

ならば「椿山課長の七日間」で描かれるお役所そのままの死後の世界があってもおかしくはないでしょう。
この本の主題は死後の世界を描く事ではないのでしょうが、このストーリーの最初の見せ場はなんと言ってもこの椿山課長の体験する死後の世界でしょう。

この死後の世界はずいぶんとなまやさしい世界でまたユニークなのです。
さしづめ仏教の世界なら、三途の川を渡った先で生前の行為が五戒に基づいて裁かれ、審査され次の行き先が決めらるといったところなのでしょうが、生前の行為を五戒に基づいて審査されるのはこの本の世界でも同じ。
ちなみに五戒とは殺生、盗み、邪淫、嘘、飲酒らしいのですが飲酒運転じゃあるまいに酒を飲む事まで悪事にカウントされてしまうのでしょうか。
じゃぁ忘年会に出席するサラリーマンはほぼ全員カウント対象じゃないか、などという感想は横道にはずれていますね。
仏教ではそのずいぶんと厳しい審査結果で地獄や餓鬼の世界や修羅の世界やらと行き先が決るのでしょうが、この本の世界の冥界では審査結果でそれぞれの講習を受けに講習室へ入るのです。
その講習を受けた後に反省ボタンを押す事で現世の罪は免除され、無事に皆さん極楽往生。天界へ行けるというのです。
まるで交通違反の免停講習みたいじゃないですか。30日免停でも一日講習を受ければ29日短縮されるみたいな・・。
そういう審査やら講習やらの事務手続きを行うのが「中陰役所」と呼ばれるところで、その呼称も現代風にスピリッツ・アライバル・センター略してSAC。
その審査結果に不服があれば再審査の手続きを踏むことができる。

主人公の椿山課長はデパート勤めのひたすらクソ真面目に仕事一本で生きてきた人。
正月を返上してでも仕事をするぐらいの仕事人間。
バーゲンセールで過酷な売上ノルマを課せられ、最も多忙なセールの初日に脳溢血で倒れてしまう。癌の告知を受けたり、病院で長患いをしていたり、という状態とは違う。何の心構えもないままにあの世へ来てしまった。
現世に思い残す事は山の様にあり、どうしてもそのまま往生してしまうわけには行かない。
それにあろうことか審査結果では邪淫の罪の講習を受けろと言われる。46歳になるまで不義はもちろん不正を働くような人間ではない。
とはいえ反省ボタン一つで極楽往生なのに元来目先を優先して黒いものを白いとは決して言えない、上司へのへつらいも出来ないクソが付くほどの頑固もの。
SACのお役所仕事的な決定が気に入らない。当然不服申し立てをして再審査を要求する。
再審査もあっけらかんとしたもので、審査らしき事が特にが行われるわけではない。お役所は面倒なことが嫌いなのだ。
再審査によりリライフ・メイキング・ルーム(略称RMR)と呼ばれる所へ行き、現世への逆送手続きが行われる。
逆送期間は初七日まで。と言っても逆送されるまでに既に4日間も経っているので実際には3日間だけ。
逆送後の容姿は現世時代とは最も対照的な姿となる。
息子いわく「ハゲでデブ」だそうだから、椿山課長のもらった容姿は・・・ご想像におまかせしましょう。
と、ここまでは本題のほんの入り口。ここまで書いても未読の方のおじゃまにはならないでしょう。
ここまではまだまだ笑える本なのです。
この先は涙腺の弱い人ならボロボロと大粒の涙を流しながら読むことになるでしょう。
本の最後に行きついたら、その流した涙は洗面器一杯ぐらいになっているかもしれませんよ。

現世へ戻ると行っても元の姿と似ても似つかない赤の他人の状態では、警戒されてしまってなかなか身内ですらまともに話も出来ないでしょうし、遣り残したことをするなんていうのは至難の業でしょう。いっそのことゴーストになって返った方がやりやすいかもしれない。
しかも、逆送にあたっては三つの守りごとがある。
「復讐をしてはならない」
「自分の正体を明かしてはならない」
「時間厳守」
これを破ると「コワイコトになる」。つまり地獄へ落ちるということなのでしょう。
仏教の場合、最も重い罪は殺生なのでしょうが、この話の冥界では殺生よりもこのお役所との約束事を破ったことの方が罪は重いのですね。
この逆送にはお連れさんが二人ほど居ます。
一人はヤクザの親分さん。
一人はまだ小学校2年生の男の子。
それぞれこのストーリーの中では大事な役回りです。

現世へ返る事で、知らなくても良かった事も知ってしまいますが、逆に知る事の無かった身近な人の愛情や苦悩を知ります。
老人ボケで老人ホームに入所している父親の愛情と苦悩を知り、息子の愛情や苦悩を知り、自分のことを本当に愛してくれた人のことを知ります。
そしてここでいう邪淫、おのれの欲望の満たす目的でどれだけ相手を傷つけたか、相手の真心を利用したか、というの邪淫の本来の定義を知る事になるのです。
高卒で入社して以来、とにかく身を粉にして働くことが正義だと思っていた椿山課長は、死して本当の粉になって初めてもっと大切な事を知るのです。
そして人間の本当の強さや男の中の男の生き様をあらためて目の当たりににするのです。
もうこれを書いているだけでもストーリーを思い出してもう目の前は涙でぐちゃぐちゃ、って言うのはウソ。ちょっと大袈裟すぎました。
詳しくは語りませんが、でも、そういう本なのです。

椿山課長の七日間 浅田次郎著



沙高樓綺譚


うーん。うならされてしまいました。

さしづめ料理でいえば、通常は前菜があって、スープがあって、オードブルがあってサラダがあって、デザートでしめくくる、って言うところなのでしょうが、今回の五品、全部オードブル。しかも量は多すぎず、五品を食して丁度腹満杯、といったところでしょうか。

さすが名シェフ!とうならされてしまいました。

最初はなんだか博物館の刀剣の鑑定話から始まってなんのこっちゃ、と思ったのもつかの間。

「沙高樓」という高層ビルの最上階に造られた空中庭園とラウンジという奇妙な場所が登場した途端、お、いよいよ浅田名シェフの登場だな!
とその思いそのままに期待を裏切らないところが名シェフの腕前なのです。

沙高樓とは各界で名をなし功をあげた名士たちの集い。
そこでは一人一人が自らの秘密の打ち明け話をするのですが、語られた事は決して他言することのできないという掟があります。

「お話になられる方は、誇張や飾りを申されますな。お聞きになった方は、夢にも他言なさいますな。あるべきようを語り、巌のように胸に蔵うことが、この会合の掟なのです」
と、沙高樓の主人である女装のマダムがの講釈からそれぞれの一品は始まります。

◆「小鍛冶」
刀剣の鑑定にまつわる話。
足利将軍家より刀剣の鑑定の家元として召し抱えられてから600年34代日本の刀剣鑑定界の首座を維持している徳阿弥家。
その徳阿弥家を継いだ34代目が語ります。

宗家である鎌倉徳阿弥家、その分家である麻布一の橋家、京都西の桐院家、大阪谷町家の四家が年に四度集り、総見という鑑定を行う。
その鑑定で認められた刀剣には「折紙」というものがつき、「折紙つきの何がし・・」という言葉もこの家のしきたりが発端なのだと言う。

その四家の名鑑定をして、これぞまさしくと「折紙」をつけるに相応しい刀剣がこの現代に作られていた・・・。

江戸時代の書家で工芸家でもあり画家でもあった総合芸術家とも言われた本阿弥光悦の本阿弥家も元はと言えば足利将軍家の刀剣鑑定の家だった。
モデルはそこだったのかもしれません。

◆「糸電話」
精神科医の先生が登場。
上流階級の子弟だけが入学する小学校。
サラリーマンの初任給ほどの月謝を
とはいえ没落していく家も当然ながら存在し、没落した家の子は公立へ転校して行く。
仲の良かった同級生の女の子もその一人だった。
人生、偶然の再会というものはままあるものなのですが、逆に言えばそうそうあるものでもありません。
ですがその女の子とはその後、何度も何度も偶然の再会をしてしまう・・という奇妙なお話です。

◆「立花新兵衛只今罷越候」(罷越候:まかりこしそうろう)
浅田シェフの最もお得意の素材の料理といったところでしょうか。
新撰組が名をあげた池田屋事件。
京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて孝明天皇を長州へ連れ去ろうと言ういわゆる尊皇攘夷派のクーデターを実行直前に新撰組が嗅ぎつけ、それを単独で阻止したのがこの事件。
それを戦後間もない時期に映画化しようというそのカメラマンが語り手。
池田屋のセットは実物そっくりに作り上げられ、天井板一枚すらおろそかにしない完璧なセット。
そこへ現れるのが肥前大村藩士、立花新兵衛と名乗るエキストラにしてはやけに時代がかった男。
この話はこれ以上ここで語ってはいけませんね。
読む楽しみが無くなるというものです。

◆「百年の庭」
明治の元勲の一人が作らせたという軽井沢の紫香山荘という世界一美しい庭園。
その庭園を親の代から庭師として世話をする老女。
庭園のオーナーは世代代わりをするが、彼女は生涯を庭園とともに過ごす。
その現オーナーがガーデニングの女王と呼ばれる女性。
この話、ちょっと怖いです。

◆「雨の夜の刺客」
三千人の子分を抱える大親分。
その大親分も元はと言えば集団就職で上京して来た口。
それからヤクザの三ン下になってからのある事件の真相を語ります。
その事件に触れると読む楽しみが無くなるというものです。
とにかく序列の厳しい世界。
常盆の時に三ン下は外での見張り役。その上は下足番。で、その上は中番という接待役。さらに上が客の接待をする助出方(じょでかた)、さらにディーラー役の中盆、そして堵場を仕切るのが代貸・・・。
そんな語りといい、コルト・ガバメントはヒットマンには向いていても親分のボディーガードには小口径のリボルバーが向いている・・・。
などと言う超専門的な語りは、やはりこの料理素材も浅田シェフのお得意素材の一つだからなのでしょうか。

いくら沙高樓のマダムが「夢にも他言なさいますな」「それが掟なのです」と念を押したってこれだけの話を聞いてしまってそれを黙っていろ、というのは酷な気がします。

また、「糸電話」の様に打ち明け話的な要素のあるものや、「立花新兵衛只今罷越候」みたいな聞く人はどう受け取っても構わないが・・という様な話であれば話し手も語ってしまうかもしれませんが、「小鍛冶」といい「雨の夜の刺客」といい、絶対に語られる事などはありえないだろう。おそらく語り手は本来なら墓場まで本人の胸の内に秘めたままにしておくのだろうな、という様な話もあります。

浅田シェフのお得意の分野だろうと思われる素材もあれば、おそらく初めて手がけたのではないかと思われる素材もあります。

刀剣などはどれだけご勉強されたのでしょうね。

庭園についてだってそうです。
それにどれもこれも一つ一つの言葉に重みがあるのです。
到底、少々学んだ、人から話を聞いた、というレベルではないように思えます。
そこには浅田シェフの思いが乗っかっているのです。

一体このシェフ、いくつ引き出しを持っているのでしょうね。

沙高樓綺譚 (さこうろうきだん) 浅田次郎 著