カテゴリー: 伊坂幸太郎



グラスホッパー


その男の前に居るだけで暗い闇の中にいる様な気分になる。
その男を前にすると誰もが絶望的な気分になる。
どれだけ図太い人間でもその男を前にすると自分の中に抱えている罪悪や無力感が増長し、あぁ、死んだらどれだけ楽なんだろう、と、目の前に居る人間を自殺に追いやる、という特殊能力を持った「自殺屋」。
もちろん、自殺に追い込むのが仕事なので、自ら暗闇に入っていかない人間には、生き残った場合、家族の住む家が全焼したり・・などと言う例をあげてでも自殺に追い込むという非常に奇矯な商売。
天性の能力無くしては絶対に成り立たない。

この話、いろんな種類の殺し屋が登場します。
「自殺屋」の次には「押し屋」。
車の通りの多い交差点や電車待ちの混み合ったホームで後ろからチョンと押して道路へ飛び出したところを車が轢く。電車に撥ねられる。
それを商売している。

「鯨」と呼ばれる自殺屋、押し屋、一般的なナイフを持っての殺し屋、ここでは「蝉」という名を持って登場します。
また劇団という人達。

ある企業の会社社長のアホ息子のお遊びがてらで愛する妻を車で轢かれた男がその復讐のためにその会社の契約社員となる。
その男が「鈴木」

その「鈴木」「鯨」「蝉」各々が主人公となったストーリーが交互に登場します。

いつもの伊坂作品なら最初はバラバラの主人公がだんだんと結びついて行く展開なのですが、今回はちょっと違う。
「押し屋」というキーワードで繋がっている。
そしてこの物語の主要関係者が全員、品川のあるビルへ向かう。
そこで何が起きるかは読んでのお楽しみでしょう。

そもそも押し屋っていう商売、って皆さんどう思われます?
交差点で押して交通事故になる確率は高いでしょうが、事故死する確率は必ずしも高いとは言えないでしょう。
それに必ずしも道路の真ん前に立っているとは限らない。
駅のホームでも真ん前を敢えて避ける人もいるぐらいですし。
もちろん、それを可能にするからこそのプロなのでしょうが、請け負い仕事としてはかなり無理を承知の上の仕事という事なのでしょうか。
大阪の阪急電車に淡路駅という駅があります。
淡路駅周辺はさほどの繁華街でもないのですが、阪急京都線、北千里線、地下鉄堺筋線・・と交差する駅でしかも急行停車駅(当時は今は特急も停車します)、沿線乗り換え乗客と急行・各駅乗り換え数は阪急沿線では十三か淡路と言われるほどに多い駅だったと思います。
私が小学生だった頃の話なのですが、丁度サラリーマンの帰る時間帯でしょうか。
その混雑する淡路駅で私の父親が特急電車の通過直前にホームへ転落しまして、通常ならば、特急電車に引き摺られて見るも無残な死を遂げたのでありましょうが、なんとまぁ運動神経オンチが幸いしたのか、そのまま線路のど真ん中で後頭部を打ってそのまま失神。おかげで、後頭部打撲だけで他は一切無傷、という奇跡的な事がありまして、当時の大阪三面記事の片隅にも載ったほどで御座います。
父親は酒はたしなむ方でしたが、ホームから転落するほどの酩酊をした姿は家族の誰も見た事が無く、小学生ながら何者かに押されたのではないか、とひそかに思っていたのであります。
いずれにしろ押し屋の場合は偶然性を伴うので、プロの殺し屋としては成り立ちにくいとのではないでしょうか。
人から仕事として依頼されて、ではなかなか成り立ちにくいでしょう。
丁度、思い立った時に偶然そういう場所に居て、というならわかりますが、それはプロ仕事とは言えない。
シロウトの衝動でしょう。

それに比べて自殺屋というのはどうなのでしょう。
世の中、代議士の代わりに秘書が自殺したり、などと言う事はまま発生しています。
それだけ考えれば有ってもおかしくは無い。
でもその男を前にした人間が皆、自己嫌悪に陥って自殺願望になるのであれば、その自殺屋が自殺に追いやったのは三十数名どころじゃないでしょう。
電車で出会った人だって、その後飛び込んでるかもしれないし、乗り合わせたタクシーの運転手だって、自ら赤信号の交差点に飛び込んでいるかもわからない。

などと思いつつ読んでいたりしたわけですが、作品そのものを否定しているわけではもちろんありません。
そんな稼業があるわけがないなどと思う反面、数ヶ月前の、またまた数年前のあの事件、やあの事件・・・などといろいろと考え出すとひょっとしたらとそんな仕事人稼業と言うのが実在しているのかもしれない、などと思わせられてしまうのです。

とにかく当時人物の個性の豊かさはいいですね。
「ジャック・クリスピン」という実在するのかどうかわからないシンガーの言葉でしか物事を語れない岩西という男。
押し屋の槿(あさがおと読む)の個性も興味深い。
ぼんくら息子に轢かれて死んだ鈴木の妻の個性も個性もいいですね。彼女の個性が鈴木に行動を起させています。

それでもなんと言っても「鯨」に一番興味をひかれますね。
図太い人間を自殺に追い込むほど相手を絶望させる様な男でありながら「罪と罰」を愛読書として持ち歩き、自殺に追い込んだ人間の亡霊の幻覚に悩まされるという図太さとは逆の繊細な面を持つ。
いやあまり書かないでおきましょう。

「グラスホッパー」というのはバッタの事。
本の中ではの槿が語ります。
バッタが群集すると群集相というバッタになる。
密集して暮らしていくと種類が変わる。黒くなり、飛翔力が高くなり、慌しくなり、凶暴になる。人間も一緒だ、と。

都会の人間は群集相、という事なのでしょう。

グラスホッパー 伊坂幸太郎 (著)



チルドレン


んん?短編か?と思いきや少し成長した同じ登場人物が出てきたり、また世代が戻ったり。
実際には短編なんですが、話は続いている。そんな感じですかね。

『バンク』、『チルドレン』、『レトリーバ』、『チルドレンⅡ』、『バンク』、『イン』の5作。

それぞれにちゃんと、なんだそういう事だったの?という意外性を作っているところはさすが、というべきか。
ミステリものでは無いにしろミステリものっぽさはみたいな最後の意外性はもう伊坂さんのスタイルになっているのかもしれませんね。

登場人物は何人もいますが、この一連の話の中で、最も個性的且つ魅力的なのが陣内という青年。

そして全盲の青年永瀬。この人も魅力的な人です。

その永瀬の彼女が盲導犬のラブラドールレトリーバのベスという犬に嫉妬しているところなども微笑ましい。

『バンク』では主人公たち(陣内、鴨居)はまだ大学生。閉店時間間際でシャッター閉まりかけの銀行にギリギリ滑り込んで、銀行強盗に遭遇してしまう。
そこで同じ人質仲間として全盲の永瀬と出会い、永瀬が犯人達について名推理をする。

これは途中で推理結果は読めてしまいましたが、犯人の存在を気にもとめず、陣内がいきなりビートルズの「ヘイ・ジュード」を歌いだすあたり、陣内の訳のわからない性格を良く表しています。

その歌のおかげで人質になって泣き出したご婦人も泣き止みましたし。

『チルドレン』、『チルドレンⅡ』では主人公達は社会人に。

陣内は何を血迷ったか家庭裁判所の少年事件担当の調査官になっています。
これがまさに嵌っているからおもしろい。

「適当でいいんだよ。適当で。人の人生にそこまで責任持てるかよ」

と口では言いながらも、後輩の調査官にしてみれば一番頼りがいのある調査官。
陣内が担当する事例というよりも後輩の担当事件に口を突っ込む話ばかりなのですが・・。
公衆便所の落書きばかりを集めて書いた本を少年に読ませる事を薦めてみたり、後輩にすれば訳の分からないアドバイスをもらうわけですが何故か全て的を得たグッドアドバイズになってしまっています。

破天荒で言いたい放題で、またその言い方が断定的で・・という陣内以外は皆、まとも・・・と言いながらも案外一番まともなのが陣内なのかもしれません。
まともという表現が妥当で無ければ真っ正直とでも言い替えましょうか。

永瀬は目が見えない。
かつて曽野綾子さんが書いていたのを思い出します。
目が見えなくなってしまう事への恐怖。
いきなり真っ暗闇の世界になってしまう事がどれだけ恐ろしいかを。
でも永瀬は生まれた時から目が見えない。
だから見えないのが当たり前。
また、その当たり前を何でもない当たり前として捉えている陣内という男は清々しい。

この変則連続短編5編の中でのピカ一はなんと言っても『チルドレンⅡ』でしょう。
多くは語りません。

子供からは、かっこ悪いと思われているが、本当はめちゃめちゃかっこいい世の中のお父さん達へ、
丁度明日は父の日ですね。
「ハイこれ子供達からよ」
などと言われて奥さんが買ったベルトなんかを形ばかりの感謝のプレゼントとしてもらって、これっぽっちも感謝などされていない世の中のかっこいいお父さん達、
この一編を読んでみて下さい。
たぶん、あなたの目はウルウルになりますよ。

チルドレン  伊坂 幸太郎 (著)



アヒルと鴨のコインロッカー


現在の語り部は大学に入学したばかりの平凡な僕。
引越しをして来たばかりの僕は隣人に挨拶をしていきなり本屋を襲撃しようと誘われる。
この物語にはもう一人の語り部が居る。
時期は現在の僕から遡ること2年前。
語り部はペット殺しの三人組につけねらわれる女性の「わたし」。
単にペット殺しと言ってもその残虐さになぶり殺しにしてしまう凶悪な連中。

現在と2年前の物語が交互に登場するスタイルです。
章が変わる毎にまるでコマーシャルで中断されてしまったドラマか映画の様にその続きが読みたくなり、結局途中で読む事をやめられなくなってしまう。そんな小説でした。

物語の主役は2年前のわたし=琴美と河崎とブータンからの留学生ドルジ。

ブータンというと大乗仏教のお国。
「人を思いやるという事を大切にする」のはどんな宗教でも一番の主眼に置いている事でしょうが、それが来世の自分自分の幸せにつながるというのが大乗仏教だったでしょうか。
ですからブータン人のドルジにとっては人が死ぬ事も悲しい事では無いはずなのですが、もの覚えの良いドルジが日本人に感化されるのは早かった様です。

ドゥックユル(雷龍の国)、ブータン。
ドルジはブータンから日本に留学に来ましたが、ブータンにとって日本から来て学ぶ事など本当にあったのでしょうか。
ブータン、パキスタン、カラコルムの僻地へ行った時にも感じましたが、集落の佇まいやその生き方は自然とともに有り、おそらく何百年何千年も前からこんな暮らしをしていたのだろうなぁ、という近代化を否定した様な豊かな生活。

現在と2年前の二つの物語はもちろん繋がっていてだんだんとその繋がりが正体を表す。
そのあたりは『ラッシュライフ』が複数の話がどこで繋がるのかさっぱり分からなかったのとは少し違って、つながるべくして繋がった、というところでしょうか。

そして主人公であるはずの僕は主人公でもなんでも無く、この物語の中ではほんの脇役でしかなかった事に自分の存在に気がつく。
ボブディランの「風に吹かれて」でが無ければつながっていさえしなかったかもしれません。
皆、人生自分が主役だと思って生きているのに語り部でありながら、主人公達のお話の最後の最後のしめくくりのしかも脇役でしかすぎなかったぼくの存在がなんとなく哀れにも思えますが、まぁ人生そんなものでしょう。

さてこの『アヒルと鴨のコインロッカー』が映画化されてこの5月12日から仙台では全国に先駆けて公開されているはずです。
全国展開は6月以降からとか。

この物語、本で読めばこそのどんでん返しがあるのですが、映画化されるとそこがどうなってしまうのかが少し気になります。
そのあたりを映画化にあたってどういう工夫をしたのか、この映画を観る時の楽しみでもあります。

では皆さんここまで読んでくださって「カディン・チェ」。
(ゾンカ語=ブータンの国語です「ありがとう」の意)

あ、そうそうこの文章UPする時にはボブディランの「風に吹かれて」をバックミュージックにいれておいてくださいね。How many roads must a man walk down・・・・

えっ、著作権の問題で無理?しかたが無いなぁ「ラ・ソー」。
(「ラ・ソー」はゾンカ語で 「ほな、サイナラ」の意)

アヒルと鴨のコインロッカー  伊坂 幸太郎 (著)