カテゴリー: 西尾 維新



DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件


DEATH NOTEのノベライズもので、西尾維新がどんな切り口でDEATH NOTEを切って来るのか、楽しみでした。
この本にはデスノートというノートは出て来ません。
主人公は DEATH NOTE の本編では脇の脇役にすぎなかった美空ナオミ、とL。
内容は、デスノートがこの下界へ現れるより以前に発生した「ロサンゼルスBB連続殺人事件」。
デスノートとは全く関係の無い、Lとワイミーズハウスの物語と言ってもいいでしょう。

キラに関しては
「単なる恐怖政治を敷こうとした殺人鬼」
「馬鹿馬鹿しいほど幼稚極まりない」
と切って捨てただけでまるで相手にしていない。
賢いヤツほど自らの力を隠すのが当たり前なのに、キラはそういう力がある事を公開する自己顕示欲の塊で、ノベライズに値しないほどあわれなヤツと言うわけです。
ほどんど同感ですね。
私こそが新世界の神だ、と言うあたりはもう壊れちゃったのかな、とも思いますよね。
それに、ひっそりと悪人の名前だけ書いていればまだしも、自分を捕まえようとする人間まで殺そうとして、どんどん捜査の輪を自ら狭めてしまうという愚かさ。

また、人が人を殺害する、という事は大変な事なんだ。人はそう簡単に死なない。
それをノートに名前を書くだけで行ってしまうという事がいかにルール違反か・・・。
という記述には殺人に対するルール違反の裏に推理物を書く人間にとってのルール違反、「つまり人が人を殺害するについていかに綿密な計画作りをし、根拠付けをし、どうやったらそんな事が出来るの?というところを最後に種明かしして行く、逆に言えばそれだけ緻密に考え抜いた結果である、というのに、それをたったノートに一行名前を書くだけでというのは書く立場からもルール違反」と作者は言いたいのかもしれません。
実際にこの「ロサンゼルスBB連続殺人事件」は実に緻密な組み立てがなされています。
『クビキリサイクル』という見事な推理もので世に出て来た西尾氏ならではの作品だと思います。

あと、「本当の名前」というものへの問いかけもあったのではないかと考えるのは考えすぎでしょうか。
デスノートへ書く名前は偽名ではいけない。という決まりがありますが、本当の名前とは一体なんなんでしょう。Lはあるときにはエラルド・コイル、ある時にはドヌーヴ、ある時には・・・と探偵の名前を使い分け、それはエル・ローライトという名前よりもよほど名前として通っていた人なのですよね。
本当の名前とはいったい何か。
戸籍上の名前?
つい先日、20歳になるまで戸籍を取得していなかった男が逮捕された。
彼には書かれる名前が無いのか?
また世界には戸籍登録されていない人なども大勢存在するでしょう。
彼らには書かれる名前は無い?
名前とはその名前を聞いてその人を特定出来るもの。秀吉は木下藤吉郎か羽柴秀吉か豊臣秀吉か、どれもその時々で全部正式な彼の名前でしょう。
ではLはどうでしょうか。世界の大半の難事件を片づけたとされるL。
この時点ではLと名乗っている以上、Lが本当の名前では何故いけないのでしょうか。
別にコミック相手に熱くなっているわけではありません。
このノベライズはノートに書いただけで殺人を犯すという手段と同時に「本当の名前」を書くという行為、あたりも併せて指摘したかったのでは?
だからこそ、BBという「名前」というものに拘った殺人事件を描いたのではないでしょうか。
この作品は言うまでも無く推理小説です。しかもかなり緻密な。これを書く事で殺人事件というものはこういう緻密なものなんだよ、というお手本というより挑戦としてのノベライズ、ととらえるのは少々うがった見方でしょうか。
西尾氏自身が『DEATH NOTE』の一ファンだとどこかに書いていたのを記憶していますので、やはりうがちすぎですよね。

最後に死神の目(人を見るだけでその人の本当の名前と死ぬ日が見えてしまう目)を持ったBBには美空ナオミの死ぬ日はいつに見えていたのでしょうね。
言わずもがな、デスノートも死神の目も死神の道具。
デスノートで殺される日が見えていたなんてことがあったとしたら・・・

やめておきましょう。
Self-contradiction の世界に陥ってしまいます。

DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件  西尾 維新 (著)



×××HOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル


アニメが原作でテレビドラマ化、これ結構あるパターン。
原作小説をアニメ化、これも結構あるパターンでしょう。
原作アニメを出版。併行して同じ話を小説の単行本として出版する、というパターンもままあるパターンかもしれません。
この本の場合、原作は「xxx HOLiC」というコミック本です。
原作者はCLAMP CLAMPというのは女性4人の創作集団なのだそうです。

「アヤカシ」が見えてしまう高校生、四月一日(ワタヌキ)君と、どんな願いも叶える代わりにその人から同等の対価を貰う店の女主人壱原侑子(ユウコ)さんが主人公のお話。

四月一日はユウコさんの店で「アヤカシ」が見えない体にしてもらう為にその対価としてユウコさんの元でアルバイトをする。
炊事洗濯掃除の家事その他雑用一切。
特に炊事に関しては専業主婦も顔負け。
家に一人四月一日君が欲しいなぁ、と考えた人は私だけでは無いでしょう。

方やユウコさんは謎めいた雰囲気を持つ美女で
「この世に偶然は無い。あるのは必然だけ」が口ぐせのワガママで気紛れ、そして朝から晩まで酒を飲む大酒豪。
酒のあてやあれが食べたい、これが食べたいと事あるごとに四月一日をこき使う。

それをそのまま小説化するのではなく、同じ舞台、同じキャラクターを引き継いで、別仕立ての小説を起そうという試み。なかなか珍しい試みではないでしょうか。

「×××HOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル」なんと長ったらしいタイトルですね。

それに西尾維新というペンネームも凄まじい勢いを感じますね。
ローマ字で書くと前から読んでも Nisioisin 後ろから読んでも Nisioisin なのだそうです。

本の構成は、第一話アウターホリック、第二話アンダーホリック、第三話アフターホリックの三部作。

一話は完璧に原作を踏襲した類似の物語を一作。

二話は原作を踏襲しているのですが、少し塩味を聞かせている。携帯電話の文章入力を省力化した変換記憶機能を利用した話などは、アニメではちょっと表現しづらいでしょうから。

三話目は前二作とはちょっと違います。違うと言うよりもここが一番この作者の言いたかった事なのかもしれません。

ここでは化町婆娑羅という原作には無いキャラクターが登場します。
化町は自分にも「アヤカシ」が見えると言います。
そして四月一日に何故その才能を活かそうとしないのだ、と詰め寄ります。
ここらあたりから原作の「×××HOLiC」そのものを否定してしまいかねない話に繋がって行くのです。
「アヤカシ」が見えてしまう地獄から逃れるためにユウコさんの店で働く四月一日に対して、
「何故その解決を他人に委ねるのか」
「責任は自分で取るものだ」
「才能は捨てずに使いこなせ」
と詰め寄ります。

また化町は壱原侑子についても痛烈で、
「人間の心の弱さに付け込む、人間の心の弱さを食い物にする怪物だ」
と毒舌します。
「何かを得たら何かを失う。それが正当な対価」についても
「この世に等しいものなど無い」とばっさり。

化町は眼球地球論という自らの説を唱えて四月一日に語りかけます。
・眼に見えるという事は即ち眼球の中にある影が網膜に投影されているという事。
・実際に眼の前に何かがある訳ではなく、眼の中にあるものが見えている。
・「アヤカシ」が見えるという事は眼球の中にある物体が見えている。
・「アヤカシ」は四月一日の眼の中にいるのだと。
つまり今見えている風景はこの世界は眼球の中の風景だと言う理論なのです。
その理論で言えば、眼球のある数だけ、それぞれの世界があり、極論すると眼球はその中に世界を含んでいる、という事になるのだそうです。

逆説めいていますが、確かに網膜に投影された風景を人は見ています。また投影されたものを見て感じる事は人それぞれ千差万別でしょう。
しかしそれはあくまで現実を投影しているのに対する考えであってその眼球の中に世界があるなどと言う発想は聞いた事も無いですが、新鮮で面白いと思います。

四月一日にとっては、眼球地球論よりも化町の指摘したこの「×××HOLiC」の世界即ち
ユウコさんの世界に対する辛らつな指摘はかなり説得力があるものだったのではないでしょうか。

もちろん、四月一日がそれを肯定してしまえば、原作はぶち壊されてしまう事になるので、さすがに原作をノベライゼーションする、という立場からしてそういう結論には持っていけないでしょう。

第一、四月一日はこき使われている、と言いながらも現在のユウコさんとの関係に満足していると多くの読者は思っていると思います。
筆者はCLAMP先生と自ら書いているぐらいですから、原作を否定したり揶揄したりするつもりでは無いでしょう。
100円ショップを「小さな価値の集う店」などと言い換えてしまうあたりは原作の表現の仕方と似通ったものを感じますし。「小さな価値の集う店」っていいですね。今度から私も100円ショップをそう呼ぶ事にしようかな。

ですが、一読者にしてみると、これだけの強烈な指摘を受けてしまった四月一日は今後ユウコさんと同じ関係であり得るのだろうか、浴びせられた言葉が頭に残っていないはずがないのでは?とも思えてしまいます。

いずれにしても視力検査では上下左右の答えしかない「ランドルト環」も見方を変えれば違うものにも見えるのですよ、という事なのでしょう。
タイトルに付されているのもそういう意図かもしれません。

この西尾維新という人、もう一つの人気コミックである「DEATH NOTE」も小説家したそうです。

これはこれから読んでみますが、今度はどんな視点で「DEATH NOTE」を切ってくるのか、と楽しみです。

×××HOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル  西尾 維新 (著)