月別アーカイブ: 5月 2005



薔薇盗人


人生には貸借対照表があって、資産が多ければ多い分、負債も多いもんなんだよ。
なんてわかったような事を言ってくれる人がいるけれど、
この小品には負債しかないのではないか、という登場人物が表れる。
「奈落」これも負債ばかりの男の生き様、エレベータ事故で死ぬ事でその負債がチャラになった訳ではあるまい。
だが、私の中ではこの小品の中ではあまり好きな一品では無い。
なんと言っても「あじさい心中」が光っている。
この小品の中で感じさせる主人公のなんとも言えぬ男の優しさ。
場末温泉街のこの年増ストリッパーの人生の負債はどうなんだ。
見合う資産が有ったとでも言うのだろうか。
なんとももの悲しい。年増とはいえ、言葉の端はしに感じられる何とも切ないこの色気はなんなんだ。
誘われたら思わず心中付き合いをしてしまうかもしれない。
その前に私が相手では先方も心中なぞ、持ちかけまいが・・。

浅田さんという人はどういう人なんだろう。
「奈落」の中で死んで行く一流商社のサラリーマンでも無ければ、その同期の人事担当役員でも総務担当役員でもその社長でも会長でも無い。
この作品には登場していない。「死に賃」に登場する社長でも無い。
まさに「あじさい心中」の主人公であるリストラされたカメラマン。
その生き様がでは無い。思考回路がおそらく彼なのでは無いだろうか。
場末の年増ストリッパーの話を聞いて、感動するでも一緒に嘆くでも無く、素直に一緒に死んでやれる。
また、相手にそうさせたいと思わせる人物なのではないだろうか。
これはもちろん憶測でしかない。

なんせあまりにいろんな顔を持ちすぎている。
「鉄道員」を書いた彼はもちろん「ぽっぽ屋」では無いだろうし、
「天国までの百マイル」、これも優しい男なのだが、やはり筆者は登場していない様に思える。

そうかと思うと、「天きり松闇がたり」これはお薦め。内容はここでは語らない。
「歩兵の本領」これは自衛隊出身で無ければ絶対に書けないと思う。
この中にも筆者は登場していると思うが他の作品は他で書かれているだろうから
ここでは触れない。

薔薇盗人 浅田次郎 著



秘密


「秘密」、何故数ある東野圭吾の作品の中からこれを取り上げる事にしたのだろうか。
もっと新しいところであれば「トキオ」(講談社)、「幻夜」(集英社)
インパクトの大きかったところで言えば「白夜行」(集英社)、「悪意」(双葉社) あたりであろうか。
東野さんの作品は常に一気に読ませてくれる。
もう寝なければ・・と思いつつもやめるにやめられない。とうとう一気に読んでしまい、夜が白々と明けて来る、というのがいつものパターンである。
東野さんの作品の持ち味はなんと言ってもどんでん返し、そのあまりの妙にいつもあっと言わせられてしまう。
私の読後感では「白夜行」、「幻夜」は非常に良く似ている。
そんな安易な表現を使うと良く読まれるファンの方からお叱りを受けてしまいそうである。
方や少年時代の父親の殺人事件からスタートし、その謎に満ちた成長過程を描く作品と、方や阪神大震災の焼け野原からスタートする両者は設定からして全く異なる。
では、何が似通っていると思わせるか、というとやはり主人公たる女の存在、そしてその影として活躍する事になる影の男なのである。
その影になっている男の思考回路は異なるにしても、主役の女の思考回路は非常に良く似ている。
だからといってこの両作品が嫌いな訳ではない。
どちらかというと「白夜行」の主人公の女に対してはその生い立ちからしてもの悲しさを覚えてしまう。

「悪意」に至るやそのどんでん返しに次ぐどんでん返しは最高傑作と言っても過言では無い。

「トキオ」も読後感は良かった。過去に表れる未来の息子のなんとも言えない肉親としての優しさ。
だがこの作品に関しては読後しばらくした後にドラマ化されたのをたまたま見てしまった。
それでイメージがちとくずれて少々白けてしまった観がある。

「秘密」、実はこれを読んだのはだいぶん以前の事なのだ。
殺人事件や犯罪が発生する訳ではない。
もっとも有り得ない話ではあるはずなのだが、娘として生き返った妻とそれを妻として扱いながらも徐々に出て来るその年齢のギャップ。
妻と夫でありながら、妻の心は娘になって行く間の有り様、そのあたりの描きが見事である事は今更言うまでも無い。

何よりも面白いのは30代も半ばを過ぎた妻が娘の身体を借りて二度目の人生を生きようとしている姿。
人生にやり直しはきかないが、そのやり直しが出来る立場になったのである。
なんせ一度目に経験済みなのであるから、二度目の人生を一度目の繰り返しにしなかったのは、その後の人生に悔い有り、と言う事なのだろうか。
そのやり直しをする事に夫は反発を覚えるのを察し、妻は娘に戻ってしまうのだが、最後の最後にやはり東野氏ならではのどんでん返しが待っている。

この作品、広末涼子主演にて映画化された話を後になって聞いた。
残念ながら映画は観ていないのであるが、そのうち観てみようと思う。

三十路妻の感性と十代の女性をどう使い分けて演じたのか、是非とも観てみたいものである。

秘密 東野圭吾 著



壬生義士伝

拙者、歴史の師匠は司馬遼太郎と決めておる。
学生時代の歴史の教師などからは何も教わった覚えも無い。ましてや受験勉強の歴史なぞ、屁の屁だと思うておる。
その時代背景、その時に生きていた人間の有り様、そんな事をおかまい無しにしてXXが起こったのは西暦何年であるか、誰々はどんな名前の著書を書いたのか、XXXX年に勃発したのは何の乱であるか、そんなどうでもいい事を頭に詰め込んで何になると言うのだ。
XXの乱などと言うネーミングにしたって後世の人間が勝手に付けたものであろうが。
直近の事でさえ、覚えているものはいるまい。
田中角栄が政権をとったのは西暦何年?ロッキード事件で失脚したのは西暦何年?
大平首相誕生は何年?
それどころか、現役の小泉首相が政権をとったのは?
ほれ、誰も答えられるまいに。
拙者、ついこの間の事でさえ覚えておらぬわ。
せいぜい、京都議定書が発効したのは2005年の2月16日じゃ。
日韓ワールドカップが開催されたのは2002年の6月、いや5月じゃったかな。
せいぜいそこまでよ。
いやはや前置きが長くなってしもうた。
「壬生義士伝」、このタイトルからして新撰組を扱ったものである事は明らかである。
新撰組と言えば、まずは司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読まずして何が語れよう。
もちろん、司馬遼よりも前にも海音寺潮五郎の「新撰組血風録」の様な作品もあったが・・。
「壬生義士伝」というからしてこの「新撰組血風録」の様なイメージを抱いて購入して読んだのだ。
浅田次郎のものといえば「鉄道屋」を思い出してしまうのだが、世間一般ではどうもそうでも無いらしい。
んな事よりもこの作品を書いた浅田次郎という男、只者では無い。
この男の才能は計り知れない。
南部藩大阪蔵屋敷へ鳥羽伏見の戦いの戦に負けてよれよれになった吉村貫一郎なる新撰組隊士が現れるところからこの物語は始まる。
藩への帰藩を願い出る吉村に南部藩を取り仕切る大野次郎右衛門が切腹を命じる。
なんでオラが腹切らねばねーんだか、と続いていくあたりで、期待に反しての女々しい男の話であったか、と失望させ、おそらく血風録同様に短編を集めているのだな、と思いきやさにあらず。章が変わる毎に登場人物が変わり、後々の大正時代に吉村寛一郎の事を新撰組の生き残りに取材して語らせて行く。その章が進めば進むうちに吉村寛一郎なる人物が一旦は守銭奴の如く生きたくだらん男に見せかけておいて、徐々にそのベールを剥いで行く。実は剣を取ってはおそらく沖田、斎藤でも吉村を切れないであろうし、文武両道にて藩にいた頃は藩校の助教を勤め、「南部武士は岩を割って花を咲かせ」と教え子達に教える先生でもあった。
吉村寛一郎の魅力はその剣の強さ故では無い。また頭脳明晰と言う訳でも無い。寧ろ愚直なのである。
そこで貫かれる武士道は一般的に知られる武士道とは別個のものである。
殿様に仕える武士道とはほど遠く、愛する女房、子供に捧げる武士道。自分の主は秋田小町の女房なのだ。
いや、ここでそんな事をつらつらとは書くまい。
浅田の天才的な才能によって、この愚直で守銭奴の様に見せかけた男は章をすすめる内に誰しもがこんな素晴らしい男はいない、と言うところまで持ち上げられてしまう。今度はその素晴らしい男に切腹を命じた大野次郎右衛門が今度は悪者なのであるが、そのベールも徐々に剥がされて行き、吉村が帰藩を願い出た時に、「おまんの命と藩の行く末を天秤にかける訳にはいかんのじゃ」と言わしめておきながら、薩長になびかず、官軍に南部藩が弓を引く。その真相が最後の最後に大野が吉村の子供を預ける先の豪農へ書いた手紙の中で明らかになる。
南部一藩の行く末を吉村寛一郎の貫いた武士道と引きかえたのだ。
いやはや、そんな顛末を書いて何になる。
恥ずかしながら拙者、書評なるものを書いた事は過去に一度も無いのじゃ。

浅田は新撰組の有名幹部連中の有り様、個性も見事に独自の世界で書き上げている。
司馬遼太郎の「燃えよ剣」は誰しもが読んでいる事などまるでお見通しの様に、
司馬遼の世界からも徐々に自分の世界へと靡く様に仕上げられている。

土方に関しては、新撰組ものの読者には彼が戦略家で組織作りの天才で、という事はもちろん承知の上なので、そこを強調するよりも寧ろ薬売りをしていた頃の商才に目を付け、吉村に渡す金のやり取りにて商いをする人らしい一面を描き・・・沖田に関しては天才的な剣豪でありながら茶目っ気のある明るい男という事は誰でも知ってるでしょ、と言わんばかりである。寧ろ浅田から読む沖田は人を切る事を喜ぶ殺人鬼にすら思えてしまう。
司馬遼は近藤勇を現実主義の土方の対極で政治好きの愚物として描いた面があるが、
近藤勇に関しては迫力のある威風堂々とした大将である事を人の口伝てにしてちゃんと描いている。

斎藤一に対するスポットの当て方はもう最高である。
坂本龍馬を暗殺したのは実は斎藤一であった・・などは全く読ませてくれる。

この本が映画化されてしまった。
映画化されてまともに見れた試しはかつて無い。
配役を聞いて「うぅ!」とうなってしまった。
中井貴一?違うだろ。もっと背が高くなけりゃ。
しかしなかなかこの映画化、成功しているのである。原作に忠実にいろんな登場人物を配していたら失敗していたであろう。
回想させるのを、大野次郎右衛門の息子の大野千秋と斎藤一だけにしているのも成功している。
吉村寛一郎&斎藤一これを中心にしておくぐらいで丁度良い。
これ以上配してしまうと映画では焦点がぼけてしまうであろうから。
「一天万乗の天皇様に弓引くつもりはござらねども、拙者は義のために戦ばなり申さん」と言って両刀を抜いて駆け出すシーン。
中井貴一ではあったが、このシーンだけでも充分にこの映画は成功している。

壬生義士伝 浅田次郎 著