疾走


彼の兄は中学時代3年間学校で成績一番だった。

高校は県下でも指折りのおそらくトップの進学校へ進学した。

その弟である彼は中学に入学した時から教師達から常に優秀だった兄と比較された。

彼の兄は気が弱かった。彼が小学生時代には良く兄からよくいじめられた。

母親の留守中に兄が花瓶を割っても皿を割っても犯人はいつも彼だった。

彼の兄はその高校でもトップクラスの成績を維持し、現役での東大合格もほぼ間違い無しと太鼓判を押された。

ところが受験を直前にして彼の父からK大を受験する気は無いか、と言われた。

彼の兄は父の言う事はなんでも聞いた。

直前の志望校変更が失敗だったのか、彼の兄はK大の受験に失敗し、浪人した。

有名予備校に通い始めてから彼の兄の成績は模試の都度、落ちていった。

そして、次の受験ではK大の受験もあきらめてO大を受験した。

試験後、彼の兄は落ち込んでいたという。

合格発表を見に行かされたのは兄では無く、弟の彼だったという。

合格発表のボードに彼の兄の受験番号は無かった。

その日から彼の兄は壊れ始めた。

この物語の話では無い。読んでいるうちに高校時代に友人から聞いた内訳話を思い出してしまったのだ。

物語の主人公の兄、シュウイチは彼の兄とかぶり、主人公のシュウジは彼とかぶった。

壊れ始めた彼の兄はもう参考書を開ける事は無かった。

予備校へ通う事も無かった。

外へ出る事もめったに無く、夜と昼が逆転した。

そして手首にカッターナイフをあてる姿を何回も目にし、その都度彼はそれを阻止しなければならなかった。

ロープを手にし、自分の首に巻きつけ、力一杯にそれを引っ張る。

ロープが片付けられてしまうと、タオルをねじってロープ代わりにし、それで首を絞めた。

もうその頃になると彼もタオルでは死ねないだろうと、止める事もしなくなったのだという。

彼の兄の首はタオルで鍛えられ、相撲取りの様に太く丈夫になっていたという。

彼の兄の標的は自分ばかりでは無く彼にも向けられた。

彼が寝ている最中に首を絞められ、跳ね起きると兄が彼の首を絞めていた、などという事も何度もあったのだという。

悪夢はまだ始まっていない。

悪夢はある日、突然やって来た。

彼の兄が睡眠薬を飲んだのだ。

どこでどうやって仕入れて来たのか、ある日の朝、兄を見ると、ものすごいいびきで口からは泡が吹き出ていた。

良く寝ているんだから、と放っておこうと思った矢先に兄の枕元に睡瓶が二瓶転がっていたのを見つけたのだという。

一瓶でも充分に致死量を超えてしまう睡眠薬を二瓶もまるまるからにしていたのだ。

大急ぎで救急車を呼び、彼は付き添った。

薬を飲んでからかなり長い時間がたっていたはずなので、兄は死ぬのだろう、と彼は思ったそうだ。

彼の兄の生命力は強かった。意識が戻ってもろれつが廻らなかったそうだ。

自殺の危険性有り、という患者は一般の病院には置いてもらえない。

そのまま精神科の病院への転院となり、そこでも自殺の危険性有り、という事で身体を拘束される格好となった。

彼の兄が精神病院から退院して来た時から、彼の一家の悪夢は始まる。

「今日も地獄の様な家へ帰らなんとあかんのか・・・」

とぽつりと言った事から彼の打ち明け話が始まった。

こんな話をいくらなんでも学校では出来ない。

こちらも放課後はクラブ活動をしていたので彼の話に付き合っている暇は無い。

私達の通っていた高校は2年から自分で科目を選択する事が出来た。
2年で世界史と地理と化学を選択する事も、3年で日本史と物理と地学を選択する事も、その逆もOK。
今流行の履修科目違反だったのだろうか、たぶん違うだろうがそんな事は知ったこっちゃない。
おかげさまで、空き時間が出来る事もしばしばあった。
たとえば、水曜の一時間目は開きとか。大学の選択制と良く似ている。
何年何組に所属している、という所属という概念が極めて希薄だった。
担任というのもいたのだろうと思うが、当時はともかく今では名前も顔もその存在さえも全く記憶に無い。

空きの時間は近所の喫茶店でこうして時間を潰すのもOK。

彼の話は大抵、週に一回何時間目かの空きの時間に聞かされた。

「どうしてそんな事まで話すんだ?」と聞いた事がある。

「話すとなんか楽になるやろ」

私に話してしまう事で彼は楽になるのだという。

さて、話を彼の兄に戻そう。

壊れかかっていた彼の兄は完全に壊れて帰って来た。

もう手首を切る事も自分の首を絞める事も無い。

帰って来てしばらくしてから兄の暴力が始まった。

標的の筆頭は彼の母親だった。一緒にいる時間帯が長いし、一番暴力をふるいやすい。

彼の兄は母親を恨みきっていた。

「お前の事だけは死ぬまで恨んでやる」

とちょっと前まで死のうとしていた兄が言ったそうだ。

精神病院に入院させる時に母親が一番積極的だった事をあのろれつの廻らない状態でもちゃんと記憶にとどめていたのだ。

精神科の病院にもよるのだろうが、看護人というのは大抵は屈強な男たちである。

その入院した病院でも看護人が患者へ暴力をふるう事もしばしばあったのだろう。

暴力を振るう訳でも無いのに「自殺の危険性有り」の患者は一番暴力を振るう危険性のある患者達のいる病棟へ入れられ、身体を拘束され、暴力をふるわれた。

その償いをしろ、とばかりに彼の兄は家の中の物を壊しまくり暴力を振るう。

彼の兄の暴力の標的は当然の如く彼にも向けられた。

「でもそんな状態でどうして病院は退院させたんだ?」

私はそこをいぶかしんだ。

「人権侵害」

彼は一言ぽつりと言った。

「これ以上入院を続けさせると人権侵害で訴えてやる」

彼の兄は医者にそう言って、退院を承知させた。

「人権侵害」

この言葉は彼の兄に味をしめさせたらしく、その後何度も聞かされた。

庭に生ゴミがぶちまけられ、あまりの腐臭に近所が警察を呼んだ時も。

また、あまりに家の中での罵声やものの壊れる音が凄まじく、心配した近所の人が警察を呼んだ時、その時ばかりは警察も家の中の惨状が玄関から見えたらしく、とりあえず署まで、と兄は連行され、一家で警察署まで行き、母もはや世間体どころでは無く惨状を話し、なんとか拘束してくれる病院なりへ連れて行って欲しいと警察署で訴えた。

その時に彼の兄は大声でこう言ったそうだ。

「警察は人権侵害をするのか!」

警察は人権という言葉に無力であった。

そうやって日々は経過して行った。

ある日、同じ喫茶店で彼は言った。

「兄貴を殴ってもうた。案外簡単な事やってんな」

彼は小さい頃から一方的に兄にいじめられるだけで兄をなぐった事が無かったのだ。

私は耳を疑った。私にも兄弟はいるが小さい頃から兄弟喧嘩は殴り合い有りが当たり前だと思っていた。

彼の兄はシュウイチと一緒だったのだ。小さい頃から優秀と親から思われていた兄は常に親の前では優等生そのもので、お兄ちゃんの言いつけをしっかり守りなさい、と言われて育って来たのだ。

兄を殴るなんて、とんでもない。

そのそんでもない事をかれはやった。しかも顔面をまともに。

兄は吹っ飛んだそうだ。

何があったのかを私は聞いた。

その日の荒れ様はすさまじく母親を殴る蹴るでは気がおさまらず、とうとう父親に襲い掛かり殴る蹴るを始めたのだという。

それまで彼と彼の母は標的になっても彼の父親がまともに標的になった事は一度も無かったそうだ。

で、彼も自身の掟を破り兄の顔面を思いっきりパンチ。

兄はまさか弟にそんな力があるとは思ってもいなかった様子で、その驚いた表情は忘れられないと言う。

兄はそのまま、すごすごと部屋へ引き上げ、その日の暴力は収まったという。

次に話を聞いた時には、もう彼の一家は完璧に壊れていた。

父親は殴られて以来兄を恐れ、仕事場の近所にワンルームマンションを一部屋借りてもう帰って来ない。

母親もとうとう暴力に耐えかねて、家の近所、近所と言っても兄が追いかけて襲って来る様な近所ではおちおち寝られないので、同じ沿線で数駅先のアパートを借りて住んでいるのだという。

そのまま食べ物も無い状態を放置すれば、どんな事件を起こすかわからないので、兄が寝ているだろう時間帯に帰って来ては食事を置いてナマゴミだけを片付けてまたアパートへ帰って行くのだという。

兄の住む地獄の家へまともに帰るのはとうとう彼だけになってしまった。

三つも世帯を持てるほど彼の一家は裕福だったのだろうか。

そこはシュウジとはかなり異なる。

父親は名前は思い出せないが誰もが知っている様な知名度の高い大手企業の管理職だと聞いた様に思う。

彼との話はそのあたりで終わりである。

終わった理由は良く思い出せない。

選択する授業の時間が変わって、もう同じ時間を喫茶店で過ごせなくなったのか、それともこちらがもうその話から逃げ出したくなったからなのか。

家庭内暴力という言葉が一般的になるのはそのだいぶん後の頃の事だ。

彼の兄は家庭内暴力の先駆者だったのかもしれない。

いや、それともその時代から世の中には腐るほど家庭内暴力があったが、単にマスコミの喜ぶ様な出来事で無かっただけなのか。

逃げ出した彼の父は弱かったのだろうか。アパートに移り住んだ母は弱かったのだろうか。

少なくとも彼は弱くは無かった。シュウジも弱く無かった様に。

もちろん彼の場合、赤犬の弟として学校でイジメにあう心配は無いのでシュウジと同列には出来ないが。

彼はそんな家へ毎日帰る生活を続けて良く受験勉強が出来たものだと思う。

大学へは志望校へしっかりと合格して、家を去って行った。

家から通える様な場所では無い。彼は東京の大学を選んだのだ。

その後、彼と会う事も無いし、うわさを聞いた事も無い。

唯一の歯止めの彼が居なくなって壊れた兄だけが住む家はどうなったのか、知る由もない。

父親はそのままワンルームに住み続けたのだろうか。

彼は去って行って正解だろう。そんなところに居ては彼まで壊れてしまいかねない。

シュウジにとって不幸だったのは兄のシュウイチが壊れるのが早すぎた事だ。

彼の兄は二度の大学受験で壊れたが、シュウイチは高校生で早くも壊れてしまった。

シュウジは中学に入ったばかりだ。

中学生と高校生、年の差は大した事が無くてもこの違いは大きい。

高校生であれば彼の様に卒業するまで辛抱していれば、あとは自分で生きていける。

卒業しなくても高校生の年齢ならアルバイトでもなんでも自分で働き口を見つけられる。

中学生ではどこも雇ってはくれない。

一人では生きていけない年齢でシュウジは一人で生きなければならなかった。

いろんな重荷を背負わされて。

重たい。あまりにも重たい。

物語の中で主人公は「私」では無く何故か「おまえ」と呼ばれる。

何故二人称の「おまえ」なのだろう、と読み始めは思うが、随所に引用される聖書の言葉・・・語り部が誰であるのかはだんだん気が付いていくだろう。

語っている相手が今は遠いところへいる事も・・・・。

シュウジやエリの様なそんな悲劇ばかりが続く話なんてあるか!と思った人もいるだろう。

友人の場合、兄が壊れるのがシュウジより遅かっただけで、彼も壊れずに済んだ。

ほんのちょっとの差では無いか。

ほんのちょっとの差とその積み重ねの差。

新聞の三面記事を見たらいい。

今日もどこかで弱いオトナが、弱い父親と弱い母親が子供を死に追いやっている。

今日もどこかで弱いコドモが壊れている。