月別アーカイブ: 1月 2008



相対性理論を楽しむ本


20世紀の偉大な天才、アインシュタインの「相対性理論」と言えば知らない人は稀でしょう。
その「相対性理論」とはどんな理論なのか。
その言わんとする事をご存知の方は結構いらっしゃる様です。
ちょっと周囲にヒアリングした結果がそうでしたので少々驚きでした。

しかしながら、それはどうしてそうなるの?と聞かれて答えられる人となるとその数はぐっと減る。
ましてや数式を持ち出すまでも無く容易な言葉で説明出来る人となると、これは滅多にお目にかかれない。

高速移動の乗り物、例えばロケットなどに乗っている人と下界に居る人(静止している人)とでは時間の進み方に差が出てしまい、ロケットで長時間生活をして地球に帰って来ると、自分では1年のはずが地球では何年も経過していた、なんてまるで「猿の惑星」の世界の様な理論。
実際に「猿の惑星」の原作を書いたは「相対性理論」を参考にしたのかもしれません。

別にロケットを持ち出さなくても電車でも船でも説明がつくんですよね。
動いている船のマストの上から真下に物体を落とした時に1.5秒かかったとします。
地上で同じ高さから同じ重さの物体を真下に落とした時も同じく1.5秒。
しかしながら地上から船の上の物体の動きだけをとらえてみると、船が1.5秒間に進んだ距離だけ斜め前に落ちている。つまり真下の距離よりも長い距離を落ちているにも関らず、かかった時間は同じ1.5秒。
となると移動している乗り物の中に居た方がほんの少しだけ地上よりも(静止している人よりも)時間のたつのが遅い、という事になる。
って言葉で書くよりも図解した方がわかりやすいんでしょうけれど、ここでは敢えて相対性理論についての説明を書こうなどとは思っておりません。

この本は、そういうふうにわかり易く「相対性理論」を説明しています、という事が言いたいだけなので。

それでも頭で理解してもなかなか現実的には考えられませんよね。
実際に電車に乗って駅へ着いたら駅の時計より時間の進みが遅くなっていて、喫茶店へ行ってたっぷりとコーヒーが飲む時間が出来たなんて事はありませんし、電車の運転士は年をとるのが遅くて定年の頃には妻どころか子供も孫も老人だったなんて聞いたことないし。

私共のような俗物にはどうしてもSFっぽく聞こえてしまいます。

SFついでなので、この時間の早い、遅いって考え、タイムマシンに利用出来ないのか、ってこの単純思考はついついそっちへ頭が行ってしまうのですが、科学的には不可能だそうです。

もちろんこの本にそんな事は書いていませんが、こんな事は考えられませんか?
20光年先の星を見る、という事は30万キロメートル/秒の光でさえ20年かかって到達するほどの距離。
光が20年かけて到達したのですから当然、その星をいくら観察しても20年前なわけですよね。という事は20年前を見ている。
10光年先の星まで辿り着いて、そこに地球が写る巨大な鏡を設置したとします。
その鏡に映った地球の中は20年前の過去ですよね。
100光年先の星に設置すれば、200年前の過去が見られる・・・・・・んん、んな事出来るわけがない、というより出来た頃にはそんな過去でさえはるか未来だ。光でさえ、10年、100年かかる距離を人類が到達するのに何千年、何万年かかることか。

ならば、これは?
テレポーションという超能力を発揮出来る人間が居たとして、100光年先の星にテレポーションしたら?100年前の地球を観測出来のでは?
でもそれだけではタイムマシンになりません。その100年前の地球にテレポーションして初めてタイムトラベルした事になりますが、これだけの超能力者でもやっぱり無理なんでしょうね。
地球から見たら100年前ですが、瞬間移動したならそこは地球から見た時の100光年後の星にテレポートしたという事になる。100年前のその星にテレポートしたわけじゃない。
100年先にはその星だって消滅しているかもしれないし。で消滅していないとしてそこから見える地球はやはり100年前の地球だが、やっぱりそこから地球に瞬間移動したって現在の地球でしかないって事か。

じゃぁ、どうすればいいんだー!
相対性理論を用いれば光の速度に近づけば近づくほどに時間差は生まれる。
じゃぁ過去へ行くには光の速度を超えて移動しなければならないのか・・ははっ・・やっぱり霊界の世界だ。
ってな事はこの本に一行たりとも書いていませんけどね。

いや逆の事は書いてあったっけ。
「光の速さは最大でこれ以上速い物はない。そもそも質量を持った物体は速くなると質量が増すので動きにくくなる。だから光より速く加速させることはできない」だったけか。
時空を超えるとかって聞けば、ちょっとそういう事も考えたくなるじゃないですか。
まぁ凡俗の考える事です。
せいぜい愛想をつかしながら読んで下さい。

アインシュタインは大学を出た後、大学の教員になろうとしたが受け入れてもらえず、やむを得ず特許庁だったかのお役所勤めをしたのだそうです。
そのお役所勤めのヒマな時間を見つけては物理学の本を読むふけり、就職してわずか3年やそこらで相対性理論を発表したと言います。1905年。今から100年と少し前の事。

社保庁のお役人がなんか理論を発表したとは聞きませんね。 んん? いや今でこそ叩かれているが発表しなかっただけでちゃんと理論を生み出してはいたのか。 「先延ばし理論」。 立派に時空を超えた理論だ。
いえ、蛇足でした。

まだ質量の事にふれていませんでしたね。
アインシュタインは質量が減少する事で莫大なエネルギーが生じることも相対性理論の中で述べています。
その原理が元で原子爆弾が出来てしまうよりもはるかにましなのは、ダイエットだ!ダイエットって叫んでいる全世界のオバさん達、いや今現在の日本のオバさん達、んん?それじゃ男女差別と言われてしまう。日本のオジさんオバさん達だけで充分、その質量をその人達の願い通りに減らしてあげてその質量をエネルギーに変換する事が出来れば・・・、今から100年以内に枯渇するだろうと言われている石油エネルギーどころの騒ぎじゃない。1000年分ぐらいのエネルギーがあっと言う間に確保出来るんじゃないの。
いいなぁ、そうなったら、今大騒ぎのガソリン国会どころじゃない。
中年ダイエット質量確保合戦。

なーんてね。せっかくわかりやすい科学本の事を書きながら、なんて非科学的な事ばかり書いているんでしょうね。読んでいる人、呆れて下さい。

この本、相対性理論を確かに楽しめる本なのですが、後半になればなるほど、どんどんと内容は難しくなって行きます。
特殊相対性理論から一般相対性理論に突入するあたりから、著者もわかっているのでしょう。
無理に理解してもらう事よりもそういう理論なのですよ、ということだけ理解してもらえたら充分という書き方になっていきます。
後半の後半は宇宙の創世から今後宇宙はどうなるのか、膨張するのかどうか、なんてもはやSFを通り越してファンタジーも超越した世界。

何十億年何百億年後の宇宙をの世界をどうやって実証するのか、理論的にはこうなる、と言われたって、その頃まで生きている人なんていませんから誰も証明出来ない話。
何十億年何百億年前の宇宙にしたってこれで証明が成り立つと理論的に言われたところで、ビッグバンがあったのかどうか、そのまたビッグバンの前がどうだったなんていう話は監修の佐藤勝彦教授の持論なのかもしれませんが、それが真実とは誰も言い切れない世界。もちろん誰も見て来たわけではありませんし。

ただ、こういう宇宙の創生やら宇宙の果てには・・なんていうとてつもない世界。
哲学、いやもっと言えば宗教に近い世界になるのかもしれませんが、そこへまで物理学や科学というものでシュミレーションを行なってしまう、というそのスケールの大きさにはただただ驚嘆するしかないのであります。

すごいことですよね。目先の事にはなんら影響しない、自分を含めて誰が得をするわけでもないことを延々と研究する。証明しようとする。
そうやって研究した結果、もしくは理論を証明しようとした結果に思わぬ副産物として新たな発明や新たな発見が生まれる。
そういう人達がかつて存在し現在も存在するからこそ人類は進歩し、また今後も進歩するのでしょうね。
もちろん別の見方もあるでしょうが・・。



無罪と無実の間


「無実」と「無罪」一見、同義語のように感じてしまったりしがちな言葉です。
少なくとも司法の世界では同義語ではないでしょう。]
「被告は無実を叫び・・・」、「被告は無実を訴え・・・」などと言うような報道のされ方が多いのでついつい勘違いをしてしまいます。

裁判の結果「無罪」を勝ち取ることはあってもそれがすなわち「無実」の証明を勝ち取ったことではないでしょう。
限りなく黒に近いが証拠不十分ならば「無罪」。決して「無実」ではない。
「被告の心神喪失による責任能力の欠落の結果の無罪」という場合ももちろん「無実」ではないでしょう。

「無罪と無実の間」の主人公はイギリスの勅撰弁護士デーヴィッド・メトカーフ。
エリート弁護士で数々の訴訟で勝訴し名を残した人で英国弁護士会の会長。
その弁護士があろうことか、妻殺害の容疑で起訴され法廷に立つ。
弁護人は付けずに自分自身で弁護を行なう。

検察側の証人からはデーヴィッドとって不利な証言が次から次へと出て来る。
なんと言っても犯行を見たという家政婦の証言。
一番身近な存在だけにそのインパクトは大きい。
家政婦は言う。毎晩のように酒を飲んで遅くに帰って来ては妻に暴力をふるうと。
妻は週に一回しか飲んではいけないという劇薬を処方されている。
妻がその劇薬を既に飲んでいるのを知りながら、さらにもう一錠、紅茶に溶かして彼女に与えたのだという爆弾発言。
さらに、株式投資の失敗による多額の借金をデーヴィッドが負っていた事も判明する。
妻が亡くなる事で、その遺産により借金を清算することが出来る事も。
もちろん、デーヴィッドも有能な弁護士なので黙っているわけではない。
家政婦がどれだけデーヴィッドという主人を嫌っていたか、暴力を奮っていたなどとは家政婦の妄想に等しい事。家政婦が見たという距離からは錠剤の色が識別出来なかったであろうこと・・・などなど。

判事は陪臣員に言います。
裁く(ジャッジする)のはあなた方です。
評決は陪臣員の責任です。
さぁ、デーヴィッド・メトカーフは有罪ですか?無罪ですか?

日本にも陪臣員制度が導入されます。
2009年(平成21年)5月までに開始予定ですので、あと1年と少し。
さて、選ばれた人達は有罪か無罪かなどという大それたジャッジが出来るのでしょうか。ジャッジ次第で弁護士会会長という社会的立場のある人を永久にその立場から葬るばかりか、法廷にも二度と立てないでしょうし。過去の栄光も信用も全てを失わせてしまうことになるのです。

もっとも、この法律、正確には「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」と言うらしいのですが、今年に起こるかもしれない政変次第では本当に来年に施行されるかどうか、雲行きは怪しくなって来ましたが・・。

日本のこの陪臣員(裁判員)の制度と英国の制度との大きな違いは英国の場合は陪臣員の責任のもと陪臣員が判断しジャッジを行なうのに比べて、日本の場合は一般の市民が、裁判官と一緒に(原則一般の市民6名、裁判官3名)なっての評議・評決を行なう、という点でしょう。
そうなると、どうしても裁判官の方が主導権を握ってしまうのでは?などと思えてきたりもします。

いずれにしろ、この様な「Guilty? or Not guilty?」(有罪か無罪か)などというシロかクロかの二者択一を迫られる場面などかなりレアなケースの様な気がします。
どちらかと言えば量刑の軽重を問われるケースが大半なのではないでしょうか?
15年が相応しいのか25年が相応しいのか・・・。
などとなるとますますシロウトの出る幕では無さそうな気もして来ます。
極端な凶悪犯罪で死刑が相応しいのか無期懲役が相応しいのかと問われた方がまだ意見は言えるでしょう。但しそのジャッジに参加する個々人は非常に辛い気持ちになるのでしょうね。

と、いうような事はこの本の主題とは全く関係ありません。

関係が無い事のついでに英国の司法制度について、興味ある記述がこの文庫本の解説にありましたので、簡単にふれておきましょう。

冒頭に勅撰弁護士という言葉を使っていますが、今一「勅撰弁護士」と言われてもピンと来ないのではないでしょうか。
勅撰弁護士とは「Queen’s Counsel」の訳で、功績のあった弁護士に与えられる称号なのだそうです。

英国の法廷弁護士はバリシターと呼ばれる。そのバリシターは被告側の弁護に立つことも検察側に立つ事も出来るのだといいます。双方が弁護士なわけです。
また判事もバリシターから転じる人がほとんどなのだといいます。

日本でも裁判官、検察官、弁護士、皆司法試験に受からなければなれないのは同じですが、その後は官になる人、民になる人で各々立場が異なります。その後に官から民へはあっても民から官へは無い。裁判員の制度で裁判官に民をという事であれば、バリシターの様な制度も一考かもしれません。

と、全く本題からずれまくりました。この本は陪臣員制度を問うものでもバリシター制度を問うものでもありません。

病気の苦痛をこらえて夫に尽す妻。
妻の苦痛を知り妻を愛する男の愛するが故の苦悩。またその社会的立場としてのジレンマの行く末。
そういうものを描いた戯曲なのです。

有罪として裁かれればもちろん社会的生命は終りを告げるが、無罪となったとしても愛する妻の亡き人生。法廷へ立つ気力は失せてしまう。法廷へ立つ事だけが生きがいのデーヴィッドにすれば、いずれの道も社会的生命が絶たれてしまう事になる。

短い読み物ですがそれなりに読みごたえがあります。
1980年代後半に書かれたものでありながら、いまだにロンドンっ子の間では売れ続けているのもうなずけるような気がします。

尚、文庫本解説の辻川一徳さんの記述ではバリシターの説明だけで無く、ソリシター(事務弁護士)の事。英国の司法制度を丁寧に説明しておられますので、そのあたりも興味深く読めます。



椿山課長の七日間


死後の世界については古今東西、いろんな人がいろんな事を本に書いたり諸説さまざま。その信ずるところの宗教によっても民族によってもそれぞれの説があるのでしょう。
「人が人を殺して何故いけないの?」と子供達に問いかけられた時、多くの大人はて明解な説得力を持って答えることができない。さしずめ「いけないものはいけないの!」ってなところではないでしょうか。
昔から死後の世界には「地獄」と「天国」の二つがあるなどと言うのは案外「いけないものはいけない」事を納得させる方便なのかもしれません。
「人を殺すと死んだ後に地獄へ落ちるのだよ」などという様に。
「地獄界」と「天界」、それじゃあまりにも両極端だろう、という事で冥界(正しくは冥土なのか?)なるものが出来たのかもしれません。
いずれにせよ、誰しも死した後に書き残したわけではないでしょうから、諸説さまざまあって良いのでしょう。
もちろん中には臨死体験を元に書いた・・などというものもあるでしょうが、それすらさほどの説得力があるものでもないでしょう。

ならば「椿山課長の七日間」で描かれるお役所そのままの死後の世界があってもおかしくはないでしょう。
この本の主題は死後の世界を描く事ではないのでしょうが、このストーリーの最初の見せ場はなんと言ってもこの椿山課長の体験する死後の世界でしょう。

この死後の世界はずいぶんとなまやさしい世界でまたユニークなのです。
さしづめ仏教の世界なら、三途の川を渡った先で生前の行為が五戒に基づいて裁かれ、審査され次の行き先が決めらるといったところなのでしょうが、生前の行為を五戒に基づいて審査されるのはこの本の世界でも同じ。
ちなみに五戒とは殺生、盗み、邪淫、嘘、飲酒らしいのですが飲酒運転じゃあるまいに酒を飲む事まで悪事にカウントされてしまうのでしょうか。
じゃぁ忘年会に出席するサラリーマンはほぼ全員カウント対象じゃないか、などという感想は横道にはずれていますね。
仏教ではそのずいぶんと厳しい審査結果で地獄や餓鬼の世界や修羅の世界やらと行き先が決るのでしょうが、この本の世界の冥界では審査結果でそれぞれの講習を受けに講習室へ入るのです。
その講習を受けた後に反省ボタンを押す事で現世の罪は免除され、無事に皆さん極楽往生。天界へ行けるというのです。
まるで交通違反の免停講習みたいじゃないですか。30日免停でも一日講習を受ければ29日短縮されるみたいな・・。
そういう審査やら講習やらの事務手続きを行うのが「中陰役所」と呼ばれるところで、その呼称も現代風にスピリッツ・アライバル・センター略してSAC。
その審査結果に不服があれば再審査の手続きを踏むことができる。

主人公の椿山課長はデパート勤めのひたすらクソ真面目に仕事一本で生きてきた人。
正月を返上してでも仕事をするぐらいの仕事人間。
バーゲンセールで過酷な売上ノルマを課せられ、最も多忙なセールの初日に脳溢血で倒れてしまう。癌の告知を受けたり、病院で長患いをしていたり、という状態とは違う。何の心構えもないままにあの世へ来てしまった。
現世に思い残す事は山の様にあり、どうしてもそのまま往生してしまうわけには行かない。
それにあろうことか審査結果では邪淫の罪の講習を受けろと言われる。46歳になるまで不義はもちろん不正を働くような人間ではない。
とはいえ反省ボタン一つで極楽往生なのに元来目先を優先して黒いものを白いとは決して言えない、上司へのへつらいも出来ないクソが付くほどの頑固もの。
SACのお役所仕事的な決定が気に入らない。当然不服申し立てをして再審査を要求する。
再審査もあっけらかんとしたもので、審査らしき事が特にが行われるわけではない。お役所は面倒なことが嫌いなのだ。
再審査によりリライフ・メイキング・ルーム(略称RMR)と呼ばれる所へ行き、現世への逆送手続きが行われる。
逆送期間は初七日まで。と言っても逆送されるまでに既に4日間も経っているので実際には3日間だけ。
逆送後の容姿は現世時代とは最も対照的な姿となる。
息子いわく「ハゲでデブ」だそうだから、椿山課長のもらった容姿は・・・ご想像におまかせしましょう。
と、ここまでは本題のほんの入り口。ここまで書いても未読の方のおじゃまにはならないでしょう。
ここまではまだまだ笑える本なのです。
この先は涙腺の弱い人ならボロボロと大粒の涙を流しながら読むことになるでしょう。
本の最後に行きついたら、その流した涙は洗面器一杯ぐらいになっているかもしれませんよ。

現世へ戻ると行っても元の姿と似ても似つかない赤の他人の状態では、警戒されてしまってなかなか身内ですらまともに話も出来ないでしょうし、遣り残したことをするなんていうのは至難の業でしょう。いっそのことゴーストになって返った方がやりやすいかもしれない。
しかも、逆送にあたっては三つの守りごとがある。
「復讐をしてはならない」
「自分の正体を明かしてはならない」
「時間厳守」
これを破ると「コワイコトになる」。つまり地獄へ落ちるということなのでしょう。
仏教の場合、最も重い罪は殺生なのでしょうが、この話の冥界では殺生よりもこのお役所との約束事を破ったことの方が罪は重いのですね。
この逆送にはお連れさんが二人ほど居ます。
一人はヤクザの親分さん。
一人はまだ小学校2年生の男の子。
それぞれこのストーリーの中では大事な役回りです。

現世へ返る事で、知らなくても良かった事も知ってしまいますが、逆に知る事の無かった身近な人の愛情や苦悩を知ります。
老人ボケで老人ホームに入所している父親の愛情と苦悩を知り、息子の愛情や苦悩を知り、自分のことを本当に愛してくれた人のことを知ります。
そしてここでいう邪淫、おのれの欲望の満たす目的でどれだけ相手を傷つけたか、相手の真心を利用したか、というの邪淫の本来の定義を知る事になるのです。
高卒で入社して以来、とにかく身を粉にして働くことが正義だと思っていた椿山課長は、死して本当の粉になって初めてもっと大切な事を知るのです。
そして人間の本当の強さや男の中の男の生き様をあらためて目の当たりににするのです。
もうこれを書いているだけでもストーリーを思い出してもう目の前は涙でぐちゃぐちゃ、って言うのはウソ。ちょっと大袈裟すぎました。
詳しくは語りませんが、でも、そういう本なのです。

椿山課長の七日間 浅田次郎著