椿山課長の七日間


死後の世界については古今東西、いろんな人がいろんな事を本に書いたり諸説さまざま。その信ずるところの宗教によっても民族によってもそれぞれの説があるのでしょう。
「人が人を殺して何故いけないの?」と子供達に問いかけられた時、多くの大人はて明解な説得力を持って答えることができない。さしずめ「いけないものはいけないの!」ってなところではないでしょうか。
昔から死後の世界には「地獄」と「天国」の二つがあるなどと言うのは案外「いけないものはいけない」事を納得させる方便なのかもしれません。
「人を殺すと死んだ後に地獄へ落ちるのだよ」などという様に。
「地獄界」と「天界」、それじゃあまりにも両極端だろう、という事で冥界(正しくは冥土なのか?)なるものが出来たのかもしれません。
いずれにせよ、誰しも死した後に書き残したわけではないでしょうから、諸説さまざまあって良いのでしょう。
もちろん中には臨死体験を元に書いた・・などというものもあるでしょうが、それすらさほどの説得力があるものでもないでしょう。

ならば「椿山課長の七日間」で描かれるお役所そのままの死後の世界があってもおかしくはないでしょう。
この本の主題は死後の世界を描く事ではないのでしょうが、このストーリーの最初の見せ場はなんと言ってもこの椿山課長の体験する死後の世界でしょう。

この死後の世界はずいぶんとなまやさしい世界でまたユニークなのです。
さしづめ仏教の世界なら、三途の川を渡った先で生前の行為が五戒に基づいて裁かれ、審査され次の行き先が決めらるといったところなのでしょうが、生前の行為を五戒に基づいて審査されるのはこの本の世界でも同じ。
ちなみに五戒とは殺生、盗み、邪淫、嘘、飲酒らしいのですが飲酒運転じゃあるまいに酒を飲む事まで悪事にカウントされてしまうのでしょうか。
じゃぁ忘年会に出席するサラリーマンはほぼ全員カウント対象じゃないか、などという感想は横道にはずれていますね。
仏教ではそのずいぶんと厳しい審査結果で地獄や餓鬼の世界や修羅の世界やらと行き先が決るのでしょうが、この本の世界の冥界では審査結果でそれぞれの講習を受けに講習室へ入るのです。
その講習を受けた後に反省ボタンを押す事で現世の罪は免除され、無事に皆さん極楽往生。天界へ行けるというのです。
まるで交通違反の免停講習みたいじゃないですか。30日免停でも一日講習を受ければ29日短縮されるみたいな・・。
そういう審査やら講習やらの事務手続きを行うのが「中陰役所」と呼ばれるところで、その呼称も現代風にスピリッツ・アライバル・センター略してSAC。
その審査結果に不服があれば再審査の手続きを踏むことができる。

主人公の椿山課長はデパート勤めのひたすらクソ真面目に仕事一本で生きてきた人。
正月を返上してでも仕事をするぐらいの仕事人間。
バーゲンセールで過酷な売上ノルマを課せられ、最も多忙なセールの初日に脳溢血で倒れてしまう。癌の告知を受けたり、病院で長患いをしていたり、という状態とは違う。何の心構えもないままにあの世へ来てしまった。
現世に思い残す事は山の様にあり、どうしてもそのまま往生してしまうわけには行かない。
それにあろうことか審査結果では邪淫の罪の講習を受けろと言われる。46歳になるまで不義はもちろん不正を働くような人間ではない。
とはいえ反省ボタン一つで極楽往生なのに元来目先を優先して黒いものを白いとは決して言えない、上司へのへつらいも出来ないクソが付くほどの頑固もの。
SACのお役所仕事的な決定が気に入らない。当然不服申し立てをして再審査を要求する。
再審査もあっけらかんとしたもので、審査らしき事が特にが行われるわけではない。お役所は面倒なことが嫌いなのだ。
再審査によりリライフ・メイキング・ルーム(略称RMR)と呼ばれる所へ行き、現世への逆送手続きが行われる。
逆送期間は初七日まで。と言っても逆送されるまでに既に4日間も経っているので実際には3日間だけ。
逆送後の容姿は現世時代とは最も対照的な姿となる。
息子いわく「ハゲでデブ」だそうだから、椿山課長のもらった容姿は・・・ご想像におまかせしましょう。
と、ここまでは本題のほんの入り口。ここまで書いても未読の方のおじゃまにはならないでしょう。
ここまではまだまだ笑える本なのです。
この先は涙腺の弱い人ならボロボロと大粒の涙を流しながら読むことになるでしょう。
本の最後に行きついたら、その流した涙は洗面器一杯ぐらいになっているかもしれませんよ。

現世へ戻ると行っても元の姿と似ても似つかない赤の他人の状態では、警戒されてしまってなかなか身内ですらまともに話も出来ないでしょうし、遣り残したことをするなんていうのは至難の業でしょう。いっそのことゴーストになって返った方がやりやすいかもしれない。
しかも、逆送にあたっては三つの守りごとがある。
「復讐をしてはならない」
「自分の正体を明かしてはならない」
「時間厳守」
これを破ると「コワイコトになる」。つまり地獄へ落ちるということなのでしょう。
仏教の場合、最も重い罪は殺生なのでしょうが、この話の冥界では殺生よりもこのお役所との約束事を破ったことの方が罪は重いのですね。
この逆送にはお連れさんが二人ほど居ます。
一人はヤクザの親分さん。
一人はまだ小学校2年生の男の子。
それぞれこのストーリーの中では大事な役回りです。

現世へ返る事で、知らなくても良かった事も知ってしまいますが、逆に知る事の無かった身近な人の愛情や苦悩を知ります。
老人ボケで老人ホームに入所している父親の愛情と苦悩を知り、息子の愛情や苦悩を知り、自分のことを本当に愛してくれた人のことを知ります。
そしてここでいう邪淫、おのれの欲望の満たす目的でどれだけ相手を傷つけたか、相手の真心を利用したか、というの邪淫の本来の定義を知る事になるのです。
高卒で入社して以来、とにかく身を粉にして働くことが正義だと思っていた椿山課長は、死して本当の粉になって初めてもっと大切な事を知るのです。
そして人間の本当の強さや男の中の男の生き様をあらためて目の当たりににするのです。
もうこれを書いているだけでもストーリーを思い出してもう目の前は涙でぐちゃぐちゃ、って言うのはウソ。ちょっと大袈裟すぎました。
詳しくは語りませんが、でも、そういう本なのです。

椿山課長の七日間 浅田次郎著