月別アーカイブ: 4月 2008



霧笛荘夜話


波止場の運河のほとりにその建物はある。
別にそこを訪ねるつもりは無くても人目を避け闇を求めて歩けば自然とそこにたどり着く。
そんな立地だからこそ集って来たのではないかと思える住人が住む。

石段を五六段降りた半地下と中二階の建物。中の空気は湿気っている。それが霧笛荘と呼ばれる建物で、纏足の婆さんが大家として部屋を紹介してくれる。

「港の見える部屋」
 の千秋はひたすら死に場所だけを求めて霧笛荘にたどり着く。

「瑠璃色の部屋」
ギターリストをめざして上京した四郎。
実際にはその一歩目さえも踏み出せないでいる。
親に内緒で送り出してくれた姉への想いがせつない話です。

「朝日のあたる部屋」
やくざといえるのかどうなのかわからないぐらいにくすぶったやくざの鉄夫。
兄貴分の言い分を素直に信じて人の罪を被って何度も塀の中へ入っている。
塀の中のお勤めを終えても出世が待っているわけでも無く、全くの疫病神扱い。
そんな鉄夫が誇れるのは「カンカン虫」と呼ばれる船の汚れ落としの作業。
船に張り付いての作業で相当に体力を消耗する。
金が入り用になった時に鉄夫は得意の「カンカン虫」で金を稼ぐ。
くすぶり野郎でありながら、優しさは人一倍。
この短編の最期には泣かせられる。
ちょっとキャラクターは違うが「プリズンホテル」なんかにもそんな優しい、そして時代にそぐわないやくざが登場したように思う。

過去を全て断ち切って、捨て去ってそこで全く別人格として生きている人達の部屋。

「鏡のある部屋」
全く満たされないことなどこれっぽっちもない生活をおくりながらもあるきっかけで過去をすっぱりと捨て去り、名前さえ捨て去った眉子という女性。
自分探しの旅に出たものの・・と言ったところでしょうか。
他の部屋の住人もそうだが、一見投げやりな態度を取りながらも人への面倒見がいい。

「花の咲く部屋」 「マドロスの部屋」
花の咲く部屋のオナベことカオルとマドロスの部屋のキャプテン、この二人の物語が一番心に残ります。
オナベといえばオカマの反対でしょうか。女性でありながら男装をし、男には興味が無く、ホストのように女性から愛される職業?そういう役回りか。
カオルという人も眉子と同じように過去を捨て去ったのですが、それは眉子のような動機ではありません。
ほとんど最終的にはそうするしかなかったのではないか、と思えるほどに悲しくも辛い過去を背負った人なのでした。

マドロスの部屋のキャプテンはもっと凄まじい。
特攻で死んでいるはずの命。
神風特攻隊ではない。ボートなのです。両側に爆弾を搭載していなければ普通のボート。突撃命令を受けた時に手紙さえ出さなければ、と生涯悔やんでも悔やみきれない過去を背負います。
軍服を捨て去り、過去も捨て去り、自らの過去はマドロスだったのだ振る舞い、自らにもそう言い聞かせて生きる人。

「ぬくもりの部屋」
この霧笛荘に住む人は皆、辛い過去を抱えていますが男気といいますか、人への優しさは並大抵のものじゃない。
ましてやちょっとやそこらの金で釣られたりはしない。
大家さんである太太への優しい心配り。
人間として大切なものは何なのか、元銀行マンの地上げ屋は知ります。

霧笛荘夜話 浅田次郎著



トワイライト


そこは千里ニュータウンのはずれにある一画の団地だった。
小さな川を隔てた先は庭付きの一戸建てが並ぶ町並み。
子供達の通う小学校はそんな高級住宅地からの生徒と団地からの生徒が半々ずつ。
少なくとも子供達は学校では違和感も無く仲良くやっていた。

団地っ子の家は小さな畳の部屋が二つとダイニングキッチンだけ。
それを狭っ苦しいと嘆く団地っ子は一人も居ない。
庭付き一戸建ての家は部屋数が多く、庭にその父親がゴルフの練習をするのか、小さなネットがあったりして。
団地っ子はそれを羨むどころか、その隣家との間を隔てる塀に囲まれたなんともいえぬ閉塞感を味わい、団地に帰って来るとほっとした。

団地の庭は広かった。
玄関を開けるともう目の前には小さな公園があった。
毎日学校から帰ると当然の様にそこには団地っ子が数人集まり、当然の様にドッジボールが始まる。
その小公園の横には木でいっぱいの小山があり、そこは缶蹴りの場所。
更にその小山の向こうには小学生が野球をするのに程よい広さのグラウンド。
小公園の反対側にもキャッチボールができる広さの草っぱら。
その全部が団地っ子の庭だった。

なんせ一棟、一棟の間隔が異様にと思えるほどに広いのである。
団地のほとんど全てがそんな間隔で建てられていた。
団地内の草っぱらや小公園は全部団地っ子の庭だったし、団地の周囲もまた庭だった。
団地の周囲は高級住宅地側以外はほとんど田んぼ。
田んぼの向こうは永遠に続くのではないかと思えるほどに続く竹林。

春には竹林でたけのこを取り、田んぼのあぜ道ではつくしを取り、夏には小川には蛍が居た。至る所に池があった。
自転車では箕面の滝の手前から服部緑地まで、団地っ子のの行動半径はは広かったのである。
その周辺の一角だった竹林が造成されて第二団地というものが誕生し、さらに第二団地との間に団地っ子だけの小学校が誕生した。
6年生1クラス、5年生3クラス、4年生6クラス・・・と下級生になるほど人数が多くなるピラミッド型の生徒構成。
ますます子供達が多くなっていったのだった。

自衛隊を辞めて航空会社へ就職した人、新聞社へ勤めたての人。役所を辞めて大学へ職を求めた人。放送局へ就職した人。駅前で屋台の寿司屋を営んでいた人・・・。
団地の大人は皆、未来に夢と希望を持ち、団地の家の狭さを嘆き、いつかは川向こうの高級住宅地の様なところに住むぞ、と意気込んでいた。

重松の描く「たまがわニュータウン」で育った子供達は皆、未来に夢と希望を持つが、この団地では未来に夢と希望を持つのは大人達だった。
団地周辺ではその頃から徐々に田んぼが無くなり、池が無くなり、竹林が無くなって行った。
蛍は早々と消え去った。えんえんと竹林だった頃は誰も気にとめなかった子供のたけのこ取りも、残った竹林には「たけのこ取るな」の立て札が立ち、周囲には金網が張られた。
やがてその残った竹林も無くなり、一帯は新たな新興の高級住宅地となり芸能人などが移り住んで来たり団地からの成功者もどんどん移り住んで行った。

団地っ子は未来に希望を見るよりも自分達の庭がどんどん収縮していくこの先の未来に閉塞感を覚えた。
自分達の遊び場がなくなってしまうのではないか、自分達のふるさとそのものが消えてしまうのではないか、と未来を憂えた。

団塊の世代よりも全共闘世代よりも1世代も2世代も若いこの世代は後にエネルギーの消滅した世代と呼ばれる。
この団地っ子にはドラエモンものび太もジャイアンもすね夫もしずかちゃんも居なかったが、団地っ子はエネルギーの消滅した世代などではなかった。寧ろエネルギーの塊りのように行動的だった。
周辺が消えて行くだけならまだしも自分達の野球場までがフェンスで囲まれた大人も子供も誰も使うことのないテニス場に作り変えられた時にはさすがに怒りが爆発し、団地っ子は陳情団を結成した。市役所へかけあいに行くがおかど違いだと言われ、団地の管理事務所にそのバカな決定者は誰なのか、と訪ねに行くが大人達ですら誰が決定者なのか誰も知らなかった。
団地っ子がエネルギーを消滅して行くのは新興の高級住宅地などに移り住んで行ってからである。行った先は押しなべてかつての川向こうの家がそうだったように家の周囲をブロック塀で囲う、団地っ子からすれば最も閉塞した空間なのだった。

だが、大人は違う。
自衛隊を辞めて航空会社へ就職した人は念願の国際線のパイロットとなり機長となった。
新聞社へ勤めた人は一流紙の敏腕記者となって東京へ移って行った。
大学へ職を求めた人は助教授となり教授となりやがて名誉教授となった。
放送局へ就職した人はアナウンサーとしてテレビで活躍した。
駅前の屋台の寿司屋を営んでいた人は寿司屋のチェーン店の社長となった。

大人は念願通りの成功をおさめ、2DKの団地を未練も無く捨てて行った。

タイムカプセルというのは当時の流行りだったのだろう。
万博でもその行事は行われていたと思う。
時期的にはもうとうに開封された事だろう。

団地っ子の小学校でもタイムカプセルという行事は行われた事だろう。
それがどうなったのか開封されたのか誰も知らないし、おそらく開封もされなかったのではないだろうか。

団地っ子はやがてちりぢりになって行く宿命だった。
親の世代が最初からそう考えて住んでいるのだから仕方がない。
ちりぢりになり、誰がどこへ行ったのか連絡手段も何も無い。せめて半数でも1/3でも残っていれば誰かが動いたかもしれないが、ほとんど全員がちりぢりになっていったのだからどうしようもない。

その団地も数年前にはもう老人がパラパラと住むだけの廃墟に近い状態となり、どの小公園でも遊んでいる子供の姿は見られなかった。その翌年から撤去工事が始まるということだったので今頃はもうあらかた無くなってしまっているのだろう。
その有りようは「たまがわニュータウン」の過疎化と同じである。

「たまがわニュータウン」の小学校は廃校になるということでタイムカプセルを開封しようと同級生が集まる。
集まった中にはかつてのジャイアンが、のび太が、しずかちゃんが集まる。

「たまがわ」の子供達にとって万博は未来への成長のシンボルだった。
団地っ子にとっても万博は開催前までは夢のような存在だった。
やがて万博の開催は即ち竹林の消滅、田んぼの消滅と繋がることに気が付く。
甲子園の何十倍だか何百倍だかと散々その前評判を聞いたわりにはあまりにその狭っくるしさに驚いた。あまりにパビリオンとパビリオンの間隔が狭かったからだろう。
団地っ子達は団地の一棟一棟の広い間隔にあまりに慣れ親しみ過ぎたのである。
どこへ行っても行列ばかり。
それも狭くるしさを感じた要因かもしれない。

「たまがわ」の子供達はやがて成長し、夢見た未来の現実を知る。
天才少年だったのび太のはリストラ目前のサラリーマン。
ジャイアンはしずかちゃんと結婚したが、現在では子供からも愛想をつかされ、ほぼ家庭崩壊状態。

掘り返したタイムカプセルからは亡くなった先生からの手紙が・・。
「あなたたちはいま、幸せですか?」

団地っ子の生き残りとして今、当時の団地っ子彼らに語りかけることができるとしたら、言ってやろう。
「君らの憂えた未来でもちゃんと立派にやって来たぞ!」と。
彼らが必ずこう言うだろう。

「俺達なら必ずそうだろうと思ったよ」と。

トワイライト  重松 清 (著)



涼宮ハルヒの陰謀


登場人物が宇宙人に未来人に超能力者、とあいかわらず荒唐無稽なシリーズである事には違いないのですが、ここにきて、というかこの「陰謀」はまるで小説じゃないですか。
ってライトノベルといえども皆、小説は小説ですよね。
ようやくマンガチックじゃない読み物にこの世界で出会えたといった感じでしょうか。

未来から過去へと来た場合、その未来までの歴史を変えてしまわないように、一旦知ってしまった未来をそのままなぞらえるように、慎重に慎重にと行動しなければならない。

とはいえ、一旦過去へ行って何らかの行動を起こしただけで充分に未来を変えた事にあるのでしょうが、未来人はなんとか歪められた過去を補正しようとしているようです。

過去へ行って何かをしたとしたらそこから二通りの過去の世界が存在する、というような言いまわしがあったかと思います。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の世界では過去を変えることは、即ち未来も変わることで、過去も現在も未来も一つしかありません。
その時点まで生き残らないことになってしまう人の写真が目の前からどんどん消えて行ったり、その可能性が高くなるだけで写真が徐々に透明になっていったりするシーンがある事からも、過去が変われば当然、未来も変わり、その未来からバック・トゥした時点でもその影響があらわれる、ということからも過去に決定された未来は一つのようです。

バック・トゥ・ザ・フューチャーに限らず、大抵のSFは過去と未来は一つずつ、それがいわゆるSFにおける論理的な常識だということなのでしょうか。

過去の改変にての二通りの過去。

それは言い替えれば過去が二通りある、というよりも、過去が変わったことによって、二通りあるのは過去ではなく、現在や未来なのではないでしょうか。

彼らが過去へ行くたびに、別次元にもう一つの現在が出来上がる。
未来人は朝比奈みくるだけじゃないようですし、複数の未来人がそれだけ過去へ往来しているのであれば、かなりの数の別次元の現在が存在する。

まるで「五分後の世界」ですね。
第二次大戦にて昭和20年の8月15日に日本は連合国に対して無条件降伏をしてしまうわけですが、その手前では玉音放送を流す事に命をかけた男達と、もちろんそれを阻止しようとする一派との紙一重のせめぎ合いが有ったわけで、もし玉音放送が流れなければ・・・日本は当初から軍部が言っていたように徹底抗戦に突入したわけで、当時の日本相手の地上戦の困難さは硫黄島や沖縄を経験したアメリカには充分すぎるほどにてわかっていたことでしょう。
硫黄島では日本軍は2万人がほぼ全員玉砕。
米軍ももちろん無傷のわけがなく、圧倒的な火力の差をもってしても米兵6千から7千もの死者と2万人を超える戦傷者を出した。
日本本土は都市といえる都市はほとんど空爆したものの本土の大半はそもそも山岳地帯。本土決戦となれば長期戦になることは目に見えており米兵の被害は硫黄島の比ではない事は明らかだったでしょう。
現にその後のベトナム戦争では最終的に地上戦の泥沼で国内からも批判が噴出。最終的には撤退を余儀なくされ、それに懲りたかアフガンでは空爆はアメリカの出番ですが、地上戦の泥沼が怖かったのでしょう。山岳地帯での地上戦などは長びいてしまうでしょうし、そうなればまたベトナムの再来、もしくは旧ソ連のアフガン侵攻の失敗の再来。地上戦はもっぱら反タリバンの北部の同じアフガンの戦士たちに戦わせてアメリカは寧ろその後方支援を行なった。
「五分後の世界」とはまさに日本が無条件降伏をしなかったとしたら・・のIFなのです。玉音放送の流れなかったもう一つの現在。

戦後の与えられた民主主義の中で、かつての日本の誇りに繋がるものは占領軍から抹消され、誇りを持たない国として再生した現在と国土はずたずたでも誇りを失っていないもう一つの現在。

あの時、もしこうだったら・・、歴史にIFはつき物ですが、所詮空想の世界です。
歴史には往々にして紙一重の差がその後の世界を変えている。
池田屋事変の時、桂小五郎(後の木戸孝允)は、池田屋に着いたのが皆より早すぎたために、一旦その場を離れたために池田屋事変に遭遇しなかったと言われているが、時間通りに来るか、もしくは同士と会っていたらどうだったでしょう。
間違いなく新撰組に斬られていた。桂小五郎と西郷の会談無くして薩長同盟は有り得たか。有り得たかもしれませんし、現代は江戸幕府の延長だったかもしれない。
今でこそ地方分権が合言葉の様に言われていますが、江戸時代こそまさしく地方分権そのもの。中央集権ならぬ藩という地方分権化社会が残っていたかもしれない。

織田信長が明智光秀に毛利征伐支援を命じなければ、明智光秀は大軍を率いることは無かったでしょうし、織田信長も本能寺で討たれることはなかった。
そうなれば日本は徳川時代を迎えなかったかもしれない。
大阪城は存在せず、滋賀県の安土が日本の首都だったかもしれない。

そんな歴史のIFはやまほど存在するでしょう。
で、実際にそのやまほど存在する5分後の世界ならぬ別次元の現在が存在するとしたら・・。はたまたそこへ迷い込んでしまったら・・。
迷い込んだとしても、どこでボタンの掛け違いが発生したのか、その世界の歴史年表を見せてもらわない限り絶対に意味不明でしょうね。
それもこの世界の歴史を知らなければ、どこで違ったかさえわからない。
それを聞こうにも言葉さえ違っている可能性すらありえますよね。
200年前、300年前の日本人の話言葉だって理解できるかどうか疑わしいし、どこからか掛け違った世界では日本語はポルトガル語になっているかもしれないし。
まるでSFですね。

ということでハルヒの陰謀、陰謀というからには空恐ろしいことを・・を想像するでしょうが、極めておとなしいハルヒの巻なのでした。