月別アーカイブ: 7月 2009



追跡!私の「ごみ」捨てられたモノはどこへ行くのか?


まず、ロイト女史の「ごみ」追跡の執念に驚かされる。
日常生活で排出しているごみ。このごみの行方を追いかけることがこんなに大変だったとは。

この一冊にはゴミに関するありとあらゆることが網羅されている。
一冊に収めてしまうのが惜しいほどである。

どこかでリサイクルされているんだろう、と思っていたごみの行方を追いかけて行くと最終的には埋立地に突き当たる。
マンハッタンの高級住宅街が排出するごみは貧しく権利のない界隈へと集まる。
ロイト女史はその事態を「ごみはごみ扱いされている人々の上に捨てられる」という言葉で表現する。

埋立地はガードが固く、話を聞くことも立ち入ることも拒否されてしまう。
かつてジュリアーノ元市長が一掃する前はニューヨークのごみ回収業者はマフィアの手に委ねられていたのだそうだ。
マフィアが一掃された後であっても、新たに参入して来た業者による不正は行われ続けていると言われる。

リサイクルされるごみと言えば紙ごみや金属ごみ。
紙ごみは再生紙として生まれ変わるが、再生紙になる前にその大半はアジアへ輸出されるのだという。
再生紙用の回収率は毎年着実に上がり続けているにも関わらず、バージン紙の使用量は増え続ける。
アメリカで印刷される年間120億冊の雑誌の95%は全く再生紙を含んでいないのだそうだ。
日本でも以前に製紙会社が再生紙利用と銘うちながらも実際には再生紙ではなかった、というニュースがあったっけ。
全米で使用される紙は年間800万トン。再生パルプの入ったものはその三分の一にも満たない。

かく言うロイト女史の出すこの原著についてもロイト女史は再生紙で、と版元に求めたところ、他社よりも50%バージンパルプの含有量を少なくする、という返事だったという。
この原著でさえ、売れれば売れるほどバージンパルプを消費してしまうというなんとも皮肉な話である。
それでも紙ごみはまだまだリサイクルの優等生には違いない。

何故、再生紙に拘るのかは言うまでもないだろう。
バージンパルプを使用する、即ち森林伐採に繋がるからである。
しかも木を伐採して加工した場合、製品になるのはせいぜい43~47%なのだという。

そしてもう一つのリサイクルの優等生と言えば金属ごみ。
かつて開高健が『日本三文オペラ』で描いた「アパッチ族」のように鉄くずを回収して生計を立てるする人はかつても今も多く居る。
この本では、くず鉄業から大企業に育った企業が登場する。

ロイト女史はそこでもスクラップの80%が輸出されている現状を目の当たりにする。
最大の輸出国は中国。

この本の章立ては「紙ごみのゆくえ」「金属ごみのゆくえ」のあとも「有害廃棄物のゆくえ」「プラスチックのゆくえ・・・」と続き、一人のジャーナリストが良くこれだけ追いかけたものだ、とほとほと感心すると共にそこに描かれる現実は、冒頭に「この本、一冊に収めるにはもったいない」と書いた如く、一つの章立てだけでも充分に一冊分の読み物に匹敵してしまうと思えてしまうからである。

ロイト女史はその中でコンピュータやその周辺機器などの電子ごみがどこへ行くのか、も追いかけている。
電子ごみの80%は中国、インド、パキスタンへ輸出される。

方や、ペットボトルなどの回収プラスチックも大半が中国へ輸出される。

中国にそれだけアメリカのごみを買ってもらい、大量の国債も引き受けてもらっている中国に対して、人種問題や人権問題に真摯の取り組むはずのオバマ氏が中国のチベット問題やつい先日のウィグル問題にコメントすら発っせられないのは、むべなるかなである。
もちろん、それだけの理由ではあるまいが・・。

とはいえ、この世界不況の中でも成長を維持し続ける中国が、いつまでもごみの輸入国に甘んじているわけがない。
いずれ、中国の排出したごみを日本やアメリカが引き受ける時代が来るのかもしれない。
上記数行の記述は本の主旨とは無縁である。

この本、リサイクルという名の美名の元にて行われる様々な不正に目を向けている。
単にリサイクルが素晴らしいと賛美するわけではなく、その本質を見極めようとしているところがいかにもジャーナリストの書き物だけあって好感が持てる。

日本でもごみの分別後、どのように処理されているのが明らかにされていないことに分別そのものに対する疑惑を述べる識者が居られる。
その識者の方々も疑義を述べるに止まらず、ロイト女史のように徹底的に追いかけてみて欲しいものである。

ロイト女史はデポジット制という、一見リサイクル効率を高めるための良い制度に見える制度が生み出す不当利益を得る企業にも目を向ける。

方や一方で、リサイクル出来ない製品を生み出す企業へ質問状を投げたりもする。

凄まじいバイタリティとしか言いようがない。

はたまた、ロイト女史は自らコンポスト(ごみの堆肥化)にもチャレンジする。

良く、日本の江戸時代は最もリサイクル化の進んだ時代だった、という話を聞くが、なんのことはない江戸時代まで遡らなくったって、身近な年寄りに聞いてみればいい。

ほんの40~50年前だって、一般家庭からはほとんどごみが出なかったというではないか。
そう、まさにコンポストだ。

いわゆる台所から生まれる生ごみは、庭で穴を掘って、小山で穴を掘って、そこへ埋めて土に返す。
それが当たり前だったと。
地方へ行けば行くほどそうだったのだろう。

生ごみが生まれ始めるのはスーパーマーケット、やがてコンビニという便利な存在がパック詰めした食品を売り、土に返らないポリ袋というものに入れてくれ、生活者は庭も近所に小山もない集合住宅に住みだした頃からなのだろう。

とは言うものの、一般家庭から出るごみなどは、ごみ全体でいえばほんの2%に過ぎないのだという。
大半は物を作る製造過程で生まれる産業廃棄物。

はてさて、このごみの問題でも結局、終着点は産業構造の変革化が迫られているということなのだろうか。

追跡!私の「ごみ」―捨てられたモノはどこへ行くのか? エリザベス ロイト (著)  酒井 泰介 (訳)



三人姉妹


年の少し離れた二人の姉。
長女は恋愛した相手を選ばず、見合い結婚で田舎のちょっとした企業家の家へ嫁ぎ、
次女は他社からヘッドハンティングをされるほどのかなりやり手のキャリアウーマン。

そして主人公がこの三女。
化粧っけもなくボーイッシュな感じなのだろう。

長女が嫁ぎ先から一人息子を連れて、帰って来るところからはじまるのだが、読み始めて、まず、おそらく退屈な展開になるんじゃないかなぁ、と一瞬頭をよぎったが、なんのことはない。就寝前のわずかな読書時間でそのまま眠ってしまわずに一気に読むことが出来た。
結構、長編だったのに。

主人公の大学を卒業してもまともな職業には就かず、フリーターとしての生き方は、昨今の雇用問題云々が原因では無く、大学時代に所属していた映画研究会というものが影響を与えているのだろう。
昔から演劇部や映研に所属する人間に多く見られるタイプだ。

フリーターとは言え、映画館でのアルバイトなので基本的に好きなことをしながら暮らしているわけだ。

この本、個性的な登場人物は何人か出て来るが、一番光っているのは、長女の嫁ぎ先の妹、所謂小姑と呼ばれる存在の女性。

普段は事務服を着て、地味な存在と思われがちな彼女。
田舎のことなので、人様のうわさ話には事欠かない。
「行かず後家」だとか「色気も可愛げもない」だとか「お洒落もない、愛想もない、かさかさだ」とか、姉の嫁ぎ先の従業員達は平気でくそみそに言う。

ところが、「色気も可愛げもない」のも「お洒落もない」、「愛想もない」も全部彼女の演技だったりして、昼間は敢えてそういう自分を演技しておいて、真夜中になると、ポルシェに乗ってがんがん走りまくる。
同上した主人公に「まるでジェットコースターのようだ」と言わせるほどに凄まじい。
また昼間の事務服の地味さが欠片もなく、行きたいと思ったところまでところまで自由にぶっとばして行く。

一番自由人に見えなかった人の豪放磊落な自由人気質。
この落差が面白い。

このキャラが無ければこの小説も魅力も半減していただろう。

まぁ誰が誰を好きになっただの、別れただの離婚を考えている、だのという些事については特に感想のかけらもないが、この本の舞台装置には映画というものがある。

この映画が、この誰が誰を好きだの、どうのという一番つまらないやり取りの部分をうまく打ち消している。

大学の映研といってもやはり洋画、邦画が主流なんだなぁ。
佐藤忠男という人が書いた『私はなぜアジアの映画を見つづけるか』という本には、アジアの様々な映画が紹介されている。

アジア映画と言えば、香港、韓国あたりしか思い浮かばないだろう。
インドが映画大国であることは良く知られているが、なかなかインド映画を見ることはない。あのモンゴルにだって世界に充分通用する映画作りがなされている。
大学の映研とはそういうマイナーな映画でも研究するのか、と思ったがそうでもないらしい。
まして、これは小説。読者も目にふれることのない映画を背景に書いてもしかたがないか。

この小説のテーマが重たいのか軽いのか、私には判断がつかない。

最近のフリーターや派遣社員の話にありがちな雇用不安や若年者救済的な深刻さはもちろんない。

それでも、考えようによってはそれなりに重いテーマも含んでいるようにも思える。

そんなことは一切お構いなしに、私は軽い読み物として一気読みしてしまいました。

本なんてそんなものでしょう。

軽い気持ちで読むのが、いえ読めるのが一番ですよね。

三人姉妹  大島真寿美 著 (新潮社)



珈琲屋の人々


読み終えた後、なんとなくほのぼのと心があったかくなる話である。

バブル全盛期ではどんなに場末だろうが、金融機関に動かされた地上げ屋が土地を買占めに来たものである。

この物語の舞台となる商店街もバブルの後期に地上げ屋が買い占めようとした場所。
地上げ屋の嫌がらせは嫌がらせの次元を超え、反対派のリーダーだった商店主の高校2年生の娘を集団で暴行して、自殺に追い込んでしまう。
それを吹聴している地上げ屋のリーダーに飛びつき、店の柱に頭をぶつけて死なせてしまった上、殺人罪の懲役を喰らった過去がある珈琲屋のマスター。

弁護士の意見も聞かず、
「本当に殺そうと思った」
「殺意が有った」
「ヤツを殺した事については反省はしない」
を裁判で貫いたため、本来であれば情状酌量の余地が有りとなるところ、そうはならず永い懲役を喰らってしまう。

そんな過去を持つマスターは 「自分は前科者ですから」 と控え目な姿勢を崩さない。

出所してくるマスターと時期を合わせたかの如くに嫁ぎ先から出戻りで帰って来る、幼馴染みの女性。

普段は客の少ないこの珈琲屋に商店街に暮らす人達の問題ごとが持ち込まれる。

それぞれが短編としてまとめっているのだが、この作者の素晴らしいところは、それで結局どうなった、の箇所を書かないところである。
そこから先は、読者のご想像にお任せします、というわけだ。

・クリーニング屋の主人の浮気を知った妻。
その妻が包丁を手にして主人とこの珈琲屋を訪れる。

・生活が苦しく父が自殺を考える父。それを知った娘の女子高生は援交をしてでも家計を助けようとするがやはり出来ない。
その援交を仕切る女子高生にマスターが言葉を投げかける。
前科を持ち、塀の中で人生の一時期を過ごした人間ならではの説得力。

・妻の介護に疲れる年金暮らしも元サラリーマン。
訪問ヘルパーが来る一週間の内の二日だけ、カラオケ仲間と息抜きをする。
そのカラオケグループで知り合ったひとまわり年下の熟女を好きになってしまう。
好きになったとたんに寝たきりの妻に死んで欲しいと思うようになる。
「人を殺すとはどういうことか、教えて下さい」
「人を殺すということは人間以外のものになるということです」
マスターは答える。
さてこの団塊世代の元サラリーマンの下した結論は・・・。

・友人の店で働く、計算高い損得勘定から離れられない店員の女性の話。
    ・
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    ・
それより何より主人公とその主人公を愛する女性との成り行きにしても須く、その先はどうなったの?は常に読者の想像に委ねられる。

読者としてはその先を読みたい反面、これで終わってくれて良かったんだなぁと、納得させられる。

そして、自分は前科者ですから、と言いながらも皆から頼りにさせるこのマスターの暖かさに心打たれる。

この本の帯には「読み終わると、あなたもきっと熱いコーヒーが飲みたくなる・・・。」とある。

ひと昔前の「この映画を見たらあなたもラーメンを食べたくなるでしょう」という伊丹十三監督の映画を思い出してしまうような文字が並んでいるが、あの映画のようなラーメンを極める如くに珈琲を極める話ではない。

居心地のいいのが取り得の商店街の珈琲屋の物語である。

珈琲屋の人々 池永陽 著 双葉社