月別アーカイブ: 3月 2011



天才アラーキー写真ノ法


アラーキーこと荒木 経惟さんが写真について、カメラについて語っている本です。
『事件の火事じゃないときの心の火事を撮る。』なんていう一節が印象的。
写真やカメラに詳しくなくても楽しめる一冊です。

アラーキーの写真というと女性の写真のイメージが強いですが、本の間に挟まれている写真には、海外の街角で笑う親子の写真や、政治家のポートレート、風景写真など幅広い作品を見ることができます。

写真を撮るときには服装が大切だと語るアラーキー。
街やその場の雰囲気に馴染んで、被写体となる人にカメラを意識させないようにしなくてはいけないそうです。

突然カメラを向けられたら、変なポーズをとったり引きつった笑顔になったりしそうですが、アラーキーの写真では偶然居合わせたような人たちが家族に笑いかけるような笑顔を見せています。
また、政治家のポートレートを見ても、選挙のポスターやテレビで見る表情とは違って、一瞬の不意をつかれたような、素を出してしまった瞬間が捉えられているように見えます。
それは果たして服装の効果なのか、なんなのか。

数年前に偶然アラーキーに会ったことがあります。
独特の雰囲気と、個性的な風貌が遠くからでもかなり目立って見えました。でも近くへ行くと、にっと笑った笑顔と、握手したビックリするくらい大きな手にぎゅっとぐいっと引っ張られて、アラーキーの世界に吸い込まれていきそうでした。
あのときの服装は果たして街に馴染んでいたのかは、はっきり思い出せません。
そして周りの雰囲気に馴染んでいたといより、周りの雰囲気を変えたというのが正しいような気もします。

でもアラーキーの言うように、まずは服装を変えてみることで、自分の意識がその場の人や雰囲気に溶け込みやすくなるのかもしれません。

この本を読み終えると、アラーキーが写真を撮るときに大切にしていることや、どうしたら被写体と一体となった写真が撮れるのかがちょっとわかったような気がします。
でも真似をしたからといって、写真がうまくなるわけではないのでしょうが。
アラーキーいわく、アラーキーは身体がカメラで目がレンズになっているそうですから。題名にも「天才」と入っちゃっています。

それでもやっぱり、写真って面白そう、できるかもしれないと思わせてくれる楽しい本です。

天才アラーキー写真ノ法 荒木経惟 著



肥満と飢餓


世界では10億人が飢餓に苦しみ、10億人が肥満に悩む。

貧困に苦しむ世界の農民。その元凶は世界のフード業界の1/4のシェアを上位数社で抱え込むと言われる巨大なフードビジネスコングロマリットの存在。

原産地でキロ当たり十数セントで売られるコーヒー豆、地元の加工業者や流通業者の手を経てもなお、キロ当たり何十セントとドル未満のものが、一旦ネスレへ納入されるとその価格は一挙にキロ当たり16ドルと20倍以上に跳ね上がる。

それは一例。

各国の農民は、フード・ビジネスやら、国やら、銀行やらから借金漬けになっており、それが貧しさから抜け出せない要因なのだという。
まさにプランテーションの頃そのままのことが現在も続いているということなのか。

アメリカの農民にしてもまるで、スタインベックの「怒りの葡萄」の頃のままだと言う。
巨大フード産業も足腰は案外もろい、と筆者は書く。
例えば、原油の値上げなどで足元をすくわれる可能性もあると。

では、今年の1月よりチュニジアから始まった、反体制派デモによる中東地域のデモの頻発により、エジプトも政権崩壊。リビアでは未だに政府対反体制派の抗争が続き、まだまだ、他の中東の国への波及も想定される今現在はどうなのだろう。
原油価格は既に上がり始めている。

昨年あたりより、コーヒー豆などは新興国での需要が増えたことも有り、品薄状態。
オーストラリアの自然災害により小麦の品薄。
それに原油高は他のいろんなものの価格高に繋がることは必須だ。

これらは巨大フード産業にどんな影響を与えているのだろう。
ネスレは早々とコーヒー価格の値上げを発表したが、これはぼったくりをさらにぼったくる、ということなのだろうか。

日本でもこの春からコーヒー、小麦、ガソリンに限らず、かなりいろいろな品が値上げになりそうな気配である。
日本は長期間デフレ脱却を目指していたはずなのだから、少々のインフレに過剰反応する必要はないだろう。
このところのメディアは過剰反応しすぎの感がある。

筆者は従来の途上国の農業水準を大幅に上げたであろう「緑の革命」にも懐疑的である。
「緑の革命」によって化学肥料に頼らざるを得なくなった極貧農家はさらなる借金漬けにされてしまったのだろうか。
その後の遺伝子組み換え技術の話などでは、その生態が何十何百億年かかって築き上げた遺伝子情報をいうものに、ほんのちょっと手を加えただけで、まるで遺伝子情報そのものの特許までを組み換え技術会社が持っているかの如くの態度に憤慨されておられる。

この筆者の主張では「関税自由化が即ち悪なのだ」とも取れる発言が至るところで登場する。

韓国で農業貿易自由化に反対し、抗議の自殺を遂げた農民活動家、イギョンヘ氏の話を持ち出し、それが各国の農民に共通するような記述。
これはどうなんだろうか。
韓国は自由化への道を選択し、そしてその選択の後にちゃくちゃくと勝利をものにして来ている。
農業自由化の際に反対意見があったのはもちろんだろうが、規制緩和・自由化によって、農民に餓死者が出たなどと言う話は聞かない。

規制がある=官の支配強化=官を抱き込んだ巨大企業に有利。
最貧国の官などでは巨大企業の袖の下など、ごく当たり前のことだろうし。
という図式を考えれば、規制が緩和されること即ち、巨大企業以外にも参入の余地有り、ということは考えられないのだろうか。

フード産業についての歴史を読み解く本としては分かりやすく素晴らしいと思うのだが、その主張せんとするところについては、やや個人的思いが強すぎる感が有り、かなり割り引いて読む必要がありそうな本である。

肥満と飢餓  世界フード・ビジネスの不幸のシステム  ラジ・パテル (著), 佐久間 智子 (翻訳)



世界がぼくを笑っても


主人公君、母親は幼い時に家を飛び出すは、父親はギャンプル好きだわ。
父の友人で家へ訪れてくるにはニューハーフだわ・・・と、結構タフな育ち方をした中学生。

その主人公君の中2からの担任になったのがとんでもないダメダメ教師。

赴任挨拶で緊張して卒倒してしまったり。

カンナオト君みたいに手元の原稿を棒読みするだけの授業。

社会見学では引率が自ら道に迷って、生徒や他の先生をさんざん待たせたり・・・。

この中学生たち、このダメダメ教師に、「全くもう」と愛想をつかしながらもなんだか優しく扱ってあげている。

学校の裏サイトならぬ教室の裏サイトなんかがあったりして、
キティちゃんのハンカチを持つってどうよ、とかいろいろとけなされてはいるが、突き放してはいない。

そりゃまぁ、いつの時代にも教師に不向きな人間が誤って教師になってしまうなんてことはあるだろう。

メディアでは現場の教師はこんなに苦労している・・だのって良く取り上げられたりしているが、まぁそういうケースもあるんだろうけど、現場の生徒だってダメ教師に苦労させられたりしている例もかなりあんじゃないのかなぁ。

ひと昔なんかは、学校を何かの集会の場か何かと勘違いしているような教師で一杯だった頃もある。

数学の授業の時間に授業そっちのけで

「沖縄には核が来ているんだ!」

「みんな黙っていていいのか」

いったいどうしろと。

あんたたちやあんたたちの先輩たちみたいにゲバ棒持って暴れろとでも扇動しているのか。
それでいて公立高校への内申書という切り札を握っているのをいいことに、自分に擦り寄って来る生徒には点数を甘くしてやったりと、やりたい放題もいいところ。

ホントにひどい教師で一杯の時代もあったことを思うと案外、オズチャン(このダメダメ教師)ってダメなりに良くやっている方じゃないのかな。

面白いのはダメ教師が担任で何カ月かすると、そのダメダメぶりが生徒にうつってしまう、というあたり。

それによって、すごいことにクラス全体が学校中の他のクラスから苛められるって・・。そんなことって・・・まぁ考えづらいけどあるところにはあるのかもね。
それだけクラスという単位ってまとまっている姿を想像したことが無かったものだから。
クラスの連中の名前は全部覚えられなくても部活の連中の名前を知らないなんてことはないだろう。
部員が100人も居たら別だけど。

クラブの連帯感の方がはるかに強いものとばっかり思っている人間にはクラスの中の連帯感って実感が湧かないなあ。

それだけここでは帰宅部が多いというところか。

あと、クラスへ出て来ない生徒向けに別室登校が有ったりするのも面白い。

そんなダメダメ教師でもなかなかいいところもあったりして。
初日から全員の名前を覚えて来たなんていうのは努力の賜物。

圧巻はダメな教師でも生徒がを育てて行けばいいんだ、という物凄い達観。

うーん!これはすごい。

これがホントウの話を元に書いていたんだとしたら・・・な、わけないけど、なかなかにして今どきの中学生、捨てたもんじゃない。