月別アーカイブ: 2月 2012



恋物語


あの傾物語でとことんカブいてしまってからの後も、作者のお約束通りに3月、6月、9月、12月とそれぞれ花物語、囮物語、鬼物語、で最後に恋物語と出版された。

それぞれのキャラクターが怪異から完全開放されて化物語が終焉して行くものだとばかり思っていた。

花物語では神原駿河のするがモンキーが終止符。
囮物語では千石撫子が終止符・・と。
鬼物語は忍の終止符で花物語で戦場ケ原に終止符がうたれるんだろう、と思っていたが、違った。

花物語では阿良々木君の卒業後が舞台でいきなり飛躍してしまって、傾物語の後にしては、少々肩すかしを喰らったような気分だったが、それなりに終止符。

囮物語では千石撫子が終止符のはずがこのキャラクターに最後の最後まで引っ張られた。

鬼物語は、第忍話 しのぶタイムなどとあるので、忍の終止符かと思いきや、これも違った。あにはからんや八九寺真宵の終止符だった。

少女不十分なんていう10周年記念なんかも間に入ってようやくこの花物語なのだが、なんでここに来て・・・。貝木泥舟が語り部だと。

終わる気ないだろ。

囮物語でメドウサならぬ怪異になったまま引っ張られていた千石撫子がここでようやく終止符なのだが、案の定、巻末にファイナルシーズンの予告の広告が・・。

どのあたりで、完結させるのを諦めたのだろう。
もともとそのつもりだったのか、

やっぱり期間区切ってなんてキツいノルマを自分に課しちゃうから・・。
いつの間にかこのシリーズ、セミファイナルって呼ばれてるし。

まぁ、作者も「100パーセント趣味で書かれた小説です。」って書いているし、読む方も楽しみが先延ばしになった、ということで構わないんですけどね。

冒頭の貝木泥舟の語り。
本に書いてある文章なんてすべてがペテン。
ノンフィクションと帯で謳っていようと、ドキュメントだのルポだのと銘打っていようと全てが嘘だ。

というくだり、なんとなく「少女不十分」にひっかけているような気がしなくもなかった。

わりと人物像が見えにくかった貝木泥舟の新たな一面を見せてくれた、という新鮮味はあるものの、どう考えたってこれでは終われないわなぁ。

やっぱり、ファイナルシーズンとやらもお付き合いするんだろうな。

恋物語 (講談社BOX) 西尾維新 著, VOFAN (イラスト)



北天蒼星


サブタイトルが「上杉三郎景虎血戦録」
そんな大そうなサブタイトルがついているにも関わらず、謙信の後継ぎとして戦国時代を駆け巡った男などでは全然無い。
謙信亡き後の上杉家がさほど歴史の大役を担っていたわけではないことは承知しているのだが、「もしや?」目新しい観点か?という思いがあった。

で、読み始めてすぐに気が付くのだが、景虎?景虎?景虎?あれっ後継ぎは景勝じゃなかったっけ。
そう。
いつになったら天下を賑やかすのだろう、などと大きな筋書きを期待して読んではいけない。
跡目争いの騒動だけで、これだけの長い話を成り立たせてしまっているのだから。

元々この景虎という人、北条の人なんですね。
北条氏康の子に生まれながらも僧侶への道を歩まされそうになるのを、寺を抜け出してでも武士になろうとする。
そうしたところに越後、相模の(上杉と北条の)同盟話が持ち上がり、その証として越後へ赴く。
言わば人質だ。

妻を娶らない謙信に息子はいない。
それでも後継ぎ候補に甥がいるにも関わらず、その人質を後継ぎ候補NO.1にしてしまう。

この景虎と景勝の跡目争いの戦い、景虎に勝機が無かったわけじゃない、どころか、ずっと敵よりも有利な立場にあって、何度も勝てる場面を逃し続ける。

景虎と言う人、どうも他力本願なのだ。
北条から来たから自身の兵を持たない。

だから持ち上げてくれる家臣団に頼らざるを得ないような解釈で話は進んで行くのだが、曲がりなりにも謙信の後を継ごうという意気込みがあるから戦っているのではないのか。

馬上から声をかけて来るような無礼な家臣は一喝すればいいだろうし、「武将が自分勝手に判断して攻め込むのが越後の戦い方」などと変な割り切り方をして結局、敗戦敗戦を繰り返す前に何故、自身が先頭に立って指揮を取らないのか。

所詮は将の器では無かった人ということなのだろう。

作者は景虎をとことん「善」、景勝をとことん「悪」と描くが、この戦い方や家臣へのおもねりでは、この戦いにいくら勝ったところで、この将では上杉はその代で滅んでいたのではないだろうか。

悪人として描かれた景勝は、といえばその後、豊臣の五大老の一人となり、関ヶ原の後は外様となるものの、江戸時代の赤穂浪士の討ち入りの時にだって、吉良上野介は上杉を頼りにするほどに力のある大名として家は永らえる。

数年前のNHKの大河ドラマで直江兼続が取り上げられてたっけ。
結局、数回しか見なかったが、あれはあれで、いくら直江兼続の兜に愛の字があるからって、民のため家族のために愛を貫くだのって、良くもまぁ恥ずかしくもなくあんな展開が描けたものだ。
最近の大河ドラマはホントに嘆かわしい。
平清盛はどうどうと白河法王の落とし胤で確定みたいなところから始まってしまうし・・。
昨年のお江の方なんて現代ドラマを歴史ものに焼き直しただけかい。みたいなつくりだし。
もはやあそこまでやるなら、よくドラマのエンディングに映し出される「この物語はフィクションであり・・」っていうやつ、絶対に出すべきだろ。
「このドラマは実在した人物を元に描いたフィクションであり、実際の歴史的事実とは無関係です。なんら根拠資料はありません」ぐらい流しておいて欲しいものだ。

とはいえ、この本も謙信から後継ぎに指名されなかった景勝が小姓で陰謀をめぐらせると天下一品の少年、樋口与六(後に直江家を継いで直江兼続となる)のはかりごとを用いて謙信を殺してしまうという展開、まるで大河ドラマ憎しとばかりに・・・。ちょっと作者さん作っちゃいましたか。

北天蒼星 上杉三郎景虎血戦録 伊東潤 著



三国志(三)(四)


第三卷の前段は、第二巻同様に後漢時代の腐敗が続く。
第十二代の霊帝という人、官位を金で売るという金の亡者ということが書かれているのだが、どうもわからない。
その国を統べる皇帝でありながら、金を欲するとはどういうことなのだろう。
外国との貿易が盛んな様子も描写にはない。
この霊帝という王はどんな時に、誰に支払うためにそんなに金が必要だったのだろう。

霊帝亡き後に、永らく続いた宦官の時代は終わりを告げる。
宦官は尽く抹殺される。

そしてその次に現れるのが、まるで第二巻の梁冀の再来の様な董卓という男。

この董卓の登場を持って、後漢の時代は終わったと宮城谷氏は書いている。

霊帝の次の少帝を廃して弘農王とし、そのその弟の献帝(陳留王)を擁立したばかりか。先の帝であった弘農王を殺害。その母である何太后も殺害。
政権を掌握する前までは黄巾との戦いなどでも、決して前面には出ず、安全な場所に居て、自らの兵の安泰のみを図って来た男。

何故、そのような男が政権の座に居座り続けられたのか。

董卓許すまじ、と袁紹や袁術の元に諸将が集まるが、討ちに行こうとするよりも自らの地位や権力を拡大することに腐心してしまう。

方や政権内ではどうか。
董卓は王朝の権威を重んじる人の勤皇の心をうまく利用してしまう。
数々の武勲を立てた皇甫嵩などの名将も王朝の権威を重んずるばかりに自分より上の位に立った人物を討伐しようという発想が無い。

実際に宦官達を倒したのは董卓ではない。
董卓はたまたまそこに居合わせて、たまたま権力を握ってしまった。
たまたま拾った権力だから、そんなことになるのか。

富豪の家をことごとく襲って金品を奪う。
またある村では男を全員皆殺し。
女は凌辱し放題。

何故か、中国の歴史にはこのような男が何度も登場する。

日本の戦国時代をはじめ各時代で権力を握った人がこのような野盗のようなことをした例があるだろうか。
織田信長が叡山焼き討ちをしたからと言って彼は野盗だっただろうか。
楽市楽座を開き、旧来の権威を破壊することで新時代を切り開こうという国家運営の指針があったのではないか。

それに比べて梁冀といい、董卓といい、あれだけの広大な国を支配出来る立場にいながら行っていることは尽く野盗のようなことばかり。

董卓を野盗と言ってしまうと、野盗に対して失礼にうなるかもしれない。
なんせ、人を殺す時に舌を抜き、目をえぐり、熱湯の煮えた大鍋に放り込んで、それをみて笑って平然と酒を飲んでいるというから尋常な所業ではない。

人間、悪いところがあれば良いところもあるだろうに、と思ってしまうが、この有り様はもはや人間ではなく悪魔そのものだ。
宮城谷氏はあくまでも史書を忠実に、とことん読み込むことでその時代の風景が見えるようになり、その風景を著して読ませてくれるのだから、そのそもの史書に善行の記述の無かった人間の善を勝手に探し出して書いたりはしないということなのだろう。

第四巻に入ると、さらに混とんとした状態となる。

董卓は、一番信頼していた者に誅殺される。
董卓が誅殺された際に、その子孫、妻妾や親戚はおろか、90歳の母親まで命乞いも虚しく切られる。
この時代に90歳というのは、ちょっとすごくないのか。
はるか後の中共になった頃の中国よりこの時代の方が平均寿命は永かったりして。

そして、また誅殺した側も三日天下とばかりにすぐに討たれる。

天下の12州にはそれぞれ州牧(州知事みたいなもの)が任命されたわけでもなく名乗りを上げ、それぞれの州を修め、他へ攻め入ったり、同盟したり。

春秋時代のようか、と言えば全く異なる。

春秋の時代は晋、楚などの大国や、鄭、衛などの小国が入り乱れて、それぞれが攻め入ったり同盟したりするが、それぞれの国は独立した国であって、それぞれが王を戴いていた。

それに比べるとこの第四巻のような端境期、群雄割拠の時代ではあるが、群雄達は自ら王となるのではなく、王朝に全く尊敬の念は無くとも天子を担ごうとするか、王朝とは別の天子を担ごうとするか。

だから支配体制としての後漢は終焉していたかもしれないが、時代としてはまだ漢王朝の呪縛から抜け出せないそんな第三卷と第四巻なのでした。

三国志 第3巻 第4巻  宮城谷昌光 著 (文春文庫)