月別アーカイブ: 6月 2012



ヒア・カムズ・ザ・サン


同じような設定で登場人物が若干変わり、同じ登場人物も少しキャラクターが変わっていたりする。

一作目では、編集者に勤める主人公は、幼い頃より感が強く、触れた物からその持ち主の思いが伝わったりでする。
編集者という立場で小説家と向き合うにはかなり有用な能力だろう。

同期入社のカオルの父親が20年ぶりにアメリカから帰国する。
ハリウッド映画の脚本を手掛けた人なのだという。

その人の手紙の書いた手紙に触れた瞬間、主人公氏は衝撃を受ける。

もう一作が、ヒア・カムズ・ザ・サン Parallel。
パラレルワールドというわけではない。
設定そのものが異なる。

こちらの主人公も同じ名前の人物で同じ様に編集者。
こちらの主人公は、どうやら能動的にみようとしてはじめて触れたものからその物の過去の風景そのものを見ることが出来てしまう。
こちらもカオルという女性が登場するが、こちらは主人公氏の婚約者として登場。

同じようにカオルという女性の父親が同じく20年ぶりにアメリカから帰国するのだが、こちらの父親は一作目の父親と違って、大法螺吹きの男。

・主人公は30歳。編集者。
・物を触るとそれに残された人間の記憶が見える。
・同僚のカオルと共に成田空港へ行く。
・カオルの父が20年ぶりに帰国する。
・父はハリウッド映画の仕事をしている。

そんな設定(具材)を与えたなかで、作家が料理をするという趣向らしいのだが、無理に設定を与えるということは作家の自由な発想転換の機会を逸してしまい。
そんなものの書か方というのはいかがなものなのだろう。

無理やりストーリーをはめて行く中でどうしても無理が出て来てしまう。

一作目にしたって、無茶苦茶優秀、芸術的なほど激烈で・・とはいえ、脚本家という仕事だ。
脚本を書く人間が20年放ったらかしの娘の気持ちを読めないような有り様で優秀な脚本など書けるのか、などと思ってしまう。

寧ろ音楽家だったり、画家だったりという本来の芸術家の方が激烈な個性に当てはまるのではないか。

もう一つは語学の壁。
役者なら、まだ語学の指導も付けられるだろうが、脚本家に語学の指導など有り得ないだろう。
成長期をとうに過ぎて、結婚して、子供までいる年齢になってから、身につけた語学で脚本などという肝が書けるだろうか。
大人になってからのビジネス英語ならなんとかなっても、言葉のやり取りの機微など表現し切れるのだろうか。

この二つの話、文芸雑誌かの一章として書かれているのを、たまたま見つけたとしたら、あぁ、いい話を読ませてもらった、とすごく得した気分になるのだろう。

ところが、「有川浩の単行本」として読むと、もっともっと期待していたのに・・という感はが残ってしまう。
まぁ、いい話ではあるのだが・・・。


ヒア・カムズ・ザ・サン 有川 浩 著 (新潮社)



テロル


イスラエルの病院に勤めるアラブ人の外科医。
ベドウィン族の出でありながらも苦労してイスラエルの国籍を手に入れ、富裕層の暮す一帯に住宅を構え、妻にも何一つ不自由をさせていない。

ある日、勤務先の近所で自爆テロがあり、彼は運びこまれる怪我人に治療を行うのだが、死者数十名。
その大半がファミリーレストランでパーティを開くはずの子供達だった。
そしてその死者の中に彼の妻が居た。
あろうことか、警察は自爆テロを起こしたのは彼女だという。

そうしてこの医者の真実を巡る旅が始まる。

実際にこのテロを起こしたのは彼の妻であることがわかってくるのだが、彼にはどこまで行っても納得出来ない。

この本、方や強制収容所で殺されたユダヤ人達の悲惨な過去を生き延びた老人の口から語らせ、方や民族の国家を失われ、戦車で蹂躙されるパレスチナの人達のからその苦渋を語らせる。

主人公の医者はベドウィン族でありながら、イスラエルに帰化した者として、アラブ側から言えば裏切り者であり、背徳者であり、神を持たない者であり、嫌悪するべき存在。

方やイスラエル側には親しい友人は居るとはいえ、至る所でアラブの犬ころやろう扱い。
まして妻が自爆テロを起こした、ということで自分の家を一歩出れば袋だたきにあう。

ヤスミナ・カドラのもっと後の作品「昼が夜に負うもの」の中に登場する主人公はアルジェリア生まれのアラブ人でありながら、西洋人の行く学校へ行き彼らと親しく育つが、アルジェリア戦争が本格化すると中途半端な立場に立ってしまうのと立場的には若干似通っている。

この主人公医師は怪我人を治す立場としても、何の罪もない子供達を自爆テロで殺していい理由などあるはずがない、と思い続けるが、自らの土地を奪われた側にすれば、彼の妻は聖女となり、彼は自らのアイデンティティを失った憐れな男となる。

訳者は「あとがき」の中で作者はユダヤ側にもイスラム側にも肩入れをせずに淡々と書いている、と言うが、主人公医師が「何故だ」と嘆く中、それを批難する形で徐々にヤスミナ・カドラは、イスラム側へ肩入れしているように思える。

第二次大戦の中で、最も無策中の無策と言われる神風特攻隊。

その無策であるはずの神風方式を受け継いだのが、アラブ系のムジャヒディン達。

この本でも自爆テロのことを「カミカゼ」「カミカゼ」と呼んでいる。

確かにテロの惨劇を起こしたからと言って、土地を奪われた人々にメリットがあるわけではないだろう。

だが、自分から起こした戦争で負けて奪われたのでもなんでもない。
ある日突然、ユダヤがやって来たのだ。
ある日突然、ユダヤに与えられたのだ。
自分達の先祖父祖の地が。
彼らには他人の蔑視や自己嫌悪の中で細々と生き永らえることを良しとしない。
品位か死か、尊厳か死体か。
彼らにはかつて無策であるはずの「カミカゼ」こそが、最も彼らの心情にフィットするものなのかもしれない。

憎しみの連鎖は止まりそうにない。

テロル  ヤスミナ・カドラ/著 藤本優子/訳 早川書房<br />” width=”63″ height=”90″></P></p>
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マスカレード・ホテル


いつでも映像化して下さい感が満々な本だ。

配役が決まっている、と聞いても驚かない。

東京で起きた三つの殺人事件。
各々、加害者にも被害者にも接点は見当たらないのだが、犯行現場に残された謎のメッセージ。そのメッセージの共通性からこの三つの繋がらない犯行が連続殺人事件として取り扱われる。

各々のメッセージの中には次の犯行場所まで埋め込まれており、そして次の犯行場所として犯人が予告しているのが、この話の舞台となる高級ホテル。

推理小説としての流れは、まぁ読んで頂くとして、それより何よりホテルのお客様に対するサービス。
このホテルのサービスに対する情熱は並みのものではない。

そのサービス第一のホテルへ従業員に扮した刑事が張り付くというのだから、ホテルのスタッフにとっては溜まったものではない。

人に対する扱いや思いが正反対の人間がその正反対の仕事をする。

「いかにしてお客様に居心地の良さを提供するか」を思う人達の中に、人を見たら泥棒だと思う人間が入り込んではいびつに過ぎるだろう。
しかも、それがフロントとなれば目立って仕方が無い。

ところが、この刑事、日に日にホテルマンとしてプロらしくなって行く。
彼の指導係がそのフロントスタッフの女性なのだが、この人のホテルに対する思いも尋常ではない。

ちょっと文句が出ればルールを変えてしまうのはおかしいでしょう、という潜入刑事に対し、「お客様がルールブックです」と言い切る。

それにしてもホテルマンらしくなった刑事扮するフロントマンが、とある顧客のクレーム対応をするシーン、あれはいくらなんでもやり過ぎだろう。
お客様はルールブックだから、とほとんど言いがかりに等しいことまでもまともに言いなりになってしまってはホテルだっていくら人出があっても足りなくなってしまうだろうに。

「いってらっしゃいませ。お客様」
「お帰りなさいませ。お客様」

このセリフ、三谷幸喜の映画 『THE 有頂天ホテル』 を思い出させる。

そう、その映画でしか思い出せないということは、実際にはお目にかかったことがないのだろう。

それなりに出張やらでホテルを利用しているというのに。

やはり、それなりのサービスを受けるなら一流ホテルに、ということなのだろう。

マスカレード・ホテル 東野圭吾著 (集英社)



降霊会の夜


郊外の森に住む団塊の世代の初老の男が毎晩、同じ夢を見る。
同じ女性が現われて、過去への懺悔を求めている様子なのだが、男は夢の中で言う。
この歳まで生きて、悔悟のないはずがない。それらを懺悔して贖罪するなどあまりにも都合が良すぎるではないか、と。

そんな彼が降霊会に招かれる。
振り返る過去の時代は二つ。
一つは、彼の小学生時代。もう一つが大学生時代。

それにしても小学校の一学年のたった一学期だけ、という短い付き合いの転校生のことが良く頭に残っていたものだ。
いや、普段はとうに忘れ去っているが、降霊会という場が思い出させたという方が正確か。

戦争が終わって、さぁ復興、という波にうまく乗れた人と乗り遅れた人の差。
うまく乗れた人が主人公氏の父親で乗り遅れた人がその転校生の父親。

方や、瀟洒な家に住み、都心で会社を経営するプチ・ブルジョア。

方や、空き地にバラックをおっ建てて、トタンを被せただけのボロ屋住まい。
ボロ屋というよりは、ただの空き地に住んでいるのだから寧ろホームレスに近い。
母親はニコヨンと呼ばれる、日給240円の日雇い労働者。
父親は普段はパチンコ屋通いの当り屋稼業。
当り屋と言っても自分の身体を使うならまだしも子供の身体を使って当り屋をする、とんでもない親を持つ子。

そういう霊に主人公氏は懺悔しなければならないことの一つでもあったのだろうか。

小学時代の近所の警察官の霊が現われて主人公氏に言う。
人間は嫌なことを片っ端から忘れていかなければ、とうてい生きてはいけない。
でも、そうした人生の果ての幸福なんて信じてはならない、と。

忘れてしまう罪は、嘘をつくより重い、と。

それを当時小学生だった主人公氏に言うのは酷すぎやしないか。

いや、高度成長時代にも貧富の格差はあったとか、貧困はあった、とか、そんなことは当り前だ。
ただ、仕事など探せばいくらでもあった時代に、自ら「くすぶり」だと決め込み、「せっかくやろうと思ってた矢先なのに」と、まるで子供の駄々のような理屈をこね、悪いのは他人で、世間で、時代だとばかりに怠惰な暮らしを決め込んだその転校生の父親こそ、どうしようもない。

方やの大学生時代は、まさに学生運動の真っただ中の時代。
ゲバルトもノンポリもフーテンも含めて、自分達が地球上のほかのどこにも、歴史上のどこにも存在しないぐらい稀有な人種であることに気が付いていなかった、と当時のやりたい放題だった自らの学生時代を振り返る。

ここでも主人公氏は一人の女性を忘れ去ってしまっていたわけなのだが、小学時代の回顧にせよ、大学時代にせよ、あたかも高度成長を否定しているかの如くに読めてしまえそうな箇所がいくつもある。
だが、著者が言いたいのは、そんなことではないだろう。

著者は忘れ去って捨て去ってしまったものを、今一度振り返って見つめ直してみよ、と言いたいのかもしれない。

浅田氏の本に霊のようなものが登場するのは少なくない。 だが、これは少々重たいなぁ。

降霊会の夜  浅田次郎著 朝日新聞出版



カブールの燕たち


旧ソビエト軍がアフガニスタンに侵攻して以来というもの、アフガニスタンの人々に安寧が訪れたことなどあったのだろうか?

人々の心は、すさみきっている。
街を無気力が支配する。

この話の舞台は、ソ連がアフガン侵攻をあきらめて撤退した後、アフガン内部での熾烈な内戦。その中から台頭して来たタリバン勢力でがカブールを制圧後、徐々にその勢力圏を広げ、ほぼアフガン全土へと勢力圏を拡大していこうとしている、そんな頃のアフガン首都カブールが舞台になっているお話。

二組の夫婦が登場する。
三人も四人も妻を持つ人がいるような中で、この夫婦は双方共、一夫一妻。

方やの夫婦の亭主は拘置所の臨時雇いの看守。妻が病気で毎日イライラばかりしている。
方やの夫婦は夫も妻もソ連侵攻前のカブール大学に通っていたのだろう。
その当時のカブールは、イスラムのにおいの薄い街で、特にカブール大学あたりでは、欧米の一流大学並みの教育を受けた人が多く、自由の空気を浴びていた人が数多く居ただろう。
特にこの妻は、チャドリを頭からかぶるなどと言うのは屈辱以外の何物でもないと思っている人なので、かなり若い頃の自由の気風が抜けないのだろう。

この本のタイトル、「カブールの燕たち」の燕とはチャドリで全身を覆ったカブールの女性達を意味している。
タリバンなどのイスラム原理主義者達が支配する街では女性は、一人前の人として扱ってももらえないし、男女が人前で口を聞くことも、笑うことも手をつなぐことすら許されない。
要は家でじっとしていろ、というわけだ。

この本はタリバンを糾弾している。

欧米のジャーナリストがアフガンを取材してタリバンを糾弾することは、彼らの常識から言ってままあることだろう。
だが、この作者、アルジェリア生まれのイスラム教徒なのである。
イスラム教徒でも西欧的な高等教育を受けた人にしてみれば、同じイスラムでも原理主義者の方がキリスト教徒よりも遠い存在で、原理主義者がいるからこそイスラムそのものが忌み嫌われる、そういう意味で著者にとっては原理主義者は迷惑な存在なのかもしれない。

タリバン=悪、一般的に、世界的になにかそういう公式が刷り込まれている様に思えてならないが、当時のアフガンでカブールほど西欧的な空気を味わった町は別にして、ほどんどの町や村で望まれたことは何より、内戦の終結。
タリバンの台頭による治安の回復を何より喜んだのではないだろうか。
タリバンがあれだけ短期間にあの広いアフガニスタンという国の制圧範囲を広げられたのは何より地域地域で歓迎されたからに違いないのだと私は思う。

この原著が出版されたのが2002年。
アメリカによる空爆は既に2001年から始まっている。
執筆時は丁度、9.11の手前だったのかもしれないが、ウサマ・ビン・ラディンを匿っているのか?の問いかけにYESともNOとも応じなかっただけで、世界の敵の扱いを受けることになるタリバン達を敵たらしめるには同じイスラム教徒が書いた本書は大いに利用されたかもしれない。
「国際IMPACダブリン文学賞」などという賞の受賞もその一環と思えなくもない。

本の中にはそんな詳細記述はないが、あらためて振り返ってみるに、ソビエト侵攻前に大学に在学して、となると1978年より前。その後タリバンがカブールを治めるまで20年弱。

自由な大学を去ってからほぼ20年間もの長期に渡って、戦禍の中にいて尚、チャドリを拒否するだけの自由を追い求める気持ちを持ち続ける女性が存在し得るのか。
そして学生時代に男子学生を魅了した女性が20年経って尚、素顔をさらすことで男を魅了してしまうほどの魅力を持ち続けて来られるものだろうか。

ジェンダーフリーとは正反対のイスラム原理主義タリバン政権下での女性達を描いた話なのだが、存外、女性の強さを書いているも物語なのかもしれない。

カブールの燕たち   ヤスミナ・カドラ (著)  香川 由利子 (翻訳) <br />”  width=”60″ height=”90″></p>
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