月別アーカイブ: 10月 2013



完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯


これを読むとあらためてチェスというゲームがいかに世界ではメジャーなゲームなのかを思い知らされる。
日本では将棋、囲碁のルールを知っている人はそこそこいるだろうが、チェスの駒の動かし方を知っている人となれば、そうそういないのではないだろうか。
ましてや、今のチェスの世界チャンピオンが誰かなど、ほとんど知られていない。

この本、そのチェスの天才の生涯を描いた本である。
ボビー・フィッシャーという人で、6才でチェスをはじめ、7才の時にその手筋を認められ、大人しか入れないような有名なチェスクラブに会員としての出入りを許される。
寝ても覚めてもチェス三昧。何千、何万という過去の棋譜をまる暗記してしまい、とうとう14才の時に全米のチャンピオンにまでなってしまう。

その当時の世界の強豪は社会主義人民共和国だった頃のソ連で、フィッシャーは何度か世界の壁に挑むが、ソ連の総力戦を前に悔しい思いをする。

囲碁・将棋の世界ではなかなか考えられないが、チェスの世界では「引き分け」というものがある。
あらためて、チェスボードにむかってみると良く分かる。
将棋のように取った駒を使えないので、お互いの駒は盤上から減って行く一方なのだ。
双方共、攻め手を欠いたまま、どんどん駒が減ってしまってはしまいに、手が無くなってくる。
従って引き分けというルールは考えてみれば必然か。

引き分けはどちらかが、引き分けを持ちかけて相手が受ければ成立する。
ソ連の棋士達は引き分けというルールを使うことでお互いを助け合うことが出来る。

そんな不利な状況の世界大会をいくつか経た後に、ついにボビー・フィッシャーは世界チャンピオンの座を手に入れる。

冷戦時代のことだけにアメリカ国民は熱狂だ。

だが、この人、この後がひどすぎる。
いや、それまでも結構、我がままで傍若無人だったが、もっともっとこの後ひどくなる。
3年に一度の防衛線で、戦い方のルールを変えようとするが通らずに次の防衛線を迎えることなく、チャンピオンの座を放棄。
以降、20年以上にわたる空白期間の後に持ちかけられたのがユーゴスラビアで開催されるかつての世界戦を戦った相手との一局。

かつての世界チャンピオンというのはそこまで偉いのか?と思わせるほどに凄まじい注文を開催者側につきつける。
カメラは何十メールより後方から撮ること。チェス盤や駒への交換指定ぐらいならまだ普通だろうが、備え付けのトイレをあと何センチ上に上げろ、だの、もうまさに中世の王様。

ただ、この時期のユーゴスラビアはボスニア問題で紛争の真っただ中。
アメリカは経済制裁の最中だっただけに、フィッシャーへ参加を見送るように再三持ちかけたのだが、フィッシャーは強行してしまったので、以降アメリカ政府から起訴される立場となり、最後までアメリカから逃げ回る。

言動がひどくなるのはこの頃からで、自らがユダヤの血を引く者でありながら、ユダヤ人に対する差別的発言、軽蔑的発言を繰り返す。それがエスカレートして行き、ホロコーストはユダヤ人のでっち上げだ、とまで言い出す始末。

起訴されてからというもの、アメリカへの非難もだんだんエスカレートして行く。
自らの血統のユダヤを徹底的に非難し、自らを育ててくれたアメリカを非難する。
非難対象は何も国や民族ばかりではない。
彼は、彼の名前や映像を使って儲けようとした人全員に敵意を向ける。

ごくごく親しかった人、親切にしてもらった人、みんな何かの時には味方になってくれそうな人々に対して、自分が受け取るはずだった金を返すよう要求してみたり、発言が気に入らなくなったりで、自ら敵意を持って遠ざけてしまう。

9.11テロの時に、アメリカざまーみろ的な発言をメディアに流してしまったのは致命的だ。あの9.11に拍手したのは当時のアフガン、イラク、イランやパキスタンなど中東のイスラム原理主義者たちか、フィッシャーぐらいのものじゃないだろうか。
さすがに放置していたアメリカも彼のパスポートを無効化し、滞在していた日本から飛び立とうという時に、日本の入管に捕まり、以後6ヶ月の間日本で拘留される。
日本にチェスの元世界チャンピオンが拘留されていたなんて、大半の日本人は知らない。

アメリカへの強制送還だけは避けたい彼を喜んで迎え入れてくれる国などどこにもない。
ロシアはかつてさんざんインチキチェス、と称して批判して来ているし。
アメリカやユダヤを批判する立場を取ったからと言っても彼自身がユダヤ人なのだから、中東のイスラム国家が喜んで受け入れるはずがない。
ホロコーストを嘘だ広言する彼だけはヨーロッパの国々も受け入れたい人ではない。
自らの発言、行動で世界のあこがれの中心だったはずの人が、見渡せば世界中を敵にしてしまう、という不思議さ。

唯一、受入れを表明してくれたのが、彼が世界チャンピオン戦を戦った地であるアイスランド。

アイスランドはかつて彼にチャンピオン戦を戦ってもらったおかげで、世界にその名が知られた、と彼に恩義を感じてくれていたのだ。

そんな大らかな気持ちの国のアイスランドに対してすら、彼は悪口を言い始める。

被害妄想過多で、金の亡者で、自己中心的で、独善的で、人を罵る、蔑む、憎む、人を信用しない、信用出来ない、差別主義者で・・・とチェスの天才であることを除いてしまえば、全く何にも取り柄の無い最悪の男だろう。

フィッシャーの没年は2008年だが、フィッシャーにしてみれば日本も憎むべき対象に入っていた。
もし2011年まで生きていれば、あの3.11大地震大津波の時も言ったに違いない。
「ざまーみろジャップめ!」と。

完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯 フランク ブレイディー (著), Frank Brady (原著), 佐藤 耕士 (訳)



湖底の城


元は楚の国の重臣の息子でありながら、呉の国に仕え、武人、政治家として名を残した伍子胥という人の話。
第一巻から第四巻までを読んだが、話はまだ完了していない。
第五巻以降はまだ発売されていないのだ。

これまでの出版タイミングをみる限り、おそらく来年の発売になるのではないだろうか。

「湖底の城」という本、宮城谷氏にしてはかなり創作が多い方だろう。

もちろん過去の「孟嘗君」などもかなり創作が多かっただろうし、他の著作ももちろん史書にあることだけでなく、創作を混じえていることは確かだろうが、他の作家と比べると、かなり史書に忠実で、その史書にない箇所をおそらくこういうことだったのではないか、と想像をめぐらせた上での創作だったろうと思う。

第一巻では楚の国の中で兄が統治する呉の国に最も近い邑へ赴くのだが、その道中でも出会う人が皆、将来大物になる器だと一様に言っていたり、兄の臣下を集めるために武道大会のようなものを開催したり、その中の闘いぶりから、英傑を選抜したり・・と、他の作品のような「何々の史書の中によると」という記述がほとんどないので、大半は創作なのだろうと勝手に想像してしまう。

同時並行で書かれていたであろう「三国志」などに比べるとその違いは顕著だ。
「三国志」の中でも思い入れの強い人への表現や、個々の記述は創作だろうが、基本的に史実(史書に記述のあるもの)に沿って書かれている。

史書にはこうあるが、実はこうではなかっただろうか、などと言う書き方も数多あり、そのあたりの史書の裏を読んだり、史書に記述の無い箇所や風景をまるでタイムスリップでもして来て見て来たかのように埋めて行くのが宮城谷作品の真骨頂だ。

それに比べると、この本はかなり勧善懲悪がはっきりしすぎていて、宮城谷作品の中ではわりと軽い読み物の部類だ。

父と兄をおとし入れた費無極はもちろん悪玉。費無極の言いなりの楚王もとことん悪役。

父と兄が牢に入れられているところを奪取しに行こう、と潜入するあたりや父と兄が処刑されるところを救出しにいうあたりは完璧に創作だろう。

多くの人が書いてきた三国志だけに宮城谷色ならではの三国志を描くのはかなり骨の入る作業だっただろう。そのさなかの息抜き的な作品、と言っては言い過ぎだろうか。

と、書くとまるで「湖底の城」をけなしているように思われるかもしれないが、どうして、これはこれでやはり面白い。

巻末に物語とは関係なく呉と言う国と仏教の関係を解説しておられるのも非常に興味深い読み物である。

如何せん、まだ途中なのだ。

第五巻で完結するのかどうかもわからないが、第五巻が出版された時にこの面白さの余韻を残していられるだろうか。

たぶん、最初から読み直さなければならないのだろうな。

湖底の城 -呉越春秋- 宮城谷昌光著 第一巻 ~ 第四巻



機械男


生身の身体より機械を愛してしまった男。

会社の研究室に勤める研究者の物語。

ある時、職場での事故がきっかけで片足を失ってしまう。

そして義足をつけたのがそもそものきっかけ。

彼は、こんなに科学が進歩しているのになぜ世の中にははこんな義足しかないんだ、と憤りを覚え、自ら義足を作成してしまう。
それはもはや義足という域をはるかに超えていて、モーターの付いた自走式のもの。

彼の科学者としての探究心はそこでは止まらない。

片足だけ優秀でも仕方がないじゃないか、ともう一本の生身の脚も機械かするべく切断してし、やがて手も・・・・。

主人公のこの一連の探究心が、今度は会社の闘志に火をつけてしまう。

彼のプロジェクトに参画させるべく人員を増やし、予算を増やし・・・。

やがては・・・・。

似たような話はアメリカ映画にはいくつかある。

「ロボコップ」などは本人の意に反して、「アイアンマン」などは自らの意思で・・。

だがどれともちょっと異質なのは、この主人公の性格だろうか。

自ら作るものが生身の身体よりも優れたものだと疑わない。
自らの身体を削ってでも機械化する方を選ぶ。

彼の最終到達地点はなんだったのだろう。

最終到達地点は生無き生なのでは無かっただろうか。

機械男 マックス・バリー 著(Max Barry)  鈴木 恵 (訳)