読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



寿フォーエバー


とっても時代錯誤のような結婚式場。

寿樹殿という名前からして昭和の臭いがぷんぷん。

いや、昭和が嫌いと言っているのではない。
寧ろ平成より好きかも・・・
ただ、少々ずれている、と言っている。

正面玄関の一隅にある「ときめきルーム」だの、ピンクのハート型のテーブルだの・・・それどころか、上空から見れば、建物がハート型。
今どきゴンドラがある式場って・・・。

3階建てで上に行くほど狭くなる、ウェディングケーキを模した形状なのだという。

いやいや昭和全盛期だってこんな恥ずかしげな結婚式場はそうそうないだろう。

外壁がピンク色ってどうなんだ。
夜中にライトアップすれば、まさにラブホテル。

当然ながら、時代遅れの感は否めず、もっとはるかに規模は小さいがデザイナー達がプロデユースしたというフランス料理をメインにする新手の式場にどんどん人気を奪われて行く。

そんな結婚式場で結婚相手どころか彼氏もいない女性がいちゃつくカップルの結婚式の相談にのっている。

なんなんだ、この物語は?とかなり訝しげな気持ちで読んで行くうちに、だんだんとこの時代錯誤の寿樹殿に親近感が湧いて来るから不思議だ。

主人公の女性は、そんな時代錯誤の式場にあって、子供の一時預かり所を併設するプランを企画してみたり、メインの料理が無いなら、新郎新婦の故郷にちなんだ地方の料理をメインにするという毎回料理が変わるプランだとか、いろいろとアイデアを駆使する。

少年が現れて、まだ結婚式を挙げていない父親と母親の結婚式を二人に内緒で準備をしてくれだの、母親をゴンドラに乗せたいだの、お金が無いので模擬式をそのまま結婚式にあててしまうカップルだの・・・。

そんな彼らをここの人たちは温かく祝福する。

そう。この話、本当の祝福を。
祝福するとはどういうことなのかを、ちょっと変わった舞台を用いて著しているのです。

寿フォーエバー  山本幸久 著



八日目の蝉


ざっとあらすじ。
愛人の子供をあきらめたことで子供が作れなくなった希和子は、愛人宅へ忍び込み、発作的に愛人とその妻の子供を誘拐して逃げてしまいます。
警察から身を隠すため怪しい宗教団体に身を潜め、その団体を出てからも見つからないように生活しますが、3年半の後に逮捕されます。
物語は誘拐された子供、恵理菜の物語へと続き、理菜も希和子と同じように妻子ある人の子供を身ごもってしまいます。
そのとき恵理菜は何を思うのか・・・というようなお話。

愛人と愛人の妻への憎しみ、そして子供を持てなくなったことで余計に強くなってしまった母性が爆発して、子供を誘拐してしまった希和子。
トイレで髪を切り、一人の女性として幸せを望んでいた日々にもう戻れないことを感じたのか、愕然とします。
誘拐した子供を「薫」と名づけ、親友や見知らぬ女性の家、宗教集団を転々とします。最初は逃亡する難しさからで薫を置いていくことも頭をよぎりますが、薫と過ごすうちに母親としての愛情が芽生え、薫との日々を守りたい一心で逃亡するようになります。
希和子のしていることは大きな犯罪ですが、希和子のつらさ、そして薫に対する愛情の強さが伝わってきて、読み進むうちに希和子の気持ちに寄り添ってしまうようになりました。
でも誘拐された子供にとっては許せる話ではない。
母親だと思っていた人と突然引き剥がされて、本当の母親という人の元へ連れて行かれ、そこからついに馴染む事が出来なかった子供の気持ちを考えるといたたまれない。

とても心が痛くなる物語なだけに、どこかに救いはないかと探しました。

そして考えたのは「母性」について。

母性の強さが犯してしまった犯罪かもしれないし、母性によって希和子は薫を自分の娘として愛して、母親としての幸せを感じることができた。
愛人の妻に「空っぽのがらんどう」だといわれたことを希和子はずっと許せなかったのですが、逃亡している間、薫の存在によって自分からあふれてくる愛情を実感して、「空っぽのがらんどう」という言葉から解放されていたのかもしれない。

そして薫(恵理菜)も母親になることによって何かを許せるようになるかもしれない。

重く辛いテーマでも、最後に何か明るい光を感じられたのは、「母性」の持つ力に希望を感じられたからかもしれません。

八日目の蝉 角田光代 著



コンニャク屋漂流記


このタイトルからして、こんにゃく屋さんが何故か航海に出てはるばるロシアの彼方まで漂流し、そこでこんにゃく入りのおでんなどを作ってたいそう気に入られました。みたいな漂流記を期待してしまうかもしれない。

この本はそういう類の漂流記ではない。

著者彼女の一族の屋号が「コンニャク屋」。
この本は彼女自身の自分史であり、一族の歴史である。

彼女のルーツである「コンニャク屋」の屋号。

そもそも紀州から二人の兄弟がこの浜に来たところから始まるのだという。
そして彼女はとうとう紀州まで行ってそのルーツを探ろうとする。

90歳でも健在な一族の明るい光「かんちゃん」。
祖父の姪にあたるのだっけ。

そのかんちゃん曰く、ドン・ロドリゴが漂着した時なんぞは・・・。
まるで昨日のことのように。

ドン・ロドリゴなるスペインの総督が彼女たちの出自である千葉県の岩和田に漂着したのは、なんと400年も前の話。
その頃の岩和田は貧しく、漁民でありながら魚もまともに食べていない様子が記録として残されているのだという。

人口300人ほどの村落に異人の漂流民が300人以上。
一世帯に平均4~5名か。一世帯人口が7~8人なら同じく7~8人の異人さんをホームスティさせたのだろう。
海で遭難した人は人肌で温めるのが一番、と貧しい中でも身体を張っての救助活動を行う。

世はまさに家康が天下を取らんとする時代である。
それが、つい先日のことのように語られるのだから、戦前戦後などはほとんど昨日だろう。
時代というものの感覚がおかしくなってくる。

彼女の文章の中にたまに登場する彼女の祖父が残した手記。
お祖父さんもなかなかに筆達者だったことがわかる。

自身のルーツ探しもさることながら、何故にその時代に大量に紀州から房総半島に漁民が流れて来たのか、その推理もまた楽しい。

星野博美 『コンニャク屋漂流記』 文藝春秋