読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



一刀斎夢録


時は明治がまさに終わり、新しい時代である大正へと移らんとしている。

天然理心流を極めた剣士でもある近衛将校の主人公に明治天皇の御大喪として八日間もの休みが与えられる。

その休みの間、夜毎通い続け、酒を傾けながら明け方まで話を聞きに行った先がなんと、往年の新選組副長助勤、三番組組長斉藤一。

そう。この話、ほとんど斉藤一の一人語りなのだ。
ひょうきんで明るいと一般には言われる沖田と対比され、無口で薄気味が悪いとされる斉藤一が語る、語る。
数年前に壬生義士伝が映画化された時、斉藤一を佐藤浩市演じているのに、さほど違和感が無かったのだが、よくよく考えてみるに斉藤一は若いイメージのある沖田よりさらに若く、新撰組に在籍していたのは20~25才ぐらい。今で言うとさしずめ大学生から社会人1~2年生といった年齢だ。
佐藤浩市じゃ少々歳が行きすぎているはずなのだが、この斉藤というあまりに際立ったこの人をそんじょそこらの若手俳優が演じられるはずがない。

もっとも斉藤に言わせれば、沖田こそ人を斬るために生まれて来た男ということになるのだが・・。
斉藤はことあるごとに人間みな単なる糞袋じゃねーか。と言う。
壬生義士伝の中でも坂本龍馬を暗殺したのは実は斉藤一だった、みたいなことがさらりと触れられていたが、この話の中ではもはや確信的だ。
浅田次郎は絶対にそう確信しているのだろう。
薩長連合の橋渡しをしたばかりか、大政奉還までも成し遂げ、国内での戦を回避させようとする龍馬は長州にとっても薩摩にとっても、もはや除外せざるを得ない存在だったのだろう。

西郷は血の雨を降らさなければ、新しい時代にはならないという考えで、鳥羽伏見はおろか、戊辰戦争を終えて後でさえ、まだ血の量は足りなかった。この浅田説によれば、西南戦争は西郷と大久保利通の図り事であったのだという。

士農工商はこれで終わりね、といきなり言われたってそう簡単に人間変われるもんじゃない。
御大将自らが壮絶に討ち死にすることで、世の不平士族を黙らせ、国軍を国軍たらしめる、そのために西郷と大久保は、壮大な画を描いた。

おそらく西郷蜂起の一報よりも派兵決定の日が先だったり、というのはこの話の中の作り話ではないだろう。
確かに不平士族を黙らせるための征韓論なんていうのもあまりにお粗末だ。

そんななぁと思いつつも、だんだんとなるほどそうだったのかも、と読者に思わせてしまう。
特に西南戦争の真っただ中で今度は官軍側の抜刀隊として斬って斬って斬りまくった斉藤一が、戦というものを熟知する男である斉藤一が語ったのであれば、尚更である。
そういうところが浅田次郎の新鮮さなのだ。

浅田次郎はこれまで人が散々書いて来た題材を扱う時、必ずや自分ならではの視点を持って来る。

大政を奉還したって日本最大の大大名であることに変わりはない徳川が何故いとも容易く、恭順の意を示してしまったのか。
勤皇の空気が漲る水戸出身の将軍が最後の将軍になったから。
そしてそれを実現させたのが、薩摩出身で大奥へ入り、大奥を牛耳る存在にまでなった天璋院。天璋院を動かすべく画策したのは西郷だという。

なるほど、なるほど。

読めば読むほどに目からうろこ。
まことに面白い。

上・下巻通しで結構の分厚さの本でありながら、一気に読まされてしまった。

斉藤一は言う。

始末に負えぬ将には三つの形がある、と。
己の功をあせる者、死に急ぐ者、思慮の足らぬ者。

その将の典型が203高地の乃木将軍だったと。
そしてその真逆が西郷隆盛であり、土方歳三だったのだろう。

斉藤からすれば乃木将軍でさえ年下なのだ。
殉死にあたって言い訳を書き残すやつがあるか。
後の始末をせねばならん妻までも道連れにしてどうする。
なかなかに手厳しい。

方や五稜郭を土方一人が御大将であったなら、永久に陥落しなかったであろうと、斉藤は言う。
その後の軍隊が乃木将軍を軍神と崇めてしまったところが昭和の軍人の不幸だろうか。
開戦から敗戦に至るまで、思慮も足らない、命を大切にしない将校が日本をあの無残な敗戦に追いやったのかもしれない。

そんな斉藤が百年後のこの日本を見たらどう言うのだろう。

たぶん、同じことを言うのだろう。
どいつもこいつも糞袋ばかりじゃわい、と。

一刀斎夢録  浅田次郎 著 文藝春秋



虚人のすすめ


一時持て囃されたITバブルにIT寵児。
彼らの大半は先端技術者集団でも何でもなく、既に完成した企業を買収する単なる買収屋だった。
大量の金に物を言わせての買収と売却、所謂虚業だったわけだ。

こういう虚業群が実態経済を潰しかねないほどに、肥大化してしまっているのが現代。
リーマンブラザーズなどという虚業企業が潰れただけで世界中に経済危機をもたらしてしまう。
作者はあえてそんな虚業家たちと立場を異にするために自ら「虚人」と名乗る。

彼は、東大を卒業していながら官僚を目指すでも無ければ、大企業へ入るでもなく、研究者の道を歩むでもなく、呼び屋という商売に身を投ずる。

彼の師匠は未だ国交の無かった当時のソ連からボリショイサーカスを日本へ呼んで大成功をおさめた人、他にもジャズプレイヤーを招聘したり、世界最大のシャガール展を開催したりするのだが、赤字が膨らんで会社は倒産してしまう。

その人から学んだ彼は大学を卒業してまだ二年やそこらで自分で呼び屋稼業を始める。

虚とはすなわち何もない状態。
全くのゼロというものを認識している人。

実際にこの方、バックに大物を持つわけでもなんでもなく、自分の名前と素の存在だけで勝負をしている。

ある日、彼は世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリを招聘しようと思いつく。
彼とモハメド・アリの間には何の繋がりも、その繋がりの片鱗さえないのに、である。
ボクシング界に知り合いがいるわけでもなく、アメリカの有力者にコネクションがあるわけでもない。
人は無謀だと思うところだが、彼は無謀だと思わない。
この広い世界の中で全く知らない誰か一人の人に近づくには、何人の人を間に介さなければなさないか。
その答えはたった6人なのだという「六次の隔たり」というアメリカの心理学者の理論があるそうだ。
相手が大国の大統領だったとしてもたったの六人を介すればお近づきになれるのだ、ということになる。
この人はそれを証明してしまう。
そのためにはまず、自らイスラム教徒になってしまう。
日本に住む華僑のムスリムに近づき、マレーシアのイスラム教指導者を紹介してもらい、その人からアメリカのムスリムリーダーの一人に紹介状を書いてもらい、さらにその人を経由してモハメド・アリのマネージャーにお近づきになる。

言葉で書いてしまえばいとも容易いことのようになってしまうが、それを実現させるにはとんでもないエネルギーだろう。
単に近づいたからと言って簡単に指導者を紹介してくれるはずがない。
その紹介者から絶対の信頼を勝ち得るまでにイスラム教を勉強し、自分を売り込む努力は並大抵のものであろうはずがない。

そんなことを経て、長い年月をかけて相手の信頼を得、とうとうモハメド・アリの招聘を実現させてしまう。
「六次の隔たり」理論は彼のためにある理論なのではないだろうか。

彼は虚人は本能の強さで生きるのだ、という。
人間極限状態に追い込まれたら、精神的な強さやタフなどと言う次元ではなく本能で行動するだろう、と。
最終的に本能で感じ動く人間は強い、と。

彼は、お金儲けを夢見るなどという連中を唾棄する。
大リーグで活躍する選手を見て、その年棒が何億、何十億を羨む人をみて可哀そうだと感じる。
売上なん100億なん1000億を達成することが夢だという連中を憐れむ。
彼にとってはお金は「虚」でしかない。
お金という虚を実体化している人はそれを失うことを恐れるのだとバッサリ。
彼にとっては100億も一兆も0も同じ。
虚=ゼロなのだから、お金を失っても自分を見失うことはない、と。

まさに偉大な虚人である。

虚人のすすめ 康 芳夫(著) 集英社



檸檬


高校の教科書で初めて読んだ『檸檬』。
鳥肌が立つほど感動して興奮しました。
しばらく図書室の画集を積んで檸檬を置こうかと思ったくらいその世界に酔いました。
初めて読んだときから10年以上が経って、学生の時のようには感動できないかと思ったら、今のほうがその世界にどっぷりはまってしまいました。

ざっとあらすじ。
体を病んだ主人公が、不安定な心と感性で世界を眺めます。
今まで好きだったものに興味がわかなくなり、はかなく色彩豊かなものたちに心を惹かれます。
『えたいの知れない不吉な塊』に圧えつけられる日々。
ある日、何かに追われるように主人公は街を彷徨います。
そんな道すがら、気に入りの果物屋で檸檬を手にします。その途端、心が少し軽くなったような幸せを感じて、うそのように軽い足取りで街を闊歩する主人公。
かつては好きだったけれど今は入ることが憚れる丸善へ今なら入れるのではないかと足を踏み入れますが…。

ひまわり、カンナ、花火やびいどろ。
物語の始まりから美しいものの名前が次々に並べられて、頭の中にたくさんの色が飛び交います。
それらは主人公の性格や病に重なって、ひどくはかないものたちに感じられます。
でも透明で消えてしまいそうなものたちの中に突然はっきりとした輪郭を持つ檸檬が登場すると、急に物語の中の世界がはっきり見えるような気がするのが不思議です。

檸檬の力で踏み込めた丸善。
檸檬のおかげで明るくなりかけた心にどんどん雲が広がっていくように、手に取りめくっては閉じてを繰り返され積み重ねられていく画集。
画家によって全く異なる画集の厚みや色。重なっていったらどんなにたくさん色がアンバランスに重なり合っているのだろうかと想像します。
でもその上にのせてみた檸檬が、主人公のアンバランスな心に一瞬の安定をもたらしたように画集に絶妙な安定を与えます。
『見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。』が一番好きな一文。
キーンでもなくカーンでしかないと思うのです。
でもその安定は主人公の心と同じ、長く続く平穏ではなくて爆発前の一瞬の静けさ。
檸檬をそのままに丸善を後にする主人公は、檸檬が爆発して美術棚を吹き飛ばしたらという想像をします。
檸檬で爆発する色たち。
冒頭から連ねられてきた美しいものたちが爆発して飛び散って、いっそう儚くそして美しく感じられるのです。

この物語を読んでいると、とにかくその世界に酔ってしまうのです。
あまりに物語が完璧に完成しているように感じられます。
読み終えたあとは、美しいショーを見てその余韻に浸っているような気分になります。

うまく説明できませんが、心が弱ったとき、元気なときなら気づかなかった色や物事に目がいって、感動したり傷ついたりします。でも元気になるとまた気づかなくなってしまって、いつのまにか感動したり傷ついたりしたことまで忘れてしまうことがあります。『檸檬』の物語には、心の中にいつかあったのだけど消えてしまったような、ものすごく繊細で傷つきやすい何かが形になってて、それが檸檬を通じて自分と繋がるようなそんな気分になるのです。

感傷的になってしまいますが、世界にはまりすぎた自分にも酔える一冊です。

檸檬 梶井基次郎 著