読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



化物語


それにしても軽快なテンポだなぁ。

西尾維新の作品ってどんどんのりつっ込みのテンポが良くなっている様な気がしますよ。
西尾維新の本を読もうと一番最初に本屋へ買いに行った頃、例えば戯言シリーズなどを・・・そこそこの規模の本屋さんなのに「西尾維新の・・・はどのあたりに?」と店員さんに聞いたら、なんか不審人物を見る様な目で見られてしまった。
連れていかれた先の本棚の周辺には何故か牛乳瓶の蓋の様な眼鏡をかけた学生と思われる女の子がチラホラと居る。
見れば、どうもホラーもののコミック本のコーナーの様に見えた。
な、な、なんでこんな売り場なんだー。
しかも本棚に並んでいるのでは無く、本棚の下の引き出しから取り出してくれた。
本棚にも並べてもらえない様な本なのか?ってその当時は思ったもんだ。
そのコーナーに少しでも居る事はなんとも絶えがたく、出してもらった戯言シリーズを鷲づかみにしてレジへと向かったのを覚えています。
以後、西尾維新本はオンラインでしか購入したことがないので今はどんなコーナーに並べられているのかは確かめていませんが・・。

さて「化物語」はその名の通り、お化け (怪異と言った方がいいのかな) のお話。

「おもし蟹」 「迷い牛」 「猿の手」 「蛇切縄」 「障り猫」 ・・なーんていう怪異が登場します。
これらは民間伝承か何かがちゃんとあるのでしょうね。
こういう「怪異」に出くわす話はいろいろあるでしょうが、ここでの怪異達は「蛇切縄」以外は全て自分の心(願い?)が生み出した産物。

神原駿河の「猿の手」なんて使い方次第では結構役に立つかも。
主人公の「吸血鬼」、これ使い勝手良すぎる。
怪我の治癒とかで便利すぎるものだから主人公もかなり濫用気味。

怪異のことはさておいても、まいどのことながら主人公のまわりにはやたらと女の子が多いのですよね。

この主人公もその例にもれず女の子に囲まれていてしかもモテモテ。

戦場ヶ原ひたぎ、なんという凄まじい名前。凄まじい毒舌でありながら愛情は豊かでその毒舌さえ可愛らしくもある。
またまた主人公がそれをのり突っ込みの勢いと感じるだけの男としての度量が無ければ、その毒舌の結果は悲惨なものにしかならないでしょうが・・。

戦場ヶ原の後輩の神原駿河、学校のスターだったはずが以外な一面を発揮。
明るいエロっこの神原駿河。エロっぽい言葉をはきながらいやらしさは微塵も感じない。
これも戦場ヶ原同様にいやらしく感じない度量がなければこの人間関係は成り立たない。
他にも羽川翼、千石撫子、何故かなでしこではなくなでこ、八九寺(ハチクジ)真宵・・・と女の子ばっかり。

うらやましい。んん?本当にうらやましいか?
それは主人公君に聞いてみるしかないでしょうね。

戯言以来出版されている西尾氏の本にはマンガチックなイラストがつきもの。
後々、映像化された時に足枷になるのか、はたまたその逆なのかはわからないですが・・・。
読書と言うものやはりコミックではないのですから、自分の想像力にてそのキャラクターをイメージして読むものと心得ているのでこういうイラストって本当に必要なの?などと思ってしまいます。
直近では「刀語」なんか本の中までイラストがいっぱいだったり。
でもがご本人のあとがきにてはいつもそのイラストに感謝されておられるようなので執筆者のモチベーション維持になんらかの要素を与えているのかもしれませんね。

まぁ、あそこまでマンガチックなイラストだと返ってご愛嬌と受け取ってイラストなしの本と同様に自分のイメージで勝手に読んで適当に楽しんでますから決してじゃまになっているというほどのものではありませんし。

じゃまになっているという意味では、電車の中で読むにはカバーが欲しくなる、というぐらいのことでしょうか。
なかなか西尾氏執筆の主人公の域には達せられませんので。

それに映像化なんていったって、西尾維新の本は絶対に活字の中でこそ活きるのではないかと思っています。

あのムチャクチャ面白いのり突っ込みにしても活字だからこそだろうと思ったりしているのです。

誤植を使ってののり突っ込みなどはその最たるもの。
人を叩いた後で、「命という漢字の中には叩くという漢字が含まれている・・」などというセリフ。
見蕩れるの蕩れるって草冠に湯って書くのだ云々・・・
「蕩れる」は次世代を担うセンシティブな言葉・・・このあたりは西尾氏ならではの感性でしょう。素晴らしい。
こういった表現はやはり活字ならではの世界じゃないでしょうか。

もちろん、この恐るべき才能、西尾維新がどこを目指しているのかなど知る由もありませんが・・。

とにかく楽しく読ませてもらいました。

化物語(上) (下)  西尾 維新(著) VOFAN(イラスト)



長い長い殺人


語り部が財布なのですよ。財布。
刑事の財布が語り部。
強請屋の財布が語り部。
少年の財布が語り部。
探偵の財布が語り部。
目撃者の財布が語り部。
死者の財布が語り部。
旧友の財布が語り部。
証人の財布が語り部。
部下の財布が語り部。
犯人の財布が語り部。・・・。

最初の一話を読んだ時には、短編なのかと思いましたよ。
全部ちゃんと繋がっているのですね。
雑誌に掲載された頃は「十三の財布の物語」というタイトルだったそうです。
タイトルとしてはそちらの方があきらかにいいですね。
連載しているうちに10話で終わってしまったので、タイトルは「十の財布の物語」ではなく「長い長い殺人」になってしまった。
長い長い殺人なんてどんな殺人なんだ?と思ってしまいましたよ。

一話一話がそれぞれちゃんとまとまっているのは雑誌に一話ずつ載せていたからなのでしょうね。
それぞれの財布にも生い立ちがあったりしてやっぱり財布の物語なのですよ。

全体の展開は、保険金がからみ配偶者の殺人容疑といい、マスコミの騒ぎ方といい、あのロス疑惑事件を彷彿とさせてくれます。
ロス疑惑事件は、妻とロサンゼルス旅行中に暴漢に襲われ、妻を失った悲劇のヒーローとしてマスコミに登場するところから始まります。
その後、週刊誌の独自取材による報道で状況は一転します。
妻にかけていた莫大な保険金。それを目当てとした保険金殺人の疑惑。
以後この男の周辺にはいつもマスコミが殺到していたあの事件。

物語の展開はその正反対。
夫を保険金目当で殺害したのではないかと疑われる女性と妻を保険金目当で殺害したのではないかと疑われる男性。
しかも両者は愛人関係にある。
犯人で間違いないだろうと散々疑われながらも物証は無し。

だがマスコミは放ってはおかない。
犯人に間違いないだろうと、二人に押し寄せる。
ところが思わぬところから別の物証が出て二人の犯行では無かった事になるとこれまで散々犯人と決め付けていたマスコミは逆に彼らを悲劇のヒーローとして更にマスコミに登場させる。
ロス疑惑とは反対の展開ながら毎度ながらのマスコミの取る対応。持ち上げるだけ持ち上げておいて、落とすところまで落とす。
犯人扱いで過熱しておいて一転ヒーロー扱いで持ち上げる。その構造は同じか。

「あるじよ。その金を受け取ってはいけない。その金で私をふくらませてはいけない」

財布に「あるじよ」と呼ばれるほど私は財布を長持ちさせた事があるだろうか。
少年と呼ばれた頃から数えて一体いくつ財布をなくした事だろう。
大抵はいつなくなったかさえわからないが、気がついたらなくなっているというケース。
サウナでなくした時の事だけははっきり覚えている。
一杯飲んだ後、サウナで一泊して翌朝仕事場へ直行。通勤ラッシュに遭遇せず、ゆっくり朝の時間を過ごせる結構効率的な手段だ。
そのサウナの仮眠室で一泊して翌朝清算をしようとしたらポケットにあるはずの財布が無い。
隣に居た先輩に聞くと、
「そう言うたら、あのオッサンそれが目当てやったんかいな」
とわけのわからない事を言う。
「いやな、おまえが寝ている最中に横へ擦り寄って来たオッサンが居ったんや。てっきりそっちの趣味なんかいなぁ、と思てわくわくしながら見てたんやけど、眠とうなって寝てもうたんや」
そう言えば、目が覚めた時にいつも必ず首に巻いていたはずのロッカーのキーが何故か首には無く、頭の隣に垂れてあった。
その時は、さほど気にとめなかったが、何か違和感があった。
「でも、ええオッサンやないか。財布取ったあと、わざわざお前のとこまでキーを返しに来てくれたんやなぁ」
と妙なところを感心するこの先輩。
やはり只者ではない。
結局、清算は先輩にお願いしてその場だけは事なきを得たものの、その月はチョー金欠状態だった。

今持っている財布などは私にとってはかなり長持ちしてくれている。
財布がそこまであるじの事を気にかけてくれていたとは・・。

この本を読んでから財布を取り替えづらくなってしまった。

長い長い殺人 宮部みゆき著 カッパ・ノベルス



相対性理論を楽しむ本


20世紀の偉大な天才、アインシュタインの「相対性理論」と言えば知らない人は稀でしょう。
その「相対性理論」とはどんな理論なのか。
その言わんとする事をご存知の方は結構いらっしゃる様です。
ちょっと周囲にヒアリングした結果がそうでしたので少々驚きでした。

しかしながら、それはどうしてそうなるの?と聞かれて答えられる人となるとその数はぐっと減る。
ましてや数式を持ち出すまでも無く容易な言葉で説明出来る人となると、これは滅多にお目にかかれない。

高速移動の乗り物、例えばロケットなどに乗っている人と下界に居る人(静止している人)とでは時間の進み方に差が出てしまい、ロケットで長時間生活をして地球に帰って来ると、自分では1年のはずが地球では何年も経過していた、なんてまるで「猿の惑星」の世界の様な理論。
実際に「猿の惑星」の原作を書いたは「相対性理論」を参考にしたのかもしれません。

別にロケットを持ち出さなくても電車でも船でも説明がつくんですよね。
動いている船のマストの上から真下に物体を落とした時に1.5秒かかったとします。
地上で同じ高さから同じ重さの物体を真下に落とした時も同じく1.5秒。
しかしながら地上から船の上の物体の動きだけをとらえてみると、船が1.5秒間に進んだ距離だけ斜め前に落ちている。つまり真下の距離よりも長い距離を落ちているにも関らず、かかった時間は同じ1.5秒。
となると移動している乗り物の中に居た方がほんの少しだけ地上よりも(静止している人よりも)時間のたつのが遅い、という事になる。
って言葉で書くよりも図解した方がわかりやすいんでしょうけれど、ここでは敢えて相対性理論についての説明を書こうなどとは思っておりません。

この本は、そういうふうにわかり易く「相対性理論」を説明しています、という事が言いたいだけなので。

それでも頭で理解してもなかなか現実的には考えられませんよね。
実際に電車に乗って駅へ着いたら駅の時計より時間の進みが遅くなっていて、喫茶店へ行ってたっぷりとコーヒーが飲む時間が出来たなんて事はありませんし、電車の運転士は年をとるのが遅くて定年の頃には妻どころか子供も孫も老人だったなんて聞いたことないし。

私共のような俗物にはどうしてもSFっぽく聞こえてしまいます。

SFついでなので、この時間の早い、遅いって考え、タイムマシンに利用出来ないのか、ってこの単純思考はついついそっちへ頭が行ってしまうのですが、科学的には不可能だそうです。

もちろんこの本にそんな事は書いていませんが、こんな事は考えられませんか?
20光年先の星を見る、という事は30万キロメートル/秒の光でさえ20年かかって到達するほどの距離。
光が20年かけて到達したのですから当然、その星をいくら観察しても20年前なわけですよね。という事は20年前を見ている。
10光年先の星まで辿り着いて、そこに地球が写る巨大な鏡を設置したとします。
その鏡に映った地球の中は20年前の過去ですよね。
100光年先の星に設置すれば、200年前の過去が見られる・・・・・・んん、んな事出来るわけがない、というより出来た頃にはそんな過去でさえはるか未来だ。光でさえ、10年、100年かかる距離を人類が到達するのに何千年、何万年かかることか。

ならば、これは?
テレポーションという超能力を発揮出来る人間が居たとして、100光年先の星にテレポーションしたら?100年前の地球を観測出来のでは?
でもそれだけではタイムマシンになりません。その100年前の地球にテレポーションして初めてタイムトラベルした事になりますが、これだけの超能力者でもやっぱり無理なんでしょうね。
地球から見たら100年前ですが、瞬間移動したならそこは地球から見た時の100光年後の星にテレポートしたという事になる。100年前のその星にテレポートしたわけじゃない。
100年先にはその星だって消滅しているかもしれないし。で消滅していないとしてそこから見える地球はやはり100年前の地球だが、やっぱりそこから地球に瞬間移動したって現在の地球でしかないって事か。

じゃぁ、どうすればいいんだー!
相対性理論を用いれば光の速度に近づけば近づくほどに時間差は生まれる。
じゃぁ過去へ行くには光の速度を超えて移動しなければならないのか・・ははっ・・やっぱり霊界の世界だ。
ってな事はこの本に一行たりとも書いていませんけどね。

いや逆の事は書いてあったっけ。
「光の速さは最大でこれ以上速い物はない。そもそも質量を持った物体は速くなると質量が増すので動きにくくなる。だから光より速く加速させることはできない」だったけか。
時空を超えるとかって聞けば、ちょっとそういう事も考えたくなるじゃないですか。
まぁ凡俗の考える事です。
せいぜい愛想をつかしながら読んで下さい。

アインシュタインは大学を出た後、大学の教員になろうとしたが受け入れてもらえず、やむを得ず特許庁だったかのお役所勤めをしたのだそうです。
そのお役所勤めのヒマな時間を見つけては物理学の本を読むふけり、就職してわずか3年やそこらで相対性理論を発表したと言います。1905年。今から100年と少し前の事。

社保庁のお役人がなんか理論を発表したとは聞きませんね。 んん? いや今でこそ叩かれているが発表しなかっただけでちゃんと理論を生み出してはいたのか。 「先延ばし理論」。 立派に時空を超えた理論だ。
いえ、蛇足でした。

まだ質量の事にふれていませんでしたね。
アインシュタインは質量が減少する事で莫大なエネルギーが生じることも相対性理論の中で述べています。
その原理が元で原子爆弾が出来てしまうよりもはるかにましなのは、ダイエットだ!ダイエットって叫んでいる全世界のオバさん達、いや今現在の日本のオバさん達、んん?それじゃ男女差別と言われてしまう。日本のオジさんオバさん達だけで充分、その質量をその人達の願い通りに減らしてあげてその質量をエネルギーに変換する事が出来れば・・・、今から100年以内に枯渇するだろうと言われている石油エネルギーどころの騒ぎじゃない。1000年分ぐらいのエネルギーがあっと言う間に確保出来るんじゃないの。
いいなぁ、そうなったら、今大騒ぎのガソリン国会どころじゃない。
中年ダイエット質量確保合戦。

なーんてね。せっかくわかりやすい科学本の事を書きながら、なんて非科学的な事ばかり書いているんでしょうね。読んでいる人、呆れて下さい。

この本、相対性理論を確かに楽しめる本なのですが、後半になればなるほど、どんどんと内容は難しくなって行きます。
特殊相対性理論から一般相対性理論に突入するあたりから、著者もわかっているのでしょう。
無理に理解してもらう事よりもそういう理論なのですよ、ということだけ理解してもらえたら充分という書き方になっていきます。
後半の後半は宇宙の創世から今後宇宙はどうなるのか、膨張するのかどうか、なんてもはやSFを通り越してファンタジーも超越した世界。

何十億年何百億年後の宇宙をの世界をどうやって実証するのか、理論的にはこうなる、と言われたって、その頃まで生きている人なんていませんから誰も証明出来ない話。
何十億年何百億年前の宇宙にしたってこれで証明が成り立つと理論的に言われたところで、ビッグバンがあったのかどうか、そのまたビッグバンの前がどうだったなんていう話は監修の佐藤勝彦教授の持論なのかもしれませんが、それが真実とは誰も言い切れない世界。もちろん誰も見て来たわけではありませんし。

ただ、こういう宇宙の創生やら宇宙の果てには・・なんていうとてつもない世界。
哲学、いやもっと言えば宗教に近い世界になるのかもしれませんが、そこへまで物理学や科学というものでシュミレーションを行なってしまう、というそのスケールの大きさにはただただ驚嘆するしかないのであります。

すごいことですよね。目先の事にはなんら影響しない、自分を含めて誰が得をするわけでもないことを延々と研究する。証明しようとする。
そうやって研究した結果、もしくは理論を証明しようとした結果に思わぬ副産物として新たな発明や新たな発見が生まれる。
そういう人達がかつて存在し現在も存在するからこそ人類は進歩し、また今後も進歩するのでしょうね。
もちろん別の見方もあるでしょうが・・。