読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



魔術はささやく


サブリミナル効果っちゅう話題が出て来る。
サブリミナルっちゅうたらかつてはいろんなウワサが飛び交ったもんや。
某洋酒メーカーのCMの中に何コマか毎にドクロマークが入れ込んであったとか。
ドクロマークと飲酒願望とどんな関係があんねん?と思いながらその話を聞いたんを覚えてるわ。

オーム事件の頃も良う耳にしたなぁ。
麻原彰晃の写真が画像にしこんであったとかなんとか。

直近やったらニュース番組にサブリミナルが仕込んであったなんちゅう話もあったわな。
こういうサブリミナルみたいな潜在意識への働きかけがどんだけ人の行動に影響を及ぼすんか知らんが、出て来る話出て来る話・・もちろんウワサの粋はでえへんねんけどあんましええ話は無いな。
どうせ使うんやったら、もっと世の為人の為に楽しい映像入れ込んだらどないやねん。
吉本新喜劇風なんてどうや。
「ごめんください」と言うてるつもりが「ごめんくさい」にすりこまれたり、
「はじめまして、私、xx会社の○○と申します」と言うてつもりが
「私、xx会社の○○と申しますか?」と何故か知らんうちに疑問形になってもうたり、って全然世の為、人の為ちゃうがな。

まぁ、どんだけ効果あるんかわからんけど、たぶんきちっとした科学的な証明はなされてないんやろうと思うわ。

この本には催眠術の話題も出て来んで。
ようあるがな。
テレビなんぞで催眠術師の言うたままの事を無意識にやってしまうっちゅうやっちゃ。
あれも全然信用せーへんわけやないが、テレビでやってる事をまんま鵜呑みにする気にもなれんわな。

かつてあるんや。
体験してみたことが。
なんであんないかがわしいところを選んでもうたんか、自分でもよう覚えてへんねんけど・・。
とにかく晩、寝られへんかったんや。
毎日、仕事して疲れてんのになんでか晩に目がさえて寝られへん。
ほんで催眠療法とかいういかがわしい看板の場所へ新聞広告を頼りに行ってみたわけよ。
なんせ不眠症治療が看板やってんから。

そこには療法士か催眠術師か肩書き知らんが見るからにチンケな男が居ったわな。
その男、やけに抑揚のついた変な話し方で
「あなたはだんだんだんだん眠くな~る、眠くな~る」
「ほ~ら腕が重た~い、重た~い」
「足も重た~い、重た~い」
「どんどん、どんどん深~い、深~い眠りにあなたは入って行きますよ~」
     ・
     ・
ってな調子で頑張ってやってくれてるんやから、全然眠たないけど、ちょっとはかかったふりでもせんと悪いわなぁ、と思ってなんとか眠ろう眠ろうとすんねんけど、その意に反して全く眠たくならんわけよ。
頑張って目ぇつぶってたら、
「ほ~ら、深~い、深~い眠りにあなたは入って行きました~」
って言うとる。
アホか。
全く眠くもなんともない。
目は冴えまくりや。
こっちもさすがにもうあきらめて正直に言うてみたら、男は顔を真っ赤にして怒り口調やったわ。
「わざと眠らないようにしているんですか?」
「なんでわざわざ来てんのにそんなことせぇなあかん?とんでもないわいな。どんだけちゃーんと眠ろうと努力しとったか」
「だいたいね、あなた素直じゃないんですよ」
「そりゃ素直か素直でないかっちゅうたら確かに素直やないとは良ぅ言われるわ。 そやけどそれをあんたの言い訳に使われたないな。 なんでかってか?せっかく高い金払て眠りに来てんのに誰がわざわざ眠らんとこって逆らう必要あんねんな。 素直そのものや。 正直もんの御人好しさんやで。 しょうもない言い訳すんなや」
「その言い草が素直じゃないんですよ・・・」
   ・
   ・
   ・
てな感じで説教までしよる。さらに高い金を払わされて・・・。
催眠術がどんだけのもんかは知らんけどな。

まったくとは言わんけど、かかりやすい体質とそうやない体質があるんやろうとも思う。
でもその店に限ってはちゃうかったなぁ。
「その店」って店ちゅう呼称が正しいんかどうかわからんけど、そこへ来て眠ったやつはオッサンの勢いに逆らわんとこって思て眠たくもないのに眠ったフリしてただけやと俺は信ずる。
以後、そういう療法やらは全く信じてないわな。
寝酒の方がよっぽどマシやで。
これも酒を選ばんとあかんで。下手したら朝まで飲んでましたって、しゃれにもならんことになる。

サブリミナルにしても催眠術にしても懐疑心はあるけど、マインドコントールっちゅうのんは絶対にあるやろな。
どこからどこまでがマインドコントールの定義にあてはまるんかはようわからんけど、実際に一番その定義しかないやろっちゅう深いところにもろにはまったやつをこの目で見てるからな。

ってな感じで本の本題には全くふれずにここまで書いたった。
なんでも日本推理サスペンス大賞とやらを受賞した作品なんやろ。
感想みたいなもんはこれまで山ほど書かれてるやろうからな。
普通の感想みたいなもん書かれへんわ。
正直な感想では推理ものでもサスペンスものでもないと俺は思うけどな。

ほんでも敢えて踏みこまなあかんやろな。
この本、ちゅうより宮部みゆきさんはうまいわ。
サブリミナルの事も催眠術の事も錠前破りの事もよう調べてはるわ。
どんだけ催眠術にはまったって自分の脳の潜在意識に働きかけるわけやろ。
脳の潜在意識の中で一番強いんは自己防衛の意識やろうと思う。
そこを矛盾なく人をあやつる「魔術がささやく」道具にもって行ったんはさすがですわ。
主人公の少年がええわ。
あんだけ暗い過去を持ちながら、あの意思の強さ。
あれやで。
今の大阪府知事に必要なんは。
俺は大阪府民でもあり大阪市民や。
先だって大阪市長選や。
元MBSの平松さんが市長になりはった。
今度は府知事選や。
ノックを参議院にしたり、知事にした頃は大阪らしいというか江戸時代から続いてる政治は江戸、政治を嘗めてんのが大阪っちゅう大阪ならではの空気があったんやろぅけどな。
かつて大阪は江戸時代どころか明治・大正・昭和の途中までは政治以外では全て日本の中心地やったんや。
今や、日本の最悪の地方都市のひとつやで。
それも統計資料から言うと、ことごとくワーストの一位か二位らしいがな。
どないすんねん。次の知事さん。
日本そのものが大赤字のこのご時勢や。確かに大阪だけが悪いんとちゃう。
でもな、大阪はそのワースト一位か二位なんやで。
愛知の万博以降向こうへ持ってかれた仕事ぐらいは大阪に返してくれんねやろうな。
   ・
   ・
と、ムチャクチャお茶を濁しつつも俺の「魔術はささやく」のだった。

魔術はささやく  宮部みゆき著 日本推理サスペンス大賞



塩狩峠


「塩狩峠」は明治時代にあった実話を元に書かれたものです。
塩狩峠に差し掛かった列車の客車の連結器が外れて暴走しかけたところへ、鉄道職員でキリスト教徒であった長野政雄という人物が線路に身を投げ、客車の下敷きとなり乗客の命が救われたという実際に有った話を元に書かれたのだといいます。

キリスト教は自分は人に何をしてあげるかを考えなさい、と教えると言います。
その究極でしょう。
自らの命を差し出して人の命を救う。

この史実を知るにつけ、より詳しく当時を良く知る人の話も聞き三浦綾子さんは感動してこの小説を書いたのでしょう。

それにしても、そこまでくそ真面目な人物を描かなくても、と随所に思ってしまうのは私の心が穢れているからでしょうか。

この主人公の青年がに吉原へ連れて行ってもらう途中で走って逃げ帰り、危うく罪を犯してしまうところだった、と思いつめるのはまだクリスチャンになる前の事です。

北海道へ行き電鉄会社へ勤務。仕事は真面目。要領良く卒なく仕事はこなし、下の人間へ絶対に責任をかぶせない。
どこかの偽装事件の料理屋さんとは正反対ですね。

同僚が仕事場で盗難事件を起こした際、上司の家へ行って土下座をしてまでして彼の復職を願い出る。

「人に何をしてあげられるか」を体現したわけです。
しかし本当にそうなのでしょうか。
何かをしてもらう側の人間は何かをしてもらって嬉しいでしょうか。
受ける側は見返りを期待をしない無償の与えなど本当に欲しいものなのでしょうか。

「何をしてあげられるかを考えなさい」などと営業会社の部長あたりが営業マンに言っているのとは訳が違う。営業マンには当然その見返りに営業を成約させる、という事を期待しての事でしょうから。

私なんぞは俗物ですから、どうもそのあたりの考えはそぐいそうにないです。
「人に何をしてあげられるか」よりも孔子の言うところの「人にされたくない事は自分も人にするな」の方が自分にはそぐいますね。

私は人から無償の何かをしてもらいたいとは思いません。
従って「人にされたくない事は自分も人にするな」の教えを守るのでれば「人に何をしてあげる」などというおこがましい事はしてはいけないことになってしまいます。
ちょっと屁理屈ですかね。

「人に何をしてあげられるか」だけではありません。この主人公の倫理から言えば、事故で亡くなるまで童貞を貫かなければならない。

前回登場の曽野綾子さんとは同じ綾子という名前で共にクリスチャンで且つ作家。
この題材を曽野綾子さんが扱っていたらどう書いたでんでしょうね。
少なくとも主人公をこのような聖人君子にはしていないような気がします。

とはいえ、三浦綾子さんがこれを書いたのはキリスト教の月刊誌への連載に向けてだったという事です。
信者向けの書き物だからこそ、一般の人が読んでいてどうにもはなについてしまうだろう主人公が熱心に布教活動を行うような事も平気で書けるし、同じ信者に尊敬されている主人公の題材となった人の事をちゃらんぽらんな人物に書くわけにもいかなかった、という事なのでしょうか。
この本からはクリスチャンをヤソと呼んで蔑んでいた明治のある時代の風景がはっきりと見えて来ますし、長野政雄氏が列車に身を投げた事によって、ヤソもまんざらではないなと地元の旭川では信者の数が増えた、といいます。

旭川出身のクリスチャンである三浦綾子さんにとってこの話は書き残さなければならない使命のようなものだったのではないかと思ったりするのです。

塩狩峠 三浦綾子 著



神の汚れた手


曽野綾子という作家、昔から山ほどエッセイなどは読ませて頂き、その見識の高さにいつも感心していたのですが、あらためて考えてみるにエッセイは山ほど読んでいるのに、一度もその小説を読んだ事が無かった事に気が付きました。

で、その代表作と呼ばれる中の一冊「神の汚れた手」を読んでみたわけなのです。
書いているのは「クリスチャン」という先入観がまずありました。
またまたタイトルに「神」という文字がある事からしてもさぞや「クリスチャン」らしき物語なのだろうなぁ、などと勝手に想像していたのですが、さすがはエッセイで毎度感心させられた曽野綾子さん。やはり並のクリスチャンでは無いですね。

この本、産婦人科医の野辺地医師が主人公。
産婦人科医という立場上、もちろん出産という人の生命の誕生に立ち会う仕事をしながら、その反面全く正反対の堕胎手術を行なうという生命を亡き者にする事も仕事の一貫として行っている。

クリスチャンならば当然一方的な「中絶反対」という立場なのかと思いきや、この野辺地医師の元へは様々な中絶要望の女性が訪れ、中絶しなければならない様々な人間模様を主人公を通して描き出す。
その中には姑に無理矢理連れて来られた人。
まだ未成年の学生だから産ませるわけには行かないと親から連れて来られる人。
貧しさゆえに到底赤子を育てられないと自ら来る人。

またその逆になんとしても一児が欲しいがどうしてもその一児に恵まれないと悩む壮年夫婦。

人間の生命というものを扱う話だけに非常にデリケートな話なはずなのに、主人公の野辺地医師のあっけらかんとした性格がその深刻さを打ち消している。
打ち消してはいるものの野辺地医師自身も仕事だと割り切りながらもその実、心の中では割り切りきれていない葛藤を作者はさりげなく引き出しもしている。

野辺地医師が教会の宗近神父や姉の友人でクリスチャンの筧搖子のところへ行って酒を飲みながら頻繁に話をするのはその葛藤のあらわれなのではないでしょうか。

私も親戚にクリスチャンが居たこともあって教会という場所に何度か足を踏み入れた事が過去にあります。
教会というのは地域地域によって活動形態が全く異なることをその頃知りました。
やけに活動的な教会もありました。日曜のミサでは賛美歌を歌って、聖書を読んででは飽き足らず、その時の政府の方針にまで異を唱えるようなお説教がなされ、いろいろ署名活動あり、敬虔な信者の中からXX部会、YY部会、ZZ部会・・・、などと委員を選出し、かなり組織的な活動を行なうような協会が方やあるかと思えば、某地方のほんの小さな掘っ立て小屋の様な教会ではお説教を垂れる事よりも、来られた方々のいろんな意見を自由に話し合いをさせるような教会もありました。

その後者の神父さんは若いのですがとても人柄が良く、意見の違いなどは当たり前と人の意見に耳を傾けておられました。

この野辺地医師が頻繁に会う宗近神父というのはその後者に近い存在なのでしょう。

前者の様な教会神父であれば、彼の行為は糾弾され、彼自身も会いになど行かなかったのではないでしょうか。

こんな事を書くと私が中絶賛成人間みたいに思えるかもしれませんが、他人様はどうであれ、こと自分や自分の身内であればそれがいかなる理由であろうとも絶対に反対すると思います。胎児と言えども生命には違いないですから。
私はクリスチャンではありませんが、いかなる理由であろうともそれを亡きものにしてまでのことをして何らかの幸福を得ようとは思いません。
また逆にその考えを人に強要するつもりなどは毛頭ありません。

現在の中絶人口がどのくらいなのか全く知りませんが、やはりなんらかのやむを得ない事情があって中絶に至るのが一般的でしょう。
ところが、戦後に出来た優生保護法の影響なのでしょうか、それとも戦前の産めよ増やせよの反動なのでしょうか、一時期人口中絶が一般の家庭でごく当たり前の如く日常的に行なわれた時代もあったといいます。
少数家族化が国策とまでは言いませんが、少数家族化の考えのもとで人口的に奪われた胎児の生命の数は、戦争犠牲者に匹敵するかもしれません。

「神の汚れた手」はそんな時代背景があればこそ書かれたものなのでしょう。

それにしてもこの本、半ば医学書と言っても過言ではないほどに専門的な分野に踏み込んでいます。

曽野綾子さんの生命に対する並々ならぬ思いがそれだけの取材力を発揮されたのでしょうか。

私にはこの物語に登場する筧搖子というさっぱりとした女性が曽野綾子さんそのものにかぶっているように思えました。

曽野綾子さんという人はクリスチャンと言っても全くその範疇の中で思考が固まってしまう人では無く、寛大な心で広い視野でものごとを見る事の出来る人なのだろう、とこの作品を通してあらためて思ったのであります。