読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



香乱記


秦の末期から漢の時代の始まりまでという激動の時代が舞台である。

この時代の事を書いたもののなんと多い事だろう。

これまでで一番好きだったのは司馬遼太郎の『項羽と劉邦』だっただろうか。

経営者や管理職者向けのビジネス本にも多く取り上げられていた様に思える。
大抵の話が、秦の圧制に苦しんだ人々が陳勝・呉広というレジスタンスを迎え、歓喜し、やがて項羽・劉邦の新たな中華の項羽と劉邦という二大傑物を迎える。
その覇者争いを通して「勇猛果敢的経営」の破たん例 VS「適材適所的経営」の成功例などと取り上げられているのである。

司馬遼太郎はさすがにもっと極め細かく描いている。

だが、司馬遼太郎に限らず項羽と劉邦を扱っている本のほとんどは、
項羽は勇猛果敢で圧倒的な強さを持ち、若さを持ち、ある種の爽やかさを持つが、反面捕虜20万人を生き埋めにするなどの残虐さも兼ね備え持つ。
それに比べて、劉邦は戦下手で女ったらしでだらしが無い男でありながら、人の意見を聞く事に関しては天下一品で、人を重用する事に長けていたので、自らは何もしないでも側近に優秀な人材が集まり、到底勝てる相手では無かった項羽にも最終的には勝つ事が出来た。
と項羽の勇、武に対しての劉邦の徳の勝利だと両者を比肩する。

ところがこの「香乱記」においては項羽も劉邦もほとんどクズ扱いである。
この二人をこれほど悪し様に書いている本もそうそうないのではないか。

この違いはなんだろう。
項羽、劉邦とは別に田横という英傑を生み出し、それを主人公にして物語を書いたから、という理由ばかりでは無いだろう。

夏王朝から商の時代、周の時代、春秋戦国・・とずーっと長い長い目でこの古代中国史を俯瞰した宮城谷ならではの視点なのではないだろうか。

宮城谷の本に付き合えば付き合うほどに各時代の人徳の高い王や名宰相との出会いがある。

劉邦が徳のある人だって?笑わせるな!という気持ちが伝わって来そうである。
劉邦などと言う詐欺師には所詮、秦の真似事しか出来ないであろう。
項羽は戦は好きでもその後の国作りが行えるとは思えない。

秦滅亡から漢の樹立までの間に中華の人口は半減したと言う。
そこまでの代償を払って手に入れる新王朝が秦とどれだけ違うというのか。

秦という国に至っては、悉くが始皇帝の圧政・虐待政治という事が歴史上の常識と化しつつあるのかもしれないが、史上初の中央集権国家による法治国家を実現させた過去に例の無い国家である事も事実である。

過去を捨て去り、新たな国作りを行ったという意味では歴史上の大きな存在であろう。

但し過去を捨てると言っても焚書坑儒を行うに至っては後世の歴史家から見れば、研究材料を奪われたわけなので暴君と言われても仕方がないだろう。

兵馬俑で有名な始皇帝稜の建設、万里の長城の建設、阿房宮の建造・・と土木・建築に関しての規模はとてつもない。

歴史に名を残す建造物を残した時代というものにつきものなのはそこで働かされたであろう無辜の民による多大な労働力である。
やはりここでも圧政を布いたと言われても仕方が無いかもしれない。

趙高と共に地位を奪い取った二世皇帝に至ってはもう暴君を超えた単なる馬鹿扱い。

だが、実際にはどうだったのか。
秦は短命であった。秦の時代も漢の始まりも秦の後に出来た漢の時代に史書には記述されたであろう。
秦の法体系などをほとんど模倣したのではないかと言われる漢の誕生の正当性のためにも秦は酷い国でなければならず、
始皇帝は暴君でなければならず、
二世皇帝は馬鹿皇帝でなければならず、
項羽は20万の捕虜を生き埋めするほどに残虐でなければならず、
劉邦は人徳のある人でなければならなかった。
そういう側面が全くなかったなどとは到底思えない。

古代中華の頃の兵隊と言うもの、いとも容易く寝返る。
情勢の悪い軍隊ならさっさと戦いの場から逃げ出して、いつの間にか敵軍に入っていたり・・。
将棋というゲームの生まれる所以だろうか。さっきまで玉を守っていた飛車が敵のに取られるやいなやいきなり玉に王手なんだから。

そういう事が当たり前の時代の軍隊であり兵隊だ。項羽とてわかっているだろう。
敵の(秦の)将軍である章邯が降伏した段階で、章邯は項羽軍の将軍となった。
もれなく付いてくるはずの20万の章邯の兵士を何故生き埋めにする必要があったのか・・・・。
後の漢による情報操作で無いとすれば、全く意味不明である。

という様な事はこの「香乱記」の本題からはずれるので、ひとまずおいて置く。
宮城谷から見て、この時代を治める最高の人物は宮城谷そのものの描いたに田横だったのだろう。
田横という人は実在したかもしれないが、「香乱記」の中の田横は宮城谷の理想の人物として、描かれた人物像に違いない。
宮城谷本で言えば「孟嘗君」が一番近いか。
双方とも田氏である。孟嘗君は田文だった。
斉の国にはなんと田氏の多い事か、「香乱記」の中にも何人田氏が出て来ただろうか、味方ばかりで無く敵の中にも田氏が出て来る。
この本、出版前は新聞連載だったという。
連載で小刻みに読む読者は訳がわからなくならなかったのだろうか。

「香乱記」という本、他の宮城谷本を読破している量に比例して面白さが倍増するのではないかと思える。

秦の法治国家については商鞅を書いた箇所を読んでいた方がよりその法による政治の画期的さがわかるだろうし、呂不韋に助けられる前の人質であった少年時代の始皇帝の箇所を読んでいれば、一箇所に居を構えないなどの用心深さもその所以が見えて来る様な気がする。
また随所に引用される春秋以前の人の名。
これらは宮城谷本を読んでいる事を前提とでもしているかの様である。

とは言え、何事も第一歩が無ければ第二歩も無い。
宮城谷本はどこからはじめても面白い。
特に田横という爽やかな男を描いた「香乱記」は清々しい一冊である。

香乱記  宮城谷 昌光 著



NO.6


フィリピンの首都マニラ。超高層ビル群があるかと思うとほんの川を一本隔てただけで、ずいぶんおもむきが変わって来る。
川の向こうの全てがスラム街だとは言わないがしばらく歩くと、立小便をするオバサンがいたり、普通に歩いていると怪しげな男達が扇型にの状態で後方から付いて来たり。
子どもなんかにも良く囲まれる。
この一帯、高層ビル群のあるあたりとは建物も全く異なる。
高層ビルが無いだけの話ではない。
何か違和感があると思ったら、よくよく見ると建物に直角が無いのである。
三角定規や分度器を使うまでも無い。
微妙なずれを感じる世界。
川を隔てた都市の中と外。

リゾート地として観光客の多いバリ島。ここでも夜中にホテルを出てみると、真っ暗闇の中に多くの人影がある。
だんだん目が慣れて来て、その存在が見える様になるのだが、この人達はあのホテルの中には絶対に入れない人達なのだ。
ホテルの外から眺めるホテルのレストラン。
そこには優雅で楽しそうに食事をしている人達がいる。
その中と外との距離はわずかでも、中へ辿り着くまでの道のりは果てしなく遠いのだろう。

パキスタンのカラチ。商店があってその中へ入ろうとすると一緒にくっついて入ろうとする物乞いの子供が居た。
商店のオヤジは何を思ったか、その子供の顔面を思いっきり蹴り飛ばしたのだ。
商店の中と外。
中の人達は、外の物乞いを人間とは思っていない。
でなければ、吹っ飛ぶほど顔面を蹴り飛ばしたりはしないだろう。
「おまえ達ゴミの来る世界じゃないんだ」そのオヤジの声が聞こえた気がした。

インドのアンタッチャブル。実際にこの目で見た訳では無いが、アンタチャブルは殴られようと殺されようと何をされようと文句の言えない人々なのだという。

「NO.6」という話、舞台は2013年~2017年というほんの目の前の近未来である。
このストーリーの中では世界中で都市と呼ばれるのは6つだけになっている。
その一つがこの「NO.6」と呼ばれる都市。

衛生管理システム、環境管理システムなどが行き届き、不純なものは自動的に排除され、細菌すらいない。
衛生的で美しく、聖都市と呼ばれている。
衣・食・住にも教育にも福祉にも恵まれている夢の都市、という設定である。

その都市は周辺の地域とは隔絶され、内外の行き来は限られたゲートを通るしかなく、当然の如く外の人間は中へは入れない。
中の人も勝手に外へは出られない。

その外の世界にも当然ながら人の営みというものは存在する。
そのほとんどが西ブロックという地域に集中している。
「NO.6」の中と外、全くの異世界。
中の人間は外の人間を人間としてみていない。
言わば「ゴミ」扱い。

外の世界には秩序と言えるものは全く、無くあるのは「飢え」「貧困」「暴力」「騙し」・・・人を人を信用せず、信用、信頼などと言う甘っちょろい考えの持ち主は生きてはいけない。
頼りになるのはおのれの生命力だけである。

そういう設定の中でストーリーは展開される。
「NO.6」の中にも階級が存在し、一番のエリートは「クノロス」と呼ばれる最も恵まれた地域に住む。

幼児の頃から優秀で、将来のエリートを約束されていおり、かつて「クノロス」の住人だった少年が、西ブロックへ行かざるを得なくなるところから話は急展開する。
その少年の名を紫苑(シオン)という。

西ブロックで紫苑の見たものはこれまでの人生を世界を180度変えてしまうほどのものだったはずである。
だがその少年は自らの境遇を不遇とは思わない。
不遇どころか、こういう世界を知って良かったとさえ思っている。

この外の世界では誰と誰が味方だとか、信用し合ったりたり信頼し合ったりする「仲間」という概念が無い場所なのだが、この少年が「仲間」という概念を周囲に与えて行く。

その仲間には「ネズミ」という聖都市「NO.6」を滅亡させる事だけを夢見て生きている少年。
メス犬の母乳で育ち、自分の母親は犬だと思い、犬に囲まれた生活をし、犬を使って情報屋をやっている少年などがいる。

紫苑はどちらの世界の人も同じ人として見、どちらの世界の人も信用し信頼する。
両世界の異端児なのかもしれない。
その紫苑にネズミは手厳しい。
「温室育ち」「甘ったれるな」「天然ボケ」・・・。

彼らがこの外と中の異世界状態を今後打ち破って行くのだろう。
「打ち破って行くのだろう」というのは、このストーリーがまだ完結していないからである。

#1が出版されたのが2003年、で#2、#3、#4、#5 まで出版されているがストーリーはまだまだこれからなのだ。
2003年に#1が出版された頃、2013年は10年後の世界だったかもしれないが、ストーリーはまだ半ばで2007年になっている。
時代が追いついてしまいますよ、という言葉は無用だろう。
このストーリーに201X年という年代はもはや意味は無い。
そういう設定の話だ、という事で片が付く。

衛生的で何不自由の無い理想的で素晴らしい都市であるはずの「NO.6」には人間が生きて行く上での致命的な欠陥がある。
表現の自由や言論の自由が無いのである。

人の口を閉ざそうとする社会は、いずれ人々に閉塞感が生まれ、やがては崩壊する。
歴史が物語っている。

近未来の監視カメラに囲まれた社会などでは過去の人の口を閉ざす社会よりももっと人々の閉塞感は高まるだろう。

だから最終的には「NO.6」は崩壊するのだろうが、案外この両世界にとっても稀有な存在である紫苑という少年が崩壊では無く、第三の道である共存という結末を到来させるのかもしれない。

NO.6 (ナンバーシックス)#1 (YA!ENTERTAINMENT)  あさの あつこ (著)



武名埋り候とも


忠臣蔵を知らない日本人は少ないだろう。

浅野内匠の殿中での吉良上野介への切り付け騒動で浅野内匠は即刻切腹。

播州赤穂藩はお家取り潰し。

大石蔵之助をはじめとする赤穂浪士は、お家再興をかけての運動にも破れ、宿敵である吉良上野介へ討ち入る。

もし大石蔵之助がお家再興に成功していたら、赤穂浪士の討ち入りは歴史に残らなかった。

この物語は一歩間違えば、第二の赤穂浪士が世に出たかもしれない、という類の話なのである。

萩領との国境に生えた一本の松の木をめぐる争いから、徳山藩は改易に追い込まれる。

藩主毛利元次は新庄藩にお預けの身。

藩士は萩藩に吸収。

それを不当な処分だとして奈古屋左衛門里人をはじめとする数名が藩を再興させるべく運動する。

辛苦の再興運動の結果、最終的に藩は再興する。

赤穂浪士の忠臣蔵からたった15年後の事である。

この本が出版されたの1998年の年末。ちょうど年明けからNHKの大河ドラマで「忠臣蔵」が始まる時なのだ。

うーん。なかなかにあざとい。あざとくグッド・タイミングを見計らったんだろうな、などと勝手に想像してしまう。ここでいう「あざとい」とは誉め言葉である。

この本、古本屋の片隅で埋もれているのを見つけた。
見つけた時は、なかなかの掘り出し物、と思ったのだが・・・。

何か物足らないのである。

ノンフィクション、というジャンルに拘りが強すぎるからなのだろうか。

「忠臣蔵」にしたっておおもとは史実でも10人が書けば10人なりの「忠臣蔵」が生まれる。

吉良上野介をかくまった上杉家の刺客と赤穂浪人とが死闘を繰り広げるものがあるかと思えば、吉良の狙いは赤穂の塩田作りの秘法だったというものや、大石は討ち入りなど全くするつもりが無かったのに、急進派に押し切られていやいや討ち入ったというものや、吉良は何も悪くない説・・・

いすれも、討ち入りをしたという行為だけでも充分なのにそれ以上の意外性というもので味付けをしているのだ。

ノンフィクションだから史実に無い事は書けない、というのであれば話の中の会話だって作者はその場で見聞きした訳では無いのだから、書けない事になるのではないだろうか。
お家再興で結果、平穏無事というだけでもドラマチックでないのだから、多少味付けを濃くしても良かったのではないだろうか。
意外性という意味ではお家再興に最も貢献したはずの奈古屋左衛門里人が藩に戻らず、姿を消してしまう、という事だろうか。

その場に居合わせていなくとも、まるで居合わせていたかの如くに登場人物の個性をもっと豊かに描いていれば、この本は古本屋の片隅以外でも見いだす事が出来たのではないだろうか。
まさにタイトル通り、埋り候なのである。

などど偉そうな事を書いてしまったが、非難している訳ではない。
よくぞ、こんなネタを掘り当てたものだ、と感心している。
欲を言えば、という事である。

ちなみに徳山という地名も徳山市が平成の大合併で周南市となり、だんだんと忘れ去られ様としている。

徳山藩の存在もそのものも歴史の渦の中でだんだんと薄れて行くのだろう。

それだけに徳山藩を扱ったこの本は貴重だと思うのである。

武名埋り候とも―周防徳山藩秘史  西岡 まさ子 (著)