読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



火車(かしゃ)


犯人追跡中に拳銃で足を撃たれて休職中の刑事。
その刑事のところに妻の従兄弟のさらにその息子という遠縁の親戚がいきなり現われ、婚約者が行方不明になったので探して欲しいと言い出すのが話の始まり。

行方不明の女性を捜すうちにいろんな事実が見えて来る。
実はその女性は過去に自己破産の過去を持っていた。
実はその自己破産した女性は全く別の人だった。
詳しく書くのは未読の方に失礼なので書きませんが上の二行ぐらいなら問題はないでしょう。

ノンフィクションでは無いでしょうから実際の話では無いにしろ、捜査というのはこういう風にやるものなんだろうなぁ、と感心してしまいます。
しかも休職中なので警察手帳を使わずに。

カードローン地獄に陥り、多重債務者となってしまった人間が自己破産をしてまた借金をチャラにして人生をやり直す。
その行為に対してはカードで支払う目途も無いのに使いたいだけ使って贅沢をした上で自己破産とは、なんと無責任な!
という世間の声がありますが、作者の言いたい事は、カードローン地獄に陥った人を助ける弁護士の言葉に表れています。

弁護士の説によれば、カードローン地獄に陥った人が悪いわけではない。
カードローン地獄に陥った事態と交通事故との類似を論じ、消費者信用という産業の構造を含めて批判します。
また、そういう構造だという事を教えて来なかった教育も悪いと。

カードローン破産した人も「ちょっと幸せになりたかっただけなのに・・・」なのだそうです。

なるほど、確かに産業構造から言えば、消費者信用の業界の取扱高は異様としか言い様が無く、それだけの金額を信用販売で取り扱うと言う事は債務者はいずれ消費者金融に流れざるを得ず、従ってなるべくしてなった多重債務者なのだ、という。

果たしてそうでしょうか。
確かに業界はそういう甘い勧誘の手でいろんなカードを個人に持たせ様とするでしょう。ですが、だからと言って欲しいものも欲しくないものもカード支払いだからと言ってじゃんじゃん使って行く人というのは、社会へ出るべき基礎知識(前提と言ってもいいでしょう)が足りないのではないか、と思えてしまうのです。
身の丈にあった利用が出来、自己制御能力が持てる人、以外はカードなどは持っては行けないのでしょうね。
とは言え、社会へ出るべき前提のある人、無い人おかまいなしに、どこへ行ってもすぐにカードを作りませんんか?とやって来ますからねぇ。
運転するのに教習所へ通って免許証を取得しなければならないのと同様に、カードを持つにもカード免許なるものが必要なのかもしれませんね。

確かに弁護士の(作者の)言う様に、多重債務者には同情すべき点は多くあるのでしょう。

以前、ファッション関係のビジネスをやっていた私の知り合い(年配の女性です)が、もの凄い多重債務者で借金漬けでどうしようも無くなった時の事を思い出しました。

これはカードローン債務などと言う甘っちょろいものでは無く、商売にからんでの借金が含まれるので一般個人の借金の額とは桁が違います。

当初、借金の事は家族には秘密になっていた様で、家族に発覚した時点では相当な額になっていました。

それでも、当時の家を処分して賃貸へ引越し、ご主人の退職金やもろもろを充当すれば、なんとか返済が出来る、と家族一同が踏んでいたのも束の間、またまた隠していた借金が出て来て、気がついた時には、一家全員が全部稼ぎに出たところでどうしようもなく、利息だけで一日百万が必要、とまで膨れてしまった時に、ようやく諦める事にしたらしく、結局夜逃げをする事と相成りました。

その夜逃げを何故か手助けするハメになったのですが、「夜逃げって何処へ?」
と聞いても、その宛てが無い。
仮りに受け入れてくれたとしても親戚縁者のところでは追いたてがすぐにやって来るでしょう。
親しい所へは行けない。と、なるどこへも行くところが無い、という事にあらためて気がついたのです。

で結局、我が家へ宿泊してもらうしかなくなってしまった。
ちょっとした知り合いというだけで全くの赤の他人なので我が家の居場所を借金取りが掴める可能性は薄い。
我が家ではそこまでしてあげる義理も何も無いのですが、事の成り行き上、仕方無く、と言ったところでしょうか。
それからそのオバさんとオバさんの妹がしばらくの間、我が家の居候となったのでした。
自己破産の手続きが完了するまで、債権者から身を隠すわけです。

ところが、この居候のオバさん、普段の贅沢な暮らしから抜け出す事が出来ない。
我が妻にしてみれば、もっと無関係な状態であるにもかかわらず、三度三度の食事を用意しなければならない。
その食事にしても満足して食べてくれりゃ、まだしも、一口箸をつけただけで、
「あぁ、これ、もう要らんわ」
などと平気でおっしゃる。
妹さんが気を使って「すみませんねぇ。わがままで」などと言いながらオバサンの残りも片付けようとする。

食後に軽くアルコールでもと出した時には唖然としました。
「なぁ、ヘネシー無いんかいな」
身の程をわきまえない、というのはこういう人の為にある言葉なのでしょう。
もう救いようがない。

それに債権者と言ったって消費者金融のプロばかりではないのでした。
債権者のかなりは一般の人。つまりはシロウト。
シロウトのなけなしの金を来月返すから、とか適当に言って騙し取ったようなものもかなりあるのではないか、などと思い始めていました。

オバさん姉妹はかなりの長い期間、我が家へ滞在し、やがて自己破産手続き完了で出て行きました。

それから何年かしてばったりと出会う機会が有ったのです。
今、仕事をしているのだという。
どんな仕事でのかを聞いてみたところ、ダマシの化粧品を電話セールスで売りつける仕事だと言う。
そんな事をしてお金にして恥ずかしいとは思いませんか?
つい、言わずもがなの事を言ってしまった。
するとどうでしょう。
「そんなん、騙されるアホが悪いに決まってるやん、何言ってんの」
その言葉を聞いた時に確信してしまいました。
この人は自己破産手続きが完了した時にも同じ事を思ったのだろうと。
「来月返すからと言うたからなけなしのお金融通してあげたのに・・」という個人債権者の気持ちに対しては「そんなん、騙されるアホが悪いに決まってるやん」だったのでしょう。
あらためて、債権者からの隠れ家を提供した事が果たして良かったのか、どうだったのか、と疑問が芽生えて来てしまったのです。

あらぬ方向へ話が流れたようでもありますが、これは「金を借りる」→「返せなくなる」→「さらに高利の金を借りる」→「さらに借金が膨らむ」→「自己破産の道を選択する」という人達がその間に何を考え、何を学んだか、にも繋がる話ですので敢えて挿入させてもらいました。

本に戻りますが、最後に行方不明の女性は見つかるのですが、作者はその後には何も触れない。
それまで書いて来た事で充分だろ。という訳です。
その後どんな話し合いが行われたのか、彼女はその後どうなったのか。
その一切を読者に委ねているところが潔く、気持ちがいい。

テレビドラマのように、その後のその後、さらにその5年後、10年後までさらされてしまっては、観る側は想像力を働かせる事も出来ない。
ああいうのを蛇足と言うのでしょう。

火車  宮部みゆき (著)



14歳 -Fight


この本、内容を読んでいくうちにかなり古い本だな、という事に気がつきます。
今時の中学生などが読もうものなら、
「だっせぇー」
「うざっ!」
「ちょっと痛いよ。この主人公」
などと言う声が聞こえて来そうです。

学級崩壊などというのはかなりの昔からあった話なのでしょうが、昨今は学校での暴力沙汰云々よりも不登校児童の多さの方がもっと問題の根が深い事を物語っているのでは無いでしょうか。

学校には番長連中が居て、などと言う分かりやすい構造はもはや現在のものではないでしょう。

その番長には取り巻きが居て、さらにそのバックには暴走族が居て、その更にバックには組関係の末端組織が居たりします。

「いじめ」と言っても暴力によるカツあげだけなので分かりやすい。
今の「いじめ」の本質まではもちろん知りませんが、この本での「いじめ」にはまず「シカト」というものが登場しない。
現在の「いじめ」の最たるものまず「シカト」でしょうし、携帯メールなどもはびこっておりますので、おそらくかなりの陰湿なものではないか、と想像してしまうのです。

そういう事を差し引いても、この主人公(生徒会長)の愚鈍なまでのひたむきさには何か心を打たれます。

ちなみに中学に生徒会って有ったんでしたっけ。
自分の頃を思い出してみてもその存在はまず思い出せない。
そして現在もそういう組織はあるのでしょうか。

それはさておき、何の因果か生徒会長になってしまった主人公は、喧嘩が強い訳でも自分の言いたい事をはっきり言うタイプでもない。

生徒会長になってまずやり始めた事は「タバコの吸殻拾い」。
次にやる事は「ポスター作り」。
「いじめ・暴力は許さない」というポスターを学校中に貼って行く。
即座にポスターには「目立つなよ!」と赤いスプレーでのなぐり書き。
目の字には安全カミソリが貼り付けてある。
そう、脅しです。
この主人公の面白いところはその反応を見て意気消沈するどころか逆に喜ぶところなのです。
「気にしてくれるやつらがいるんだ」と返ってわくわくしているところがちょっと常人では無いですね。
この本の時代では教師による暴力も日常茶飯だったようです。
教師が暴力でも振るおうものなら、「体罰教師」として速攻でマスコミに叩かれはじめたのはだいぶ以前の事ではなかったでしょうか。

主人公は二度目のポスターを貼り、教師に対しても暴力反対を訴え、開かれた生徒会室に、という事で、そこでコーヒーを飲むも良し、マンガを読むも良し。
と学校の雰囲気をどんどん変えて行ってしまい、ワルガキ共も仲間に誘い入れ、暴力の言いなりにはならないぞ、という空気を学校で一杯にして行く・・・ていうようなお話なのです。

一辺の清々しさは確かに残りますが、さて現在の学校に当て嵌まる類のものなのかどうか・・そのあたりは皆目分からないのであります。



Good Luck


グッドラック  アレックス・ロビラ & フェルナンド・トリアス・デ・ペス著

少年時代に親友だった二人が54年の歳月を経て再会する。
一人は無一文から会社を起し順調に大きくして来た成功者。
もう一人は祖父・父が順調に大きくした会社を引き継いだものの同業他社との競争に勝てず、業績を悪くさせるばかりか、破産までしてしまう失敗者。
失敗者が成功者に言う。
「僕も君みたいに運さえあったらなあ・・・」
そこで成功者がある物語を話して聞かせる、というお話。

「運は呼び込む事も引き留める事もできない。
 幸運は、自らの手で作り出せば、永遠に尽きることはない」

そのお話というのが、おとぎ話なのです。

「幸運が訪れないからには、訪れないだけの理由がある。
 幸運をつかむためには、自ら下ごしらえをする必要がある」

「幸運を作るというのは、チャンスに備えて下ごしらえをしておくこと。
 だが、チャンスを得るには、運も偶然もない。
 それはいつでもそこにあるのだから」

おとぎ話が訴えたいことは、
いろんなビジネス本でも語られていたり、案外宗教本にも語られているかもしれない。
中には言葉を変えて会社の標語になっていたりもするでしょう。
それがおとぎ話だけに非常に新鮮でシンプルなのでしょう。
素直に頭に入ってきますし、心に何かが残ります。

いくつものキーワードと共に。

「欲するばかりでは幸運は手に入らない。
 幸運を呼びこむひとつのガギは人に手をさしのべられる広い心」

「下ごしらえを先延ばしにしてしまえば、幸運は絶対に訪れてはくれない。
 どんなに大変でも、今日できることは今日してしまうこと」
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この本を読んで何かを感じた人、感じなかった人、人それぞれですから、それぞれの読み方があってしかるべきで、感じない人が可哀想だなどとは露ほどにも思いません。
ですが、何でも斜に構えて読んでしまうよりは、素直に受け入れる心も寛容なのでしょうね。

私は何の予備知識も無しで読んだのですが、出版後わずかの間に世界のベストセラーの仲間入りをしたそうな。
それだけ、何かを感じた人が多かったと言う事なのでしょう。

Good Luck  アレックス・ロビラ (著) フェルナンド・トリアス・デ・ペス (著) 田内 志文 (翻訳)