読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



道徳の時間


「道徳の時間を始めます。殺したのは誰?」ってインパクトあるなぁ。

とにかく、ぐいぐい引っ張られるような勢いのある小説。

関西のとある地方の町で発生したイタズラ事件。
小学校のウサギの死体の傍らに「生物の時間を始めます」のメッセージ。
女児をブランコから離れなくさせておいて傍らに「体育の時間を始めます」のメッセージ。
いたずらで済まないのが、陶芸家の老人が自殺を図って死んだ後にみつかった三つ目」のメッセージ。
「道徳の時間を始めます。殺したのは誰?」

とはいえ、この一連の事件はこの話の中では、ほんのおまけ。

メインは13年前に起きた殺人事件。
小学校で講演中の元教師の著名人。
そこへ、かつての教え子で現在大学四年生の男が演壇につかつかと真っ直ぐに歩んで行き、生徒、父兄、教師たち、と衆人環視の中、講演者を刺し殺してしまう。
逮捕された後も一切しゃべらず、黙秘を貫き、唯一話したのが精神鑑定にかけるかどうかの時だけ。
「自分は正常だ。責任能力はある」と。
そして裁判にて判決言い渡しの後、裁判長から一言を求められ、発した言葉が

「これは道徳の問題なのです」の一言。

あまりに摩訶不思議なこの犯人を扱ったドキュメンタリー映画を作成したいという話が主人公のところへ持ちかけられる。
主人公はビデオジャーナリストのベテランで、ある事件でつまづき、ここ半年ばかりは休業中。
ドキュメンタリー映画を作成したいというのはまだ駆け出しの若い女性監督。

そうして、ドキュメンタリーと言う名の創作映画の撮影が始まる。
女性監督は13年前の当時を知る元小学生や教師、父兄などを次々とアサインし、インタビューして行く。
誰もが当時の青年がナイフを取り出し刺したに違いない、と言う先入観ありきだったのだが、結局、そのナイフを取り出す瞬間をはっきりと見たと言う人間は居ない、という方向にインタビュアーは誘導して行く。

一体、この監督兼インタビュアーはどこへ向かって行くのか。
事件を冤罪事件としてねつ造してしまうのか。

途中は、さほど面白い展開でも無いのに、とにかく先を知りたくなってしまう。

この単行本、興ざめなのは、巻末に江戸川乱歩賞の選者評が掲載されているところ。
そう。この本、江戸川乱歩賞という賞の受賞作なのだ。
受賞作を発表する雑誌への選者評の掲載は当たり前だろうが、それをこの本を目的で読んでいる人に読ませるか?

選者達の多くはこの本の結末について、結構クソミソ。バカバカしくて話にならない、とまで言う人も。その人は全般的にボロクソだったが・・。
それほどではなくても結末はひどいが次回作に期待しよう、という消極的賛成の人が多いように見受けられた。

ミステリというジャンル、そもそも結末ですべてを明らかにしなければならないのだろうか。

結局、謎が謎のままでは受賞作にはならないのかもしれないが、世の中の事件、大抵は何某かの謎は残ったままだろう。
他のジャンルなら、結末はぼやかして読者の想像に委ねるということしばしばだ。
結末のリアリティの無さをけなす前に、「必ず最後に謎は明らかになる」というミステリィのジャンルならではのリアリティの無さに言及する人は居ないのだろうか。

そうか。この本のキーワードは「道徳」だ。

自ら受賞作に選んでおきながら、ボロカスにけなし、しかもそれがその本の単行本の巻末に掲載させるという大作家たちや出版社の行為は道徳的にはどうなのか。
この選者評を載せることで「これは道徳の問題なのです」という言葉を後押しするのが出版社の本当の狙いだったのかもしれない。

道徳の時間  呉 勝浩著



土漠の花


日本の自衛隊。
一度も戦闘をしたことの無い軍隊。

そんな彼らが、ひとたび武装集団に襲われたらどうなるのか。

ソマリア沖の海賊退治の支援にてジプチに拠点を置く自衛隊。
彼らに与えられた任務は消息を絶ったヘリコプターの捜索活動。

12人の部隊がその捜索活動のためにソリマア国境(実際にはソマリランド国境)へ向かう。
そこへ現れたのが救助を求める3人の女性。

ソマリアの氏族間闘争にて、集落をほぼ根絶やしにされたという。
彼女たちそのものが自爆テロ犯で無いことを確認し、部隊長は彼女らの保護を約束する。
それも束の間、3名の女性の内2名が撃たれ、自衛官もまたたく間に2名撃たれる。
女性たちを追って来た氏族の武装集団が自衛官たちをあっと言う間に包囲する。

「我々は日本の自衛官で」と自らの立場を冷静に相手に話そうとする部隊長は、五・一五事件の犬養毅の「話せばわかる」を彷彿とさせられる。武装集団は相手は有無を言わさず射殺する。

全員が並ばせられたところでもはや万事休すだ。
もはや真実を誰にも知られることなく土漠の土となって消え行くのみだ。
と思った時にたまたま小便に出ていた一人の自衛官が帰って来、その光景を目の当たりにして、敵を掃射した瞬間に皆、岩陰へと避難する。

「命令も無しに撃ってしまいました」
って、さんざん味方が撃たれているのに・・。

これが戦闘をしたことの無い自衛隊という軍隊なのだろう。

自衛隊の拠点まで70キロ。
追手に待ち伏せされやすい幹線道路を迂回しながら、大雨の後の濁流や砂嵐に襲われながら、時にはそれを逆に味方に付ける知恵を発揮しつつ追手と闘う集団になって行く。

途中、親切にしてもらった集落の子供たちを助けるために舞い戻り敵と戦う。
そうして一人、一人と味方を助けるため、はたまたは子供たちを助けるために闘い、命を落として行く。

逃げ込んだ廃墟の街では、砂嵐に巻き込まれ、そこでその追手の氏族とアフリカ最強の武装集団が一緒になり、そこへ攻めてくることを知る。

この時点で生き残りは自衛官5名と助けた女性1名。
圧倒的な人数の差。兵力の差。銃火器・武器弾薬の差。

逃げようという部下を前に指揮をとる曹長は、戦略をたててゲリラ戦を挑む決断をする。
もはや、戦わない軍隊の姿は微塵もない。

この話に登場する二人の曹長も一曹も士長も皆、英雄だ。

これはフィクションなので、実際にこんな英雄が居たわけではないだろうが、もし、これがノンフィクションだったとしてもやはりフィクションとしてしか紹介されないだろう。

自衛隊が戦った。
そんな事実が公にされれば、野党やメディアからどんな批判が集中するか。
国内は蜂の巣をつついたようになってしまい、PKOにしろなんにしろ自衛隊の海外派遣など二度と認められないだろう。

闘って命を落とした自衛官も不注意による事故死扱いに甘んじざるを得ない。
英雄が愚鈍な隊員として歴史に名を刻む。
やはり、これが日本の自衛隊なのか。

秋元康をして「この小説は危険です。やらなくてはいけないことを片づけてからお読みください」と言わしめているが、本当だった。読み出したら絶対にやめられない本だ。

土漠の花 月村了衛 著



天才


あの石原慎太郎があの田中角栄を第一人称で書く。

なかなかに想像できなかったので、思わず読みたくなってしまう。

田中角栄と言えば、コンピュータ付きブルドーザーとも呼ばれ、天才的な記憶力でエリート官僚の名前や家族構成なども頭に入れ、官僚を使いこなす天才だった、というあたりはあまり書かれていない。
一人称なのだから、自分を天才とはまぁ書けないか。

岸・池田・佐藤と続いた官僚出身の総理大臣の後に本命は官僚出身の福田。
田中には官僚出身の総理とは発想の原点が違う。

その福田を破って総理になり、日本列島改造論やあの時点での日中国交改善には、賛否両論あるだろうが、官僚の発想や実行力では到底成し遂げられないことを、角栄氏は実行してきた。

石原慎太郎氏は、田中政治を若い頃は批判していたが、彼もまたも官僚の出身ではないだけに、実はその政治家としての類まれなる実行力には共感するもの大だったのだろう。

中国との接近、アメリカのメジャーに牛耳られていた石油についても、アメリカに依存しない自主外交にて資源ルートを確保して行く。

そんな脱アメリカ属国的な外交がアメリカの虎の尻尾を踏んでしまう。

田中角栄を失墜に追い込んだロッキード事件という事件は、石原氏が書くようにまさに奇妙な事件である。

アメリカでのコーチャンらの証言は、「証言内容に偽りがあっても、偽証罪とならない」つまりは何を言ってもOKという摩訶不思議な証言を元に始まったあの事件、結局、日本の司法は田中氏を有罪と断じ、政治の表舞台に立てないようにしてしまった。

政治家になってからの田中角栄氏が成立させた議員立法の数は記録的なもので、その後その記録を塗り替える政治家は現れそうにない。

石原慎太郎氏は自らの都知事時代に国相手に何度も折衝をしたがなかなか聞き入れてもらえず、その時に角栄氏が居たなら、さぞかし違っていたことだろう、と思いを馳せる。

昨年の北陸に続き、今年の3/26には北海道まで新幹線が到達した。

それを聞いたとしたら、列島に隈なく新幹線を走らせたいと思っていたであろう角栄氏は喜んだのだろうか・・・。

角栄氏が望んでいたのは脱東京一極集中、地方分権だったのでは無かったか。

昨年・今年の新たな新幹線開通は、ますます東京への集中を促すものになってやしないか。角栄氏の本音を聞きたいものである。

天才  石原 慎太郎 著