読み物あれこれ(読み物エッセイです) ブログ



ロゴスの市


昔、塾の講師をしていた友人が高校生の英訳の回答を見て「最高の訳なんやけどなぁ。残念ながらテストでは0点や」と言っていたのを思い出した。

受験英訳、学校英語の英訳では0点になっても仕方がないぐらいの意訳をするのだろうとは思ってはいたが、翻訳という仕事、こんなに大変な仕事だったのか。

スローテンポなというと語弊があるか。熟考に次ぐ熟考を重ねる翻訳という仕事を生業とする男が主人公。
彼が思い焦がれる人は大学時代に同じサークルの仲間だった女性で同時通訳というスピード勝負の仕事を生業とする。

翻訳者の仕事を軽視していたわけではないが、原作者に比べてその知名度の差からしてもここまでクリエイティブな要素が入り込むものだとは思っていなかったが、考えてみればかなりありそうな話だ。
第一人称一つとったって「僕」「私」「俺」・・・どれを選ぶかによって登場人物のイメージは大きく変わる。

原作に忠実なのは当たり前なのだろうが、表現の仕方は原作者と同等、ひょっとしたら、自由奔放に書いているかもしれない原作者よりも原作者の気持ちを推し量りつつも、より最適な表現、情景が思い浮かぶような日本語を追い求める翻訳者の方が労の多いクリエイティブ作業なのかもしれない。

でもさすがに原作の一文を訳すのに最適な表現を見つけるのに何日も何日もかけていたら生産性は低すぎるわなぁ。

方や、同時通訳の女性も元の言語を別の言語に表現し直すという面は同じであっても、熟慮を重ねられる翻訳とは違い、瞬間瞬間が命。

国と国との交渉事の通訳ともなれば、誤訳は許されず、神経をすり減らす仕事であることは想像に難くない。

どちらも言語と表現との格闘だが、裏方さんであるのは双方同じ。
翻訳者の方が、本に名前が載るだけ、日なたと言えるだろうか。

海外を飛び廻る女性と家に閉じ籠もりっきりで文字と格闘する男。

二人は長い年月を経てようやく、年に一度会えるようになるのだが、それは恋愛というより他言語を表現する戦士たちの束の間の休息の如くだ。

世の中の翻訳者がすべからくこのようではないかもしれないが、あまりに翻訳者に敬意を払って来なかった自分のこれまでの読み方については反省せねばならないとつくづく考えさせられた一冊だ。

ロゴスの市 乙川 優三郎 著



呪文


とある地方のさびれていく一方の商店街。
新規の出店はあるので全くのシャッター商店街というわけではないのだが、その新規の出店がまた、長続きしないのだ。
半年やそこらで店主が夜逃げするケースも。

そんな中商店街の中でも若手のホープと見做され、一定の客層を掴んでいる居酒屋の店主。
その居酒屋へクレーマーが現れる。クレーマーとこの本では書かれているが、実際にやっていることはクレームではなくゆすり、たかりだろう。
私の知っている限りの店ならほとんど、この客の初っ端の態度、物腰だけでお引き取り願っているだろうに、この店主、結構言いなりのサービスをした上で、かなりあくどいいちゃもんをつけられる。
最後は警察まで呼んで一件落着かと思いきや、このゆすり野郎にネット上で店や商店街全体をターゲットにあることないこと書きまくられて、その結果、商店街全体に閑古鳥が鳴く。

このゆすり野郎に堂々と立ち向かった店主。ここまでは良かった。
この商店街の良さを知ってもらおうとネットで呼びかけた会の参加者へ演説をぶつあたりから、なんか変なムードになっていく。
いい客であるためにはどうしたらいいか、自分でできることは何か考えてみようみたいな、そりゃ筋がおかしいだろうと普通なら思える話をはじめる。

その会の発展系が「未来系」なる組織。
その商店街のためになることをやろう、という主旨だったはずなのだが、商店街の店に不平を言う客は悪い客だとばかりに追い出しにかかるかと思えば、いつの間にか自分をクズだと思う人間の集まりになっているし。

「クズ道とは死ぬことと見つけたり」って葉隠武士道の武士がクズにされてしまってるし。
世の中の大半の人が実は死にたがっているっていうのが前提で、だからクズは皆しななきゃならないなんて思想に簡単に共鳴していく人間がぞろぞろ現れるわけないだろうに。
実際の葉隠武士道は自殺のすすめじゃないよ。いつでもそのぐらいの覚悟を持てという意味であって、クズに置き換えられて、クズの自殺願望に使われるような言葉じゃないだろう。

商店街への意見を封じるにしろ、クズが自殺願望者を募ろうが、それが商店街の未来にとって良かろうはずもない。

そんなんじゃ、ますます量販店に客を持って行かれるんだろう。

なんにせよ、気持ちの悪い話だった。

呪文 星野 智幸 著



本屋さんのダイアナ


対照的な家庭で育った女性二人の物語。

方や母子家庭で母親は水商売、帰りも遅く家でも学校でもひとりぼっち。
方や恵まれた家庭で育ったお嬢様。

小学時代に大の仲良しになり、それぞれが自分に無い環境をうらやましがりながらも、一人が中学受験をする時から疎遠になる。
それぞれの生き方をして来た二人が大人になって再会するという話。

二人に共通するのは本が大好きなところ。
「赤毛のアン」の現代バージョンとの謳い文句だが、そもそもの「赤毛のアン」を読んだ記憶が無い。

母子家庭の方の名前がダイアナ。
母親がティアラで娘の名前はダイアナ。
ティアラは源氏名だが、娘のダイアナは本名。

きょうびの話、難解な漢字をあてがって外国人っぽい名前は珍しくないが、この母親、あろうことか「大穴」と書いて「ダイアナ」と名付けている。
いくら周囲が「子供に名前をつけるのに親が子供の幸せを望んで命名するのは当たり前だ」と言ったところで、いくら「ダイアナ」という名前に思い入れがあると言ったって、「大穴」はないだろう。
他にいくらでもまともな当て字があったろうに。役所はカタタナの名前だって受け付けてたんじゃなかったっけ。
小さい頃からずっと髪の毛を母親に金髪に染められているぐらいなんだから、カタカナで通しゃ良かったのに。

ストーリーの中では「ダイアナ」と書かれているが、実際には「大穴」さんだよ。そのカタカナを「大穴」に置き換えてしまえば、物語の印象が思いっきり変わりそうな気がする。
そのそもダイアナと読む人の方が少ないだろうし。

内容についてもう少しふれてみるつもりが、結局名前のことばかりになってしまった。

本屋さんのダイアナ 柚木 麻子 著